僕の「神様」は「社会」だったのかもしれないという「気付き」のはなし

事後報告になりますが、このブログでも何度かご報告してきました冠動脈バイパス手術を二月八日に受けました。

 

手術は成功し、リハビリも順調に進み、病気休暇を申請するために医師から頂いた診断書にあった記載では二週間とされていた入院期間は十日程度に収まり、二月十七日には退院することができました。

父親と二人暮らしとは言え、買い物、調理、洗濯といった家事は自分でやってきたので、自宅療養には不安を感じていましたが、実質一週間でも退院可能のお墨付きをいただいた上で念のため近所に住む弟さん家族にお願いした迎えの都合で延長した三日間分を結果的に病院内という安全安心な環境で思いっきりリハビリに励むことができたこともあったせいか、退院日には一人で買い物に行くために車を運転して荷物も自力で運ぶことができて大いに自信を深めることが出来ました。

そこからの自宅療養期間も、総じて今のところ順調です。



手術前、この一連のイベントについて想定していたことは「沢山の人生初があるんだろうな」でした。

これでもかなりポジティブに考えようと努力した上でのことなのですが、「人生初」というのは「今までに感じたことのない痛み」とか「今までに経験したことのない不自由」とかそういうこともコミな訳です。

 

実際、その両方とも経験することにはなったのですが、通り抜けた今、そんなことも含めて過去の人生で一番ポジティブな体験と言い切ることが出来るようになりました。

 

流石に手術直後からの体調が不安定だった数日間は天国と地獄が交互に訪れるような、ちょっとした自分の不調からの「もうダメだー」が少し解消するとパーッと目の前が晴れて世界が色鮮やかに見えたりで、鎮痛剤もかなり強い物を投薬されていたでしょうし、脳内物質も日常とは違う分泌状況なんだろうなーと、ちょっと冷静になれた瞬間に振り返ったりするような状況でしたが、体調の安定した入院後半辺りから、自分でもこれは浮かれすぎだと思うほどの多幸感に包まれました。

 

後に先輩患者さんの手記から「手術日は第二の誕生日です」というフレーズを見つけて、僕だけじゃなかったんだとちょっとホッとしました。

 

大げさな言い方をすれば、「宇宙飛行士が初めて『地球』をその目で見た瞬間に人生観が変わるエピソード」に近いんじゃ無いかなと想像したりもするのですが、僕は宇宙飛行経験も地球を肉眼で観たこともないので、当然これは推測です。

でも、そのぐらいのことは言ってもオオゲサじゃ無いと思えるぐらいにはポジティブでした。



「神に会った」みたいな宗教的な体験に近いのかな?と思われた方もみえるかもしれませんが、僕の場合はその現象を割とロジカルに説明することができそうです。

 

今回、僕を救ってくれたのは「社会」でした。



社会保険制度を通じて金銭的な扶助をいただき、公共事業を担う職場から同僚のサポートを受けながら病気休暇をいただき、日本でもトップクラスの高度医療を受けることで僕の肉体の中で自覚もなく進行していた「突然死」のリスクを回避することが出来ました。

そもそも、その「自覚無き体の不調」は職場の健診として受診した人間ドックで発覚したものです。

 

手術には人類の叡智とも言える医療機械「ダ・ヴィンチ」が使用され、胸骨を切ることになっていたら半年間は車の運転が出来なくなる可能性もあったところ、退院時点では痛みはあるものの日常動作はほぼ可能な状態でした。

 

当然、執刀していただいた医師チームの皆さんは日本でも有数の精鋭揃いです。

頭脳においても手技においても元より優秀なのでしょうけど、その状態を維持するために不安定な勤務状況の中でご自分のコンディションを保つため、ストイックな努力をされていることが伺えました。

体型的なことは遺伝的要素も強く影響するのかもしれませんが、皆さん共通して無駄な肉など見あたらないアスリートっぽさを漂わせ、診察の際に水分補給用に卓上に置かれていたのは「特茶」です。「しょせん特保」という考え方もありますけど、あれ、美味しくないんですよね(^_^;)

効くか効かないかはともかくとして、「そういうもの」を選ぶマインドの持ち主なんだと推測します。

 

入院期間を支えて頂いた看護師さんも、過酷な職場にありがちな若年層の多い構成でしたが、総じて優秀で、据え膳上げ膳の状態ですっかりお客様気分でワガママを言ってしまう患者さんや、意思疎通が困難な状態の患者さんに対しても感情的な反応を見ることはありませんでした。

自分の経験からも「誰かのせい」に転嫁しなければやり過ごすことすら困難な痛みやストレスと向き合う機会に事欠かないのが「入院患者」という存在です。

一々感情的な反応をしていたら身が保たないのでしょうけど、それにしても職業上の必要性を持ち出して全てを説明仕切れるとは思えない過酷な状況を平常心で過ごすことが日常というのは、人間としての構造のようなものが根本的に違うぐらいのことが無ければ説明がつかないと思ったりもしました。

 

麻酔から覚めた瞬間は呼吸すら気管挿入された管を通して補助されていたという点で言えば、赤ん坊以上に「自力ではなにもできない」状態でした。

他人とペースを合わせることが苦手という社会不適合な性格から、自分でできることは他人の迷惑を顧みずにやってしまうところのある僕ですが、集中治療室で過ごした概ね48時間ほど他人に全てを依存した時間を過ごしたことは無かったと思います。

どんなつまらないことまで忙しそうに働いている人に頼まなければなにも進まないという状況は普段ならかなりのストレスだったと思いますが、さすがに体中に針やら管やらが繋がっている状態では覚悟も決まるのか、今から振り返ってみると「ワガママ」でいることにも適応していた気がします。

 

医療の現場は他にも多様な職種で構成されていて、皆さんそれなりに忙しさや現場の過酷さを共有しています。

 

患者との接点という点で言えば、リハビリを担当する理学療法士さんの存在は大きかったです。

今回は連休を挟んだ関係もあって計四人の方に担当していただきましたが、基本一担当/一患者のマンツーマン体制で患者を支え、もうちょっと入院が長引いたら頼り切ってしまうだろうなと想像したりします。

僕は手術後二日目には立ち上がって歩くことが出来たのですが、手術痕の痛みもあってその初めて立ち上がった時には「人生で一番かもしれない痛み」を感じました。

早朝のリハビリ前に体重を量る必要があって立ち上がったのですが、その痛みがトラウマになってしまってその日は朝食も食べられず、当然リハビリなど出来る訳もないと決めつけていました。

実際のところはその日の代役としてやってきた本来の担当さんではないベテラン女性療法士さんにあの手この手でなだめすかされて、リハビリ開始。傷口が安定するようバストバンドなる補助具を巻いてみたら痛みもなんとか安定し、数分前の自分には想像も出来なかった「歩く」ことにまで挑戦していました。

 

痛みがあったとは言え、「寝た切り」だったのは30時間程度です。

今から考えてみれば立てさえすれば歩けるのは当然なんですけど、思い込みは怖いもので、自分としては「クララが立った」レベルの奇跡が起きている感覚がありました。

まあ「あのクララ」もたぶん歩けないと思い込んでいたから歩けなかったんでしょうけど、フィクションとは言え、その思い込みで何年も歩けなくなることだってあるのが人間だというサンプルでもあるわけで、そう考えると今この瞬間にも日本には何百人ぐらいのレベルの「クララ」がいて、「クララが立った」現象も毎秒レベルで発生しているのかな?と想像すると、とんでもなく尊い職業だなと思います。

 

栄養師さんにもご迷惑をおかけしました。

僕は一日一食とか、加工食品はおろか普段から穀物も食べないかなり極端な食事法を採用しているのですが、さすがに病院内でそれは無理ですし、命を預ける相手に変にワガママを言うのも気が引けて、入院時点ではなにも要望していなかったのですが、ICUから出た途端、喉元過ぎたのかワガママ心がニョキニョキと育ち、「パンと牛乳はNGでお願いします<(_ _)>」と掌返しをしてしまいました。牛乳は乳糖不耐症との診断を受けたことはないのですが、自分の生活を振り返って牛乳を飲むと体調が悪くなることに気付いて日常生活でも牛乳は飲まないようにしています。発酵製品は大丈夫なので、チーズもヨーグルトもOKです。そこまではまだ健康上の理由ですが、パンに至っては「本当はお米でもカロリーの質(同じカロリーを摂るのに同時にどれだけ微量栄養素を摂れるかを重視する考え方)を考えると食べたくないのだけど、パンに至ってはバターやら塩やらも入っていてほぼお菓子と同じなので」というかなり特殊な考え方に基づく物でした。

正直、「要求の妥当性」を考えると牛乳はともかくパンは突き返されても文句は言えないなーと思っていたのですが、結果、全部吞んでもらえました。

牛乳の代わりに「飲むヨーグルト」的なものが出たり、パンの代わりにご飯が出たときには組み合わせに考慮してもらえたのか、焼き海苔までついてきて、正直そこまでやってもらうと罪悪感マックスというか、たかだか一週間そこそこなら我慢もできたことでここまでこちらの身になった対応をしてもらえるものなのかと我が身の情けなさとの対比もあって、その志の尊さにちょっと泣きそうになったぐらいでした。

 

素人目には医師から出た処方を準備しているだけの存在に見えたりする薬剤師さんも、ADHDの薬であるコンサータについて自分の経験則上眠るためには妨げになるという僕の訴えを忙しい医師に通してもらえてストップしてもらえたり、退院時に渡される処方についても入院中同様の服薬時間帯ごとの包装を準備してもらったり、細かな要望に応えてもらいました。



それが特別でも何でも無い業務の中での日常なのかもしれませんが、自分の自由が効かない状況で職業上の物であってもこれだけ人からのサポートを意識すれば、僕のあの心情変化も当然のことのように思えます。

 

比較的早いタイミングで体調が好転したことを考えると、集中治療室のあの「寝た切り」状態が予定通り一週間に及んだり、結果的に先の見えない入院生活を送ることになっていたりすれば、同じように思えていたかは疑問で、その点運が良かったのは確かです。

でも、それは僕の受け止めの話しであって、病院側の対応は基本変わらないものです。

 

僕はその有様を幸運にも比較的平静に観察する機会を得ることが出来た、ということですね。



そんな訳で、僕は社会全体というか、大げさな話し技術や科学の進歩のことなんかを考えると、過去から連綿と続いてきた人類全体の歩みに支えられて手術と10日間の入院生活を乗り越えることができた、と理解した訳です。

 

その閃きのような「理解」はちょっとした「悟り」のような感覚でした。




僕は孤独耐性の高い人間だと思います。

今は父と犬と暮らしていますが、こうなったのは止むなく運命を受け入れているというよりは自分の選択の結果そうなっているのかもと感じることがあります。

犬を飼うことは父のたっての希望で、僕は父が前の犬を甘やかしてスポイルしてしまっていたのが嫌でしょうがなかったので最後まで反対していました。最終的に僕のいない隙に弟一家と示し合わせてだまし討ちのようにしてお迎えしたぐらいです。

犬自体は元々嫌いではなかったし、仔犬ともなれば当然のようにかわいいのですが、犬の顔を見た瞬間に思ったことは「ああ、これは弱点ができちゃったな」でした。

一体何と戦っていたのか、ゴルゴ13にでもなったつもりだったのか、今から考えると自分でも笑ってしまいます。

 

他人とペースを合わせるのが苦手なんでしょうね。

友達付き合いも縁のあった人数人と3ヶ月に一回のようなペースで、その都度1月前ぐらいから予定を入れて、もちろん楽しみにしながらではありますが、会って2~3時間程度の時間を共有してサッと別れてのような付き合い方が心地良く感じたりします。

会っている間は当然楽しいし、時間の密度も高くて、充実感もあります。だからと言ってもっと一緒にいたいとは、別れ際には思うものの、いざお別れしたらすっとそのさみしさも消えて、満足感だけが残る感じです。

そんなわがままをしているのにありがたいことに、縁には恵まれていると思います。

 

今回、社会との繋がりみたいなことを強く感じたのもこの辺の性格的な事情もあるのかな?と思ったりします。

今までもなにかの切っ掛け、母の死とか、失恋とかを経て、最終的に社会に感謝する内容のエントリーはブログにもいくつか残っています。

その気持ちに偽りはないのですが、どこか頭の中の論考の結果のような、パズルを解いていたら出てきた答えのようなところもありました。

 

今回はその点かなりリアルでした。

「赤ちゃん未満模擬実習」とか「クララが立った現象」まで経験したわけですしね。




「他人とペースを合わせるのが苦手」から派生している気がしているのですが、僕のもう一つの特徴は、金銭を介した顧客とサービス提供者の関係性の中で割と深い信頼関係を結びがちな点です。

 

コロナ禍以降プライベートで一番時間を共有しているであろう古武術の師範も、元々五十肩を拗らせていた時に「腱引き」という整体のような施術を受けたことから関係性が始まりましたし、床屋さんとか、スーパーの店員さんとか、昔で言えば馴染みのバーのマスターとか、関係性のレベルはそれぞれですけど、こちらがお金を払うことで関係性を「調整できる」というと語弊がありますけど、判りやすく感謝の気持ちを金銭で具体的な形で渡すことができる関係性に安心感を覚えるところがあるのかな、と思ったりもします。

 

その意味では病院との関係は、まあ、自分が払った金銭の額とあの体験の中で受けた恩が釣り合うのか甚だ疑問ではあるのですが、それも社会保険があってのことと考えると、「正当な対価」ではあるので、そういう意味ではより素直に感謝の気持ちを持てた可能性もあるかなと思います。



