書きたかったけどずっと形にできなかった僕の大切な話し。

2023年1月8日、コロナ禍突入以降初の長距離走大会である「みのかもハーフマラソン大会」を完走することができました。


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その後は少々停滞気味でしたが、幸いなことに割と早く次の出走機会と巡り会えました。
次は2月4日に職場の職員組合主催の駅伝で2㎞ちょっとの距離を走ることになっています。

ハーフ走れるなら余裕と思って考えなしに手を挙げたのですが、3㎞以下の距離は「中距離走」であってハーフを走るのとは体内で生じる化学反応も、走っている最中の疲労感やストレスも全く違う「別競技」であるという事実を突き付けられています。

長距離経験のなかった頃から「人類にとって最もストレスフルな陸上種目は3000m走だ」と言うことを耳学問としては知っていたのですが、それは「走る人」という自分とは縁遠い別の人種にのみ通用することであって、むしろ「3㎞走るのもフルマラソン走るのもどのみち苦しいことに変わりは無いのだから短ければ短いほど良いに決まっている」という身も蓋もない見解が肉体感覚とは合致していました。

自分の感覚と「中距離走は苦しい」が一致するようになったのも、自分がキロ何分ペースで走れば気持ちよく走れるかとか、全力を出せばどの程度ギアを上げることができるのかとか、以前は全く未知の世界だった領域に手が届くようになったからで、自分の世界が広がっていることは素直に喜ばしく感じています。


中距離走は苦しい」という事実はもうちょっと分解度を上げると「中距離を『全力』で走り切れば苦しい」なんて言う附帯条件付きのことであり、ハーフマラソンを走り切れるペースで2㎞強走るのはハーフを走るより断然楽です。当たり前過ぎますが。


そうであれば、職場の親睦大会になぜそこまで入れ込んでいるのかと疑問に感じる方もみえるかもしれません。

 

一つにはこれから先も長距離を続けていく上で、いわゆる「スピード練習 」を体験するチャンスだったってことです。
自分の能力を伸ばすためにはやった方がいいこと、やってみたいと思っていても、さしたる理由もなしに苦しい練習を難しいことですから。


もう一つはそのお話しが僕の人生を変えるきっかけをくれた恩人を偲んで「たすき」をつなぐ趣旨のものだったからです。

 


その人はいわゆる転職組で年齢的には僕より上でしたが採用年次では同期でした。

採用当時は仲良くしていただいていたんですが、僕のメンタルが落ちていく過程で不義理をしてしまった多くの方の中の一人でした。

同じ職場の同僚として働く機会を得たのは僕が四十前後頃のこと。
一番苦しい、職を維持できるかどうかの瀬戸際に立たされていた時期でした。

 

最初は隣の係でしたが、もがき苦しむ僕を一年間自分の係に引き取ってくださり、電話を受ける以外はほぼほぼ戦力になっていない状態のまま守っていただきました。


それだけでも十分な恩義ですが、その人の働き方、生き方に触れることができたことの方が僕に取ってより大きな意味のあることになっていったのです。

 


その人は、何をしていても楽しそうだったんですよ。

 


当時の僕は職場のIT環境には大いに不満を持っていてある意味絶望していました。自分の数少ない得意分野なのに、これでは力を発揮できないと今から考えると八つ当たりのような感情を抱いていたのです。

ところが、その人は職場に採用されている一見使い勝手の悪いツールの機能に不満を述べるような無駄なことをする暇があればそれをどうやって使いこなすかということに意識を集中していました。

当時はその人も平職員だったのですが、実験的な試みも自分の腹で上層部に認めさせて次々と実装していきました。

全く戦力になっていない、僕の「思い付き」でさえも、良いと思えば「それいいね!」と言ってあっという間に現実に落とし込んでいきました。

ITに限らず、全てのことがそんな調子だったのです。

 

旧態依然としていて保守的だと思い込んでいた自分の職場が、魔法のようなツールを導入したわけでもなく、大規模な業務改善に取り組んだわけでもないのに、有り物を工夫したり、ちょっとしたルールを皆に徹底させたり、そんなちょっとしたことであっという間に改善されていくのは、まるで魔法のような出来事でした。

 

ああ、そうか。
仕事をつまらなくしていたのは他ならぬ僕だったんだ。

変わるわけがないと周囲の環境に絶望して、自分が被害者であるかのように振る舞い、今の自分に何が出来るかなんて考えようともしていなