健康状態に関するご報告

10月20日長距離走にドクターストップが掛かりました。

 

具体的な診断内容としては冠動脈のうち1本が狭窄を起こしていることと、過去に心不全があったようで心臓の一部が壊死している、ということでした。

 

当日の朝も3kmほど走ってからお医者さんの診察を受けたぐらいで、体感と診断内容が一致していなくて、その状況は今現在も続いています。

 

時々胸の辺りが痛いとか、なんとなく息が切れているなと感じたりする時間があったりもするのですが、ごく短時間で、しかも「病気を抱えているらしい自分」に意識の焦点が合ってしまった時に限定されているような気もするので、「気のせい」なのかな、と思ったりします。



ここ数年の自分の行動を考えると「間尺に合わない」と思ったりもするのですが、冷静に考えてみれば生まれてこの方ずっと肥満児で、特に20代から暴飲暴食を繰り返した挙げ句、30代前半の一時期は肉体の限界近くまで肥満が進行し、足の指が腐りかけたりアゴが腫れ上がって口が開かなくなった時期があり、診断こそ出なかったけど、この時期は恐らく糖尿病だったと思います。

 

そもそも母方の家系はかなり濃い糖尿の家系でして、その点ではサラブレッド的だったりしますし。

 

その後、30代の後半の左アキレス腱部分断裂を切っ掛けにネトゲ廃人になって仕事以外はほぼ「引きこもり」の3年あまりがあり、その末期には実際に「軽度の糖尿病」の診断も受けています。

 

人生の大部分で不摂生の限りを尽くしているわけで人生変えようと心を入れ替えて運動を始めた当初は歩くだけで酸欠を感じるような状況でした。



そんな状況を経ていることを踏まえると、体に不可逆的な負債が残っていること自体はなんの不思議もない、むしろ典型的な「自業自得」だと思ったりします。



心を入れ替えてからも例えば昨年でも3ヶ月ほど仕事に熱中して運動をサボった時期があったり、そもそも食事に関しても改善はしているのですが、質はともかく量のコントロールには常に課題を感じていたりもしました。

 

質についてもアイスクリームに嵌まったり、鶏皮に嵌まったり、どうしてもコーラのまずに一日を終えられない時期があったり、最近でもちょくちょくチート的な食材に依存していた時期があったりしましたしね。



「走っていること」を免罪符にしていたのかもしれないという思いもあります。

 

走ること自体は良いことだったと思うし、そこから得たものは大きかったと思うのですが、疲労や食事の量、睡眠といったものについてもっと気を使うべきだったかなとは思います。一時期はむしろ走ることにも依存してしまって、睡眠に影響が出るような夜遅い時間でもその日走れていないことに気付くと走ってしまっていた時期もありました。



そもそも遺伝や体質、その時々の体調やバイオリズム的なこと、現状の医学、科学では認識できていないものも含めてパラメーターは無限に存在するでしょうし、日常の自分の行動が客観的に数値化されているわけでもないことを考えると、「節制」ということ自体がどこまで客観視できる概念なのかな、なんて根源的な疑問に行き着いたりもしたりしますが、その点は置いておくとして。



お恥ずかしい話ですが、今回自分ごととして改めて動脈硬化について学んだことは、「基本、自然治癒しない」ということでした。

 

健康オタクのハシクレとしてはリサーチ不足も甚だしい話しですが、血液サラサラ的な健康食品マーケティングに認知が毒されておりまして、薬どころか食物由来のナットウキナーゼとかケルセチンとかポリフェノールみたいな栄養成分が効くんじゃない?とか、LSD(幻覚成分じゃなくて「ゆっくり走れば速くなる」の方)的な運動でも徐々に改善するんじゃ無い?とか思っていました。なんとなく。



自然治癒しないとなれば、過去の悪行の結果は地層のように残っているわけで、なんなら心を入れ替えて以降のちょっとした「気の緩み」みたいなものもちょっとずつではあったとしても緩んだ分は歴然と降り積もっている訳です。

 

この「新事実」とも突き合わせて、酷かった頃の自分を思い起こせば、むしろよくここまで立て直したな、と思ったりもします。



ChatGPTに問い合わせたところ、冠動脈狭窄に効果のある治療法として「水素療法(自由診療)」なんて香ばしそうなものもリストアップされましたが、人力で追加調査したところ期待される効果は予防もしくは症状の進行抑制までらしいです。

 

つまり、現状では今の状況を改善しようと思ったら手段は外科的な措置に限定されるということです。

 

術式としては主にカテーテルかバイパスの二択になるようですが、僕の場合は狭窄が進んでしまっていて比較的患者の負担の小さいカテーテル手術は難しいかもしれないというのが今のところの主治医の先生の見立てです。



前述のとおり、日常生活に支障がない、自覚的な症状のない状態ではあるんですが、放置したところで時間の経過と共に着実に事態は悪化する訳です。

老化を考えれば、節制すれば現状維持できる、なんて話しでも無いわけです。

 

むしろ、現状の日常生活に支障が無い状態は、少なくとも今の主治医の先生にも説明のつかないような「奇跡的なバランスの上に成り立っている状況」である可能性もあり、ちょっとした切っ掛けで歩くのも難しいような状況に移行することもあるのかもしれません。シランケド



昔、「ゾウの時間ネズミの時間」という生物学の啓蒙書を読んだことがあるのですが、我々哺乳類にとって心臓は消耗品で、それぞれの代謝に合わせた拍動リズムがあってそれぞれの種ごとに概ねの寿命はバラバラでも一生涯に打つ拍動数自体は概ね哺乳類全般で一致しているという内容でした。

 

現状の僕はいわゆるアスリート心臓に近い低心拍数を維持していますが、心臓自体に酸素を供給しているメインの補給路が詰まっている以上、大きな負担が掛かっていることは確実です。



こうやって色々な事実を並べて見ると「開胸して自前の動脈のうち比較的使っていないものを移植する手術を受ける」以外の選択肢は理性的に考えると存在しないらしいんですね。

正直医学史の中で「役に立っていないように思われていたけど後から役割が見つかった内臓器官」の事例を複数知っているので若干不安にはなりますけどね。



ここに至るまではかなり狼狽えたり、慌てたりもしましたが、色々調べて考えてみて、選択肢がないことで逆に落ち着きを取り戻していたりします。

 

もう、俎の上の鯉と言うヤツです。



特にコロナ禍以降、去年の11月ぐらいから走ることを再開し、以降の経緯は大体このブログでも報告してきました。

 

できるだけ前向きな筆致で書いてきましたが、コロナ禍以前に走っていたときのように自分なりに走った分だけ速くなる感覚は感じることができないでいました。

 

老化かな?と思っていたらもっと深刻な理由が隠れていたわけですが、逆に言えば老化では無かったわけで、その点落ち込む理由は一つ減ったと言えなくもないです。

 

 

幸いにも今のところ体力は同年代の平均以上にはあります。

 

術後にどうなるかは「神のみぞ知る」なんですが、自分としては今より良くなることをイメージするように心掛けていたりします。

ちょっと背伸びをしてみたはなし

本日27日で8月中の月間走行距離が100kmを超えました。

 

https://docs.google.com/spreadsheets/d/1oPRx9YSJPYsQ1S5rkLk8n2QBGAYUd-nYXWwZOEHvf_c/edit#gid=0



コロナ前に大会に出始めた前後は、記録も取っていなかったし、意識もしていませんでしたが、恐らくそのくらいのペースで走っていたのではないかと思っています。

 

コロナ後に「走ること」を再開して以来「あの頃の自分」を基準にして、いつまで経ってもそこに辿り着かないことに苛立って、ともすれば歳のせいにしたりしていました。

 

当然そういうこともあったと思いますが、とある職場の先輩のアドバイスから、然るべき分量を熟せていなかったかもしれないという気付きを得て、6月から月間100kmを目標にしていました。



結果、

6月 71.35km

7月 83.40km

 

6月は新型コロナ罹患の影響で10日まで走れませんでした。

7月は23日に大阪に行ったあたりから風邪っぽく、以降月末まで走れませんでした。

この2つのブランクが大きく響いています。

 

6月14日から7月13日までで118.42km走っています。この期間だけとれば月100kmを超えるペースなのですが、7月末に体調を崩したのもおそらく自分の体力以上に使い込んでしまった結果ではないかと思いますし、であるならあの時点のやり方では体力マネージメントとして月100kmペースには到達していなかったと判断しました。

 

改善策としては7月までは昼休みか夕方に走っていたのですが、暑さ除けのため、8月からは出来るだけ早朝に走ることにしました。

 

朝走る習慣が無かったので抵抗感があったのですが、考えてみれば大会はほぼ100%午前中スタートですしこれを切っ掛けにこの習慣が身に付けば大会に向けてより実践的な練習が出来るという思惑もありました。



正直この挑戦を始めてから常に疲労感があるような気はします。

朝走るとその日一日バイタルが活性化するなんて話しもありますけど、エネルギーを使い果たせば疲労感も一日継続します。

まあ、一日一食(夕食のみ)という生活スタイルもその点不利に働いていたかもしれませんが、朝の時間をやり繰りすることを考えると走ると食べるを両立するのは僕には無理でしたから、その点は止むを得ない物と受け入れるしかありませんでした。



この2年ほどは「無理せず気持ち良い範囲で走る」姿勢が身に付いてしまっていて、それはそれで良いバランスだったのですが、その枠の中にいては年齢なりにシュリンクしていくのも当然だったかなと思います。

 

今の疲労感が秋以降の大会出場で成果となって顕れてくれれば気持ちに体が引っ張られるサイクルが生まれるかもと期待はしていますが、果たしてどうなることやら?

「君たちはどう生きるか」鑑賞予定の方へのアドバイス

君たちはどう生きるか」、観てきました。

 

この駄文含め、だいぶ情報も露出してきたタイミングではありますが、折角ここまでガードされている作品なので「ネタバレなしで映画を観る」という貴重な経験は味わった方が良いと思います。



そこまで言っておいてなんですが、一つだけアドバイスがあります。

吉野源三郎氏作の小説「君たちはどう生きるか」を、ちゃんと読んでおきましょう。

昔一度読んだことがある、ぐらいな人は観る前に復習した方が良いと思います。



僕はマンガ版が流行っていた時にコンビニで立ち読みしたぐらいで、ちゃんと読んだと言えるか疑問符が付く状態で、記憶に曖昧な部分がありました。

まあ、恥ずかしながら立ち読みしながら泣いていた記憶は鮮明なのでインパクトは残っているんですけどね(^_^;)

 

どこかで読んだ「題名を借りてきただけで厳密に言えば原作ではない、ストーリーともほぼ関係ない」という怪情報を真に受けたのは失敗でしたねorz



さて、そうは言っても火のない所に煙は立たないの言葉通り、「怪情報」が出回るにはそれなりの理由があるようです。

少なくとも、本作において同名の小説は「原作」という立ち位置ではありません。



敢えて言えば「耳をすませば」の中の「カントリーロード」のような立ち位置、、、いや、そう言ってしまうと却って誤解を招くかもしれませんね。

 

カントリーロードの存在を知らなくても「耳をすませば」は理解できます。

むしろ歌詞の意味や歌の背景まで理解している人にしてみたら作中のあまりの「独自解釈」にモヤモヤして物語に素直に入れ込めない可能性だってあるかもしれません。

 

耳をすませば」の中の「カントリーロード」は劇中で示されている情報以上でも以下でもないのです。歌の持つ力は存分に利用されてはいますが、「耳をすませば」を理解するために劇中で示される以上の歌に関する情報は無用の長物です。




『映画「君たちはどう生きるか」』の中では『小説「君たちはどう生きるか」』の筋書き的なものへの言及は全くありません。

 

それでいて、物語の転換点の全てがこの小説に託されている、と言うのが僕の解釈です。



僕が知らないだけなのかもしれませんが、ここまで既存の創作物の存在に依拠した創作物は今まで観たことがありません。強いて言えば、「聖書」とかならあるでしょうね、というレベルですね。



宮﨑駿監督と言えば、自作の漫画を原作とする「風の谷のナウシカ」を含めてベースとなる著作物を影も形も無く作り替えることで悪名高い人でしたが、これまでとは正反対な姿勢ですよね。

 

小説の内容に言及がなかったのは、小説に対する最大級の敬意だと思いますし、映画の筋立てそのものが小説への過剰なまでの信頼で成立していると言えます。

 

評価が真っ二つに割れた大きな理由の一つはこの特殊な構造にあるんでしょうね。




作品への個人的な評価についてはどう書いても蛇足にしかならないような気がするのですが、そうと判っていて一言だけ言わせてもらうと

「どんな人にとっても全く触れる価値のない作品ではないのかな」

ですかね。

ゴールデンウィーク初日の朝にじわっと暖かくなったはなし。

「せかいのおきく」、観てきました。

 


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朝一ということもあって、お客さんは僕を含めて8人。

 

ゴールデンウィークの家族連れには選ばれないでしょうし、僕自身、友人の勧めで観ましたが、もしかすると勧められなければ存在自体を知らなかったかもしれません。

 

観終わって、映画になにを求めるかによって評価が大きく割れる映画だろうな、と思いました。

 

で、肝心な僕自身の評価としては、「好きな映画」ですね。



登場人物がみんないい。

 

佐藤浩市さん、石橋蓮司さん、眞木蔵人さん。

 

大きな見せ場がある訳でもないのに、ちゃんと味わいがあって、心に残る。

 

「気鋭の日本映画製作チームと世界の自然科学研究者が協力して、様々な時代の「良い日」に生きる人々を描き「映画」で伝えていくYOIHI PROJECTの第一弾作品です。」

映画『せかいのおきく』公式サイト

 

この点、「看板に偽りなし」だったと思います。

 

例えばこれが自然科学者ではなく歴史学者といった人文系の学者であったらと考えると、正直「人間への信頼」という点でこの映画はちょっと楽観的過ぎる気はします。

 

江戸時代を描いていながら、そこに居る人達はみんなZ世代、みたいな(^_^;)



でも、それがこの映画の魅力であり、伝えたいメッセージなんだろうと思います。

 

そして、それは意味のあることなんだろうとも思いました。



僕は眞木蔵人さんの演じた孝順というお坊さんが特にお気に入りです。

 

「役割」という言葉について、彼が語ったことは、ChatGPTに代表されるジェネレーティブAIの台頭によって「人間の価値」が揺らいでいる今の僕らに「本当に大事なこと」を端的に教えてくれた気がします。



岡田斗司夫氏曰くの「体液を流させる映画」ではないです。

 

観終わった後にジワリと暖かくなる、そんな映画でした。

僕を救った曲に再会した夜のはなし

2019年の6月16日、中野新橋の小さなバーが初見。

 

その年の7月8日には青山のライブハウスで。

8月29日には神戸の高台にあるホテルのレストランで。

 

コロナ前の一時期、母の看取りに入る直前に憑かれたようにライブに通っていた歌い手さんがいます。

 

四十を過ぎて岡本太郎を「再発見」した切っ掛けになった人だったり。

CD音源で満足していてライブを観に行くなんて発想のなかった僕が五十近くになって急に「ライブのための旅行」を繰り返すようになったのも、その人との出会いがあったからのような気もします。



杉瀬陽子さん、という人です。

 

 

その人との「出会い」は、おそらく2014年の8月頃のことだったと思います。

 

今は無くなってしまった「Google+」というSNSで紹介されたのを切っ掛けに「瞬きする間にサヨウナラ」という曲の存在を知りました。

手元にはもうその投稿は残っておらず、匿名同士のやり取りだった紹介者のことも記憶がおぼろげになっていますが、絶妙な、ネタバレなしのレコメンド記事でした。

 


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初めて聞いた時は何について歌っている曲なのか理解できませんでした。

 

ノローグとも問いかけともとれる語り口。

静かな悲しみとも諦めとも少し違うような、ただ事実を冷静に伝えているような、不思議な強さを漂わせたトーン。

 

何度か聞きかえすうちに、語り主の置かれた状況がぼやけた視界が焦点を結ぶように理解できた瞬間。

その時の衝撃は今でも忘れられません。

 

 

子供のころ、「その瞬間」を想像することが一番の恐怖でした。

頭から離れないそのイメージを必死でやり過ごすことに時間のほとんどを消費していたような記憶もあります。

当時は、それは妄想と言い切るのは難しい「現実的な可能性」でしたしね。

 

 

そんな過去のある僕にとって、決してポジティブとは言い難い主題を扱ったこの曲を僕は取り憑かれたように何度も聴き返しました。

 最初の衝撃が通り過ぎた後も、繰り返し、繰り返し。

どちらかと言えば音楽は好きな方でしたが、時間を消費する、暇つぶしではなく、文学作品を読み解くように一つの楽曲に真摯に向き合ったのは初めてのことでした。

 

 

彼か彼女か、悲嘆の欠片も感じさせず、僕ではない誰か、或いは何かに向けられる言葉に耳を澄ませる

そんな時間を繰り返し過ごしたあるとき

僕は突然、今までにないほど自分の心が凪いでいることに気付きました。

 

 

気付いたのです。

僕が語り手に感じていたのは「うらやましさ」だったことに。

 

 

そんな瞬間をもし迎えざるをえなくなった時、こう感じられるようになりたい。

 

 

 

そこから立ち返って考えると、子どもの頃から僕の心を苛んでいた恐怖の対象は、もしかすると「末来」そのものだったのかもしれません。

まだ来てもいない先のことに思い悩み、「今この瞬間」を浪費し続けていたのですから。

 

この気付きの瞬間に人生が変わった、と言うほどことは単純ではありませんでした。

「そのことはそのこと」でしたし「悟り」は一瞬のことで、心はすぐに状況に流されます。

 

ただ、のちに他のいろんな体験を重ねる中で、この「回向」の瞬間は何度も思い出され、今の僕を作る礎の一つになったことは確かなことです。



それからしばらくして、この曲が一幅の絵画からインスピレーションを得ていることを知りました。

明日の神話」という、メキシコの廃業したホテルから奇跡的に回収されたその作品を渋谷で初めて目にしたのは2019年3月24日のこと。

ギリギリ同時代を生きていた僕に取っての遅すぎる「岡本太郎」との再会の瞬間でした。

明日の神話




さて、2023年4月8日コロナ禍以降で初めて彼女のライブに参加しました。

 

その日のライブ告知板



僕を含めてこの日の客席はシャイで、ピアノの共鳴音が静まるまで待ってから拍手が始まるような、決して「ノリが良い」と言えるようなライブではありませんでした。

 

でも、それは彼女の音を一粒たりとも聞き洩らしたくないという観客の共有する意識の顕れだったようにも思います。

 

実際、この日の彼女は素晴らしかった。

一曲を除き、全てピアノの弾き語り。

アルバム収録とはひと味違うアレンジ。

観客一人一人の顔の見える、小さなライブハウスでアップライトピアノに向き合った彼女は、僕から観ると自分のホームグラウンドで一番自分が輝くところで勝負し続けた2時間弱だったと思います。

 

そして、迎えたアンコール。

自分の原点であるとしてコールされた曲名は「瞬きする間にサヨウナラ」でした。



正直、予約は入れていたもののギリギリまで大阪行きを迷っていました。

この一週間奥歯のかみ合わせが思わしくなくて、週の半ばから顔の右半分が腫れ始め、今朝の段階ではマスクをしていても腫れ上がっているのが判るような状況で。

折角大阪まで行くのだからと、当初は午前中のうちに着いてどこかで観光でもしてからと思っていたのが、現実は地元の病院で消炎剤と鎮痛剤を処方してもらってなんとかギリギリの時間の新幹線に乗った時点ではまだ痛みが引かない状態。

 

 

多少無理を押してでも参加を決意した自分を褒めてやりたいです。



ライブハウスを出る際は直接杉瀬さんにお礼を言う機会にも恵まれました。

あの曲を世に出してくれたこと。

あの夜をしめる一曲に選んでくれたこと。

語りたいことが溢れると、言葉はシンプルになってしまうのか、振り返ってみると僕の思いは全く載せることは出来ませんでした

でも、きっと、どれだけ言葉を尽くしてもこの思いは伝わらなかっただろうと思えば、あれで良かったんだと思っています。

「シン・仮面ライダー」にモヤってしまった人たちへのとある提案

「シン・仮面ライダー」観てきました。

 

本作の後、同日中に「Winny」も観てきたのですが、個人的な評価としては100円追加してDolby Atmos+一回り大きなスクリーンで観た本作より「Winny」に軍配が上がりました。

ジャンルがかなり違うので比べるのもなんですが「シン・仮面ライダー」だけ観て帰ることになったらちょっとモヤッとしたかもしれません。

 

そんな微妙な評価の本作でしたが、帰ってからいくつかネット上のレビューを観ることでちょっと視点が変わり、若干評価も変わりました。



今回は基本ネタバレなしで、

 

  • 全く初見の人には「どういうつもり」で観たら良いかのヒント
  • 僕のように実際観て若干モヤってしまった人へのこういう視点はどうでしょう?という提案

として書いてみました。



まず、いくつか観た情報の中で ↓ この記事の情報はかなり役に立ちました。

www.itmedia.co.jp

 

ちなみにこの記事もネタバレなし前提で書かれていますので、初見前の状態で観ても問題無いと思います。

 

 

さて、僕はシン・シリーズについてはシン・エヴァンゲリオンを除いてゴジラウルトラマンと観てきたのですが、三作を比較すると本作は最も「引用」や「オマージュ」の要素が多い、いわゆる「ハイコンテクスト」な作品だと感じました。

先に紹介した記事によると100%堪能しようと思ったら最低でも以下の三点は抑えておく必要があるようですね。

 

 

 

 「真の安らぎはこの世になく -シン・仮面ライダー SHOCKER SIDE-」

 

ちなみに僕は直接的には三点とも未見です。

内容の一部を過去に触れた引用や解説を通して間接的に把握しているぐらいですね。

 

映画の主題やダークなトーンは原作漫画から引き継いでいる要素が大きく、アクションシーンは1971年放映のテレビ番組からの引用、オマージュ要素がかなり存在するとのこと。

 

三つ目のコミカライズ作品については現在進行形の連載中でもあり、読むにはそれなりのハードルがあるようなのですが、アクションで尺を取られていることもあって映画本編では明らかに説明不足な各キャラクターの「闇堕ちの過程」とその結果としての「行動原理」が丹念に描かれているとのこと。

 

 

映画本編を観る前に三つを全部チェックするのが良いに越したことはないのですが、ちょっとハードル高いですよね。

正直、僕も昨日の時点でここまで判っていたら「じゃあ観ないわ」ってなっていた可能性があります(^_^;)

 

 

ではここからが本題、そんな状況で「観てしまった」僕のお勧めの鑑賞方法です。

 

 

この映画、主役の本郷猛を含めて主要登場人物のほとんどが「闇堕ち」しています。

その闇堕ちの経緯の描写が圧倒的に足りていないことが一番の問題な訳ですが、実は後半に入って一人だけ毛色の違う人物が登場します。



デフォルメして判りやすく説明すると、出てくるキャラがことごとく

https://wwws.warnerbros.co.jp/jokermovie/img/sp/visual.jpg?id=1

↑ この人だったのが、一人だけ

https://www.suruga-ya.jp/database/pics_light/game/608976567.jpg

↑ この人が混じっている、みたいな(^_^;)



その人にも「それなりの過去」はあるようなんですけど、それほど引き摺っているようには見えないし、何より行動原理がスッキリしていて判りやすいんですよね。



そして、後半に入ってから登場する上に、ほぼ完全な巻き込まれ展開からの登場なので、その他の登場人物に関する理解も観客として前半部分を観ていた僕らよりも低い可能性すらあり、つまりは僕ら以上に「置いてけぼり」状態に置かれながらあの世界を精一杯生きている訳です。



僕が推奨するこの映画の見方は「その人」の視点に立って物語を追う、と言うものです。



あくまで個人的な視点であって、この発想自体そのキャラと僕の感覚が近かったところが出発点なので万人に通用する手段ではないのかなとは思いますけど、特に僕同様「前提を知らずに観てしまった」人のお口直しの参考になれば幸いです。

僕のアンセムについて語ってみようと思う

2023年3月17日、コロナ禍に入ってから初の単独ライブ参戦は日食なつこさんでした。

 

屋外フェスには何度か足を運んでいたし、昨年のSolarBudokanでは彼女のライブにも参加しているんですけどね。

 

応援するアーティストの中でもコロナ禍にひときわ目立ってペースを上げたのは彼女でした。

 

この間に発表された曲に何度勇気づけられ、お尻を叩かれたことか。

 

残念ながら、今回のライブでは聴けなかったのですが、特に「四十路」は僕にとって特別な曲になりました。

 


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大人でいること、日本人でいること、人間でいること、僕でいること

 

いろんなことの意味が、この曲を聴くことで焦点を結んで、はっきりと言語化されました。

 

おおげさではなく、自分の生きる道を照らしてくれた、そんな歌です。



この歌についてはかつてこのブログでも言及したことがあったりします。

 

 

ukkiemf.hatenablog.com

 

実はこのエントリー、散々解釈論的なことを書いた上で、結局「不粋の極み」だと思って、こんな書き方になりました。



今回彼女のライブに参加することでセットリストに入っていなかったこの曲へ思いを馳せる機会を得たこと

 

そもそもなんの権威ももっていない僕の解釈がネットに出たところで意味も無いかもしれないけど、逆になんの害もないだろうことに気付いたこと

 

更に言えば、ライブ中の彼女のMCに触発されて、直接感想を伝えたくなったこと(届くかどうかは微妙ですが

 

そんな事情があって、このエントリーを書くことにしました。




いきなり極言しますが、僕はこの曲の詩は「自由」がテーマだと思っています。

 

初めてこの曲を聴いた時、思い浮かんだのは「キャプテン ハーロック」であり、「アルカディア号」でした。

 

若い人たちに判りやすく表現するなら「OnePiece」の方が適当かもしれませんが、そもそもアルカディア号が思い浮かんだのは印象的なイントロのリフレインが「さすらいの舟唄」を連想させたからという面があるので、その点ご容赦ください。


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ところが何度も聴き重ね、丹念に咀嚼するほどに「四十路」は「海賊的」ではないような気もしてきました。

 

むしろ、この曲は「自由になるのに海賊になる必要はない」と言っているのかもしれない、なんてことを思ったり。

 

その思考の過程を、ちょっと回りくどくなってしまいますが、書いてみようと思います。




動物は自由でしょうか。

 

最近の科学的な発見により、多くの動物が「遊ぶ」ことが観察されるようになったようです。

 

もちろん、動物が実際にその動作を「暇つぶし」であったり「楽しみ」のためにしていたりするかどうかは推測の域を出ないところもありますが、明らかに実用性の低い、あるいは生存する上ではなんの役にも立たない動作をする動物が存在することが観察されています。

 

ここで敢えてそんな話しを持ちだしたのは、近年の一連の発見により否定されるまでは「動物は遊ばない」という定説が存在していたことを言いたかったわけです。



遊びの話しに限らず、「言語を持つ動物は人間だけである」なんてことも近年になってから否定されたようで、そこには西洋思想の持つ根深い呪縛である「人間中心の世界観」の傲慢さを見直す動きがあるようにも思うのですが、そうであったとしても少なくとも「動物と比較すれば人間の方がより遊ぶ」ことは自明のこととして扱われてきたように思いますし、「動物は遊ばない」ことが否定されても「人間が動物の中でも一二を争うほど良く遊ぶ」ことは否定しがたい事実のように思います。

 

かのリンネさんの命名による「ホモサピエンス(知恵のある人)」に対してホイジンガさんは「ホモルーデンス(遊ぶ人)」こそが人の本質に近いと説いたりしています。まあ、いずれにせよキャッチコピーのようなものなので、どれだけ本質的であっても「一面」ではありますし、どちらがどうと言うのは虚しい作業に思われますけど。



閑話休題

「遊ぶこと」=「自由」なのかは兎も角として、人間は「遊ぶだけの時間的な余裕」=「自由」を手に入れたからこそ遊ぶことが本質と一面的には言い切れる程の存在になれたとは言えると思います。

 

その時間を捻出することができたのは、恐らく人間が社会を構築することができたからでしょう。



皮肉な話し、本来自由を創出するはずの装置、手段であった「社会」が人間を自由から遠ざけたからこそ、社会のアンチテーゼとして「海賊」は歴史の中に出現することになりました。



規律と組織化は「社会の進化」に必須な要素でした。

その過程で社会は人間を過剰に型にはめ、人間の「本来の在り方」から遠ざけるようになります。


だからこそ、僕らは現実の海賊の混沌として無秩序な有様を知識として学びながらも、「アルカディア号」や「麦わらの一味」に無限の、そして無邪気な憧れを抱くようになったわけです。

 

 

失われた10年とか20年とか言われた一定期間において日本は「生産性」を失ったと評されたりします。

 

 

「生産性」という言葉は素直な字面の割に何を指しているかよくわからない、妖怪のような言葉だなと思ったりしますが、その一定期間に青春やら職業人生やら、有り体に言ってこれまでの人生のほとんどを過ごしてきた身としては、何かは判らないけど、何かが「失われた」ことには実感があります。

 

皮肉な話ですが、僕にはその「日本から失われたとされるもの」の中身は人間が社会から奪われた「本来の在り方」そのもののような気がするのです。

 