心の中の動きなので、どこまで論考しても答えには辿り着かないのですが、まあ、大筋では間違っていない気がしています。



で、その結果なにがあったかと言えば、今までこのブログで書いてきたこととか、そこまで至らないけどいつか書きたいと思ってきたこととか、意識すらしてなかったけどなんとなく考えてきたこととか、そういう「個別のテーマ」を繋ぐテーマが急に見えてきたりして、全てが一つにまとまって球になったような感覚があったんですよね。

 

そういう閃きみたいなものは無意識が今までの経験なんかを結合して「直感」として出力しているもので、それなりに妥当性の高い答えではあるんですけど、なにせ直感ですし、神経伝達=電気信号の性格上、「長持ち」はしないものです。

忘れないうちに言語化してどこかにメモでもしない限りは。



今回、幸運にもその尻尾ぐらいは掴むことが出来たんじゃ無いかと思っています。



今にして思うと幸いだったのは、集中治療室にスマホ持ち込み禁止だったことですね。

事前にそういうはなしは聞いていたのですが、頼めばなんとかなるかなーとちょとタカを括っていました(^_^;)

実際入ってみれば、下手をすると意識も無い状態で三日以上ということもあり得るし、意識が戻っても体のアチコチに管やら針やらが繋がっていて身動き取れないし、むき出しのベッドに横たわった状態で完全看護を受け続けるのでパーソナルスペースはベッドの上だけ、それも手が動かせる範囲は最初のうちは肩から上の枕の右側分くらいのイメージです。右手は針が二本入った状態で、ものを持ち上げたり運んだりのハードルもかなり高いですしね。

 

そうは言っても「なにか」は欲しい。

考えて「ペンとメモ帳はなんとか」と頼んでみました。

最初の反応を見るとそれも難しかったようなのですが、リハビリを担当してもらった理学療法士さんがメモを取ること自体は最低でも「座る姿勢」を伴うのでリハビリの役に立つという「合理的な理由」を立ててくれたことで事態が好転しました。

厳密になにが起こっていたのかは知るよしもありませんが、経緯から推測するにそんなところです。

 

考えてみれば難色を示されたのも「そもそもそんな要求される前例がなかったので判断材料がなかった」ってことだったのかもしれませんけど(^_^;)

 

こうして運良く持ち込めた訳ですが、例えば決してあり得ないはなしでは無い「三日間昏睡状態」だったりしたらメモを取ろうという気になるまでには相当時間を要したかもしれませんね。



そう考えると「運が良かった」ことが一番大きかったのかもしれませんが、僕は「集中治療室で過ごした二日半とたまたま三連休が絡んでスマホを取り戻せなかった三日間」を、空いた時間をひたすらメモを書くことで埋めていくことになりました。

 

実は、この機会以前の僕には「メモ帳を一冊使い切った経験」はありませんでした。

スマホでメモを取るようになって、メモを取るという習慣自体は根付きつつありましたが、紙のメモとは「相性が悪い」と思い込んでいました。

 

実際、相性は良くないのかもしれません。

入院中に書いたメモをデジタル化する作業をチマチマと進めているのですが、ところどころ「書いた本人にも判読不明な箇所」があります。

フォーマットはその時々で気まぐれに変わっていきます。

普段から愛用している四色ボールペン+シャープペン、実際は緑のインクの入っていた箇所を0.3ミリの黒に入れ替える「カスタマイズ」をしていますが、を一緒に持ち込んでいましたが、青や赤を使うケースは暗闇の中でメモを取る際に押し間違えてしまった場合でした。
0.3ミリの黒を四本入れておいた方がまだ合理的だったかもしれないと思うくらいです。

 

でも、メモを残さなかったよりははるかにマシでした。

判読不能楔形文字が粘土板に刻まれている状況に近いかもしれません。

根気と想像力がなければ情報価値は限り無くゼロに近づきますが、読み解こうとする意思を支えるだけの何かがあれば、それは無限に100%に近い情報量を保持するものになり得ます。

なにより、書き出したという事実があることが文字が残っていること以上に役に立った感触もあります。

頭の中だけではないどこかで整理された情報の痕跡は脳の中にも影のように残っているのです。

 

そんなわけで、もしかすると今まで多くの「入院患者」の脳内を駆け巡り、結果的に「気の迷い」として処理されていたかもしれないものを、僕はひたすら自分の血肉にすることが出来た訳です。



途中他のネタを挟むかもしれませんが、このブログではしばらく僕のこの経験について書いていきたいと思います。

 

お付き合いいただければ幸いです。