ゴジラにおける「何でも説明しちゃう博士」に関する論考 その2

前編では「ゴジラ -1.0」を題材に、初代ゴジラが残した遺産であり、後のシリーズ作においては「呪い」のような存在になってしまったのでは?とも思える「何でも説明しちゃう博士」について拙いながらも論じてきました。

今回は「ゴジラ -1.0」以前に同作とは全く異なるアプローチでこの問題に対処していた作品が存在していたことについて言及したいと思います。


その作品はゴジラシリーズに連なるものではありません。

漫画「機動警察パトレイバー」の第9巻から単行本3部余りに渡って描かれた「廃棄物13号」というエピソードです。

 

 

以降の論考においては同作のネタバレを含みます。また、「機動警察パトレイバー」という、名作ではありますが残念ながら少々鮮度の落ちてしまったコンテンツの読了を前提とした論考になることをご承知おきください。


さて、同作において「何でも説明しちゃう博士」に近いポジションを担う西脇順一博士は「何でも説明できるポテンシャル」はあるものの、作中時間軸のスタート時点で既に故人となっています。

博士の残した、いわば「ダイイングメッセージ」を巡って「探偵役」と「犯人役」が舞台を回す「謎解き劇」と、治安当局の立場から描かれるロボットものにしては奇妙にリアリティのある怪獣パニックものが相互に幕間に展開し、終結に向かって二つの流れは一本に収束していきます。


伝統的なゴジラ作劇において「狂言回し」を演じる「何でも説明しちゃう博士」をむしろミステリーにおける「謎」そのものに落とし込んでいる訳です。


「廃棄物13号」は「WXIII機動警察パトレイバー」としてアニメ映画化されています。

映画版はよりサスペンスパートにフォーカスしており、オリジナルのトリックも盛り込まれているのですが、本論の題材である「博士」の立ち位置について影響があるほどの改変はありません。そんな事情もあって本論ではあくまで漫画版の「廃棄物13号」エピソードをベースに話しを進めたいと思います。


はなしを戻しましょう。

「何でも説明しちゃう博士」をストーリーから排除することで怪獣映画が本来パニック映画としてもっていたはずの緊張感を取り戻した「ゴジラ -1.0」とは対照的に、この作品では「何でも説明できちゃう博士」の存在そのものを謎に落とし込むことで「博士」と「緊張感」の共存に成功した訳です。


お気づきの方も多いかと思いますが、「シン・ゴジラ」はこの作品から影響を受けていると思います。

特に「シン・ゴジラ」冒頭の海上保安庁無人のボートに踏み込み牧博士が自殺したらしい痕跡を発見するくだりはほぼほぼこの作品のオマージュシーンと言って差し支えありません。

その後の展開においては博士の残したゴジラのデータの解析からゴジラ対策が構築される流れになります。「シン・ゴジラ」も「廃棄物13号」も「博士の残したもの」の読み解きが物語の鍵となる点では共通していますが、作品全体に対するパートの比率で言えば、ゴジラによる破壊描写や、計画策定後の政治を含めた作戦遂行のドラマの比率が高い「シン・ゴジラ」と、謎解きのドラマ性がシリーズの魅力の中核扱いの「廃棄物13号」では結果として「テーマが違う」と言って差し支えないものになっています。


元々「廃棄物13号」のスートリーはゴジラシリーズ、特に「ゴジラビオランテ」の影響を強く感じさせるものです。

パトレイバーは同人文化第一世代を代表する漫画家、ゆうきまさみ氏を中核メンバーに据えるクリエイター集同団であるヘッドギアによる創作であり、庵野秀明氏もまたダイコンフィルムと言う同人映像文化の先駆者集団がキャリアのスタート地点です。オマージュ、パロディ、インスパイア、本歌取り等々「引用」の意図はそれぞれにあるかもしれませんが、少なくとも「パクリ」と言う無粋な言葉は彼らの辞書には無いのではないでしょうか。


膨大な数の物語が生み出されている現代において全くの「新機軸」というのはほぼほぼ無理な話しで、今回の論考自体、あくまで日本のポップカルチャー、中でもゴジラシリーズという特定領域における流れの話しであることを考えると、この「流れ」も全く別のどこかで生じた流れの「継承」なのか知れません。


昨年中に書いた「ゲゲゲの誕生」の感想の中でも触れたように、「ゴジラ -1.0」も諸手を挙げて100点をつけられる作品ではないと思っています。ですが、一定の固定ファンを抱え、東宝と言う日本映画の保守本流ブランドの看板シリーズの一つとして、良くも悪くも過去作の呪縛の中で製作されがちなゴジラというタイトルにおいて、二作続けてシリーズが抱えていた宿痾と真摯に向き合い、全く別の解法が示されたという事実は日本社会の変容という意味では意外と大きな話しなのかも知れないと思ったりもします。

両作の共通点を考えると、「過去にゴジラの上陸を経験していない世界」と言う「シン・ゴジラ」の切り拓いた新たな地平は「ゴジラ -1.0」とそこから先に続くであろう「未来のゴジラ」に無限の可能性を遺したと言う意味で歴史的な所業だったのかもしれません。

この辺の「大人の事情」については部外者としては窺い知ることができませんが、忖度なく障壁を突発する上で庵野氏の「重み」はそれなりに作用した可能性は高いと思います。とりわけ、その「重み」を伝統作の未来を切り拓く方向性に作用させるという「正しい使い方」をしたということは素晴らしいことだと思います。まあ、それもまた僕の妄想ですけど。


そんなわけで僕にとって「ゴジラ -1.0」との出会いは多少おおげさですがもろもろの周辺事情も含めて今後の日本について希望を感じさせるものになりました。

妄想込みですけどね(^-^;