2023年3月17日、コロナ禍に入ってから初の単独ライブ参戦は日食なつこさんでした。
屋外フェスには何度か足を運んでいたし、昨年のSolarBudokanでは彼女のライブにも参加しているんですけどね。
応援するアーティストの中でもコロナ禍にひときわ目立ってペースを上げたのは彼女でした。
この間に発表された曲に何度勇気づけられ、お尻を叩かれたことか。
残念ながら、今回のライブでは聴けなかったのですが、特に「四十路」は僕にとって特別な曲になりました。
大人でいること、日本人でいること、人間でいること、僕でいること
いろんなことの意味が、この曲を聴くことで焦点を結んで、はっきりと言語化されました。
おおげさではなく、自分の生きる道を照らしてくれた、そんな歌です。
この歌についてはかつてこのブログでも言及したことがあったりします。
実はこのエントリー、散々解釈論的なことを書いた上で、結局「不粋の極み」だと思って、こんな書き方になりました。
今回彼女のライブに参加することでセットリストに入っていなかったこの曲へ思いを馳せる機会を得たこと
そもそもなんの権威ももっていない僕の解釈がネットに出たところで意味も無いかもしれないけど、逆になんの害もないだろうことに気付いたこと
更に言えば、ライブ中の彼女のMCに触発されて、直接感想を伝えたくなったこと(届くかどうかは微妙ですが
そんな事情があって、このエントリーを書くことにしました。
いきなり極言しますが、僕はこの曲の詩は「自由」がテーマだと思っています。
初めてこの曲を聴いた時、思い浮かんだのは「キャプテン ハーロック」であり、「アルカディア号」でした。
若い人たちに判りやすく表現するなら「OnePiece」の方が適当かもしれませんが、そもそもアルカディア号が思い浮かんだのは印象的なイントロのリフレインが「さすらいの舟唄」を連想させたからという面があるので、その点ご容赦ください。
ところが何度も聴き重ね、丹念に咀嚼するほどに「四十路」は「海賊的」ではないような気もしてきました。
むしろ、この曲は「自由になるのに海賊になる必要はない」と言っているのかもしれない、なんてことを思ったり。
その思考の過程を、ちょっと回りくどくなってしまいますが、書いてみようと思います。
動物は自由でしょうか。
最近の科学的な発見により、多くの動物が「遊ぶ」ことが観察されるようになったようです。
もちろん、動物が実際にその動作を「暇つぶし」であったり「楽しみ」のためにしていたりするかどうかは推測の域を出ないところもありますが、明らかに実用性の低い、あるいは生存する上ではなんの役にも立たない動作をする動物が存在することが観察されています。
ここで敢えてそんな話しを持ちだしたのは、近年の一連の発見により否定されるまでは「動物は遊ばない」という定説が存在していたことを言いたかったわけです。
遊びの話しに限らず、「言語を持つ動物は人間だけである」なんてことも近年になってから否定されたようで、そこには西洋思想の持つ根深い呪縛である「人間中心の世界観」の傲慢さを見直す動きがあるようにも思うのですが、そうであったとしても少なくとも「動物と比較すれば人間の方がより遊ぶ」ことは自明のこととして扱われてきたように思いますし、「動物は遊ばない」ことが否定されても「人間が動物の中でも一二を争うほど良く遊ぶ」ことは否定しがたい事実のように思います。
かのリンネさんの命名による「ホモサピエンス(知恵のある人)」に対してホイジンガさんは「ホモルーデンス(遊ぶ人)」こそが人の本質に近いと説いたりしています。まあ、いずれにせよキャッチコピーのようなものなので、どれだけ本質的であっても「一面」ではありますし、どちらがどうと言うのは虚しい作業に思われますけど。
閑話休題。
「遊ぶこと」=「自由」なのかは兎も角として、人間は「遊ぶだけの時間的な余裕」=「自由」を手に入れたからこそ遊ぶことが本質と一面的には言い切れる程の存在になれたとは言えると思います。
その時間を捻出することができたのは、恐らく人間が社会を構築することができたからでしょう。
皮肉な話し、本来自由を創出するはずの装置、手段であった「社会」が人間を自由から遠ざけたからこそ、社会のアンチテーゼとして「海賊」は歴史の中に出現することになりました。
規律と組織化は「社会の進化」に必須な要素でした。
その過程で社会は人間を過剰に型にはめ、人間の「本来の在り方」から遠ざけるようになります。
だからこそ、僕らは現実の海賊の混沌として無秩序な有様を知識として学びながらも、「アルカディア号」や「麦わらの一味」に無限の、そして無邪気な憧れを抱くようになったわけです。
失われた10年とか20年とか言われた一定期間において日本は「生産性」を失ったと評されたりします。
「生産性」という言葉は素直な字面の割に何を指しているかよくわからない、妖怪のような言葉だなと思ったりしますが、その一定期間に青春やら職業人生やら、有り体に言ってこれまでの人生のほとんどを過ごしてきた身としては、何かは判らないけど、何かが「失われた」ことには実感があります。
皮肉な話ですが、僕にはその「日本から失われたとされるもの」の中身は人間が社会から奪われた「本来の在り方」そのもののような気がするのです。
その失われた人としての「本来の在り方」そのものが、この詩で歌われているものであり、それは言葉で表せば「自由」と言うのが近いのではないかというのが僕の考えです。
自由とは、社会と不可分なものです。前述の通り、そもそも社会から与えられたものなのですから。
そもそも、人間は社会から切り離されて生きることはできません。
例として、ユナ・ボマーと呼ばれた著名なテロリスト、セオドア・カジンスキーさんについて考えてみましょう。
彼は極端なアナーキズムを信奉していました。一時期は電気、水道にすら頼らない自給自足生活を営んだと言います。
その究極的なサバイバル生活の中でさえ、彼を支えていたのは人類の文明であったはずです。
いかに自給自足であろうが、そこで使用される技術も知識も一部は彼の独創であったとしても、そのほとんどは彼が人からか、書物からか、いずれにせよ先人から学んだものだったはずだからです。
さて、ここまで「自由」について論じておきながらなんですが、そもそも「自由」という言葉は、この曲には一度も出てきません。僕の妄想というか、空耳的な連想から結びついたというだけのことです。
毎度のことながら、自分の頭の中で繋がっているように思える突飛な繋がりを言語化する作業は苦行です。
強引ついでに、ここからは更にアクロバティックな論理展開をすることをお許し頂きたいと思います。
一見「独りで強く生きる」ことを歌っているように思えるこの曲のPVの舞台として選ばれたのはかの堀江貴文さんによって創設されたインターステラテクノロジズという「株式会社」です。
謂わば、資本主義と言う、その暴走が人間を人間の本質から遠ざけた社会、いや人間が創作した妖怪の本丸、権化と言っても良い存在だったりします。
その会社の本業は「ロケット開発」です。
とてもリスクが高く、冒険的な事業、と言うのが一般的なイメージになると思います。
そんな事業を、民間企業として、いかに著名な資産家として知られる堀江貴文さんとは言え、一個人(だけではないにしても)の強い意志をスタート地点として成立したというその経緯は、実に象徴的です。
そもそも資本主義の指向するものは「リスクの分散」だと言うことを、この企業の存在は示しています。
一個人では背負い切れないリスクを、広く社会に「出資」という形で「均す」ことで、みんなで背負おう、と言うのが資本主義の本来の主旨だということです。
これまたロケットには付きものの「保険」を考えてみれば判りやすいでしょうか。
この詩に歌われている「勇気」は、根拠のない「空元気」であったり、「はったり」であったりではないのです。
僕らは本来社会から後押しを受けている。
若いうちは、まだその引き出し方が判らないかもしれない。
周囲の信任を得る自信もないだろう。
でも、「四十路」なら。
「人の幸福感は歳と共に向上する」
これも科学的な調査で近年明らかになってきた事実のようです。
いわゆる「オヤジ」と言われる存在の傍若無人さは、その判りやすい事例かもしれません。
年齢が積み重なることによって社会からの信任が徐々に積み重なることが、その一因ではないかと、僕は考えます。
それは、謂わば社会からの「預かり物」です。
日食なつこさん本人は、恐らくは、なにかを誰かせいにするような人ではないことはパッと見で判ります。
それはそれを良しとしないと言うよりは、関心がない、と言った方が近いかもしれません。
恐らくは、自分が前に進むこと以外、あまり視界に入っていないのでは無いかと思われる節があります。
ですから、ここから先は、この詩を受け止めた僕の思ったこと、妄想です。
まあ、そもそもこのエントリーの大部分がそうなんですけどね。
僕がこの詩から受けた衝撃は、唐突に突きつけられたナイフのように気付いたら自分の喉元に存在していたあるメッセージでした。
『あなたたちは、「預かり物」であるはずの「自分の幸福感」をちゃんと使えていますか?』
と言う。
そのメッセージは、同時に、僕を縛る自縄自縛を切りほぐすための刃物でもありました。
社会を信じ、人間を信じ、その信じる心があれば、僕らは自由になれる。
海賊になる必要なんてない。
むしろ、社会の中にいるからこそ、一定のルールを守ることで、僕らは無限に近く、自由になれる。
それが、この曲の詩から僕が受け止めたメッセージです。