その失われた人としての「本来の在り方」そのものが、この詩で歌われているものであり、それは言葉で表せば「自由」と言うのが近いのではないかというのが僕の考えです。




自由とは、社会と不可分なものです。前述の通り、そもそも社会から与えられたものなのですから。

 

そもそも、人間は社会から切り離されて生きることはできません。

 

 

 

例として、ユナ・ボマーと呼ばれた著名なテロリスト、セオドア・カジンスキーさんについて考えてみましょう。

 

彼は極端なアナーキズムを信奉していました。一時期は電気、水道にすら頼らない自給自足生活を営んだと言います。

 

その究極的なサバイバル生活の中でさえ、彼を支えていたのは人類の文明であったはずです。

 

いかに自給自足であろうが、そこで使用される技術も知識も一部は彼の独創であったとしても、そのほとんどは彼が人からか、書物からか、いずれにせよ先人から学んだものだったはずだからです。




さて、ここまで「自由」について論じておきながらなんですが、そもそも「自由」という言葉は、この曲には一度も出てきません。僕の妄想というか、空耳的な連想から結びついたというだけのことです。

 

毎度のことながら、自分の頭の中で繋がっているように思える突飛な繋がりを言語化する作業は苦行です。

 

強引ついでに、ここからは更にアクロバティックな論理展開をすることをお許し頂きたいと思います。

 

 

 

一見「独りで強く生きる」ことを歌っているように思えるこの曲のPVの舞台として選ばれたのはかの堀江貴文さんによって創設されたインターステラテクノロジズという「株式会社」です。

 

謂わば、資本主義と言う、その暴走が人間を人間の本質から遠ざけた社会、いや人間が創作した妖怪の本丸、権化と言っても良い存在だったりします。



その会社の本業は「ロケット開発」です。

とてもリスクが高く、冒険的な事業、と言うのが一般的なイメージになると思います。

そんな事業を、民間企業として、いかに著名な資産家として知られる堀江貴文さんとは言え、一個人(だけではないにしても)の強い意志をスタート地点として成立したというその経緯は、実に象徴的です。

 

 

そもそも資本主義の指向するものは「リスクの分散」だと言うことを、この企業の存在は示しています。

 

一個人では背負い切れないリスクを、広く社会に「出資」という形で「均す」ことで、みんなで背負おう、と言うのが資本主義の本来の主旨だということです。

 

 

これまたロケットには付きものの「保険」を考えてみれば判りやすいでしょうか。




この詩に歌われている「勇気」は、根拠のない「空元気」であったり、「はったり」であったりではないのです。

 

僕らは本来社会から後押しを受けている。

 

若いうちは、まだその引き出し方が判らないかもしれない。

 

周囲の信任を得る自信もないだろう。

 

でも、「四十路」なら。




「人の幸福感は歳と共に向上する」

これも科学的な調査で近年明らかになってきた事実のようです。

 

いわゆる「オヤジ」と言われる存在の傍若無人さは、その判りやすい事例かもしれません。



年齢が積み重なることによって社会からの信任が徐々に積み重なることが、その一因ではないかと、僕は考えます。

 

それは、謂わば社会からの「預かり物」です。





日食なつこさん本人は、恐らくは、なにかを誰かせいにするような人ではないことはパッと見で判ります。

 

それはそれを良しとしないと言うよりは、関心がない、と言った方が近いかもしれません。

 

恐らくは、自分が前に進むこと以外、あまり視界に入っていないのでは無いかと思われる節があります。




ですから、ここから先は、この詩を受け止めた僕の思ったこと、妄想です。

まあ、そもそもこのエントリーの大部分がそうなんですけどね。



 

僕がこの詩から受けた衝撃は、唐突に突きつけられたナイフのように気付いたら自分の喉元に存在していたあるメッセージでした。

 

『あなたたちは、「預かり物」であるはずの「自分の幸福感」をちゃんと使えていますか?』

 

と言う。



 

そのメッセージは、同時に、僕を縛る自縄自縛を切りほぐすための刃物でもありました。



社会を信じ、人間を信じ、その信じる心があれば、僕らは自由になれる。

 

海賊になる必要なんてない。

 

むしろ、社会の中にいるからこそ、一定のルールを守ることで、僕らは無限に近く、自由になれる。



それが、この曲の詩から僕が受け止めたメッセージです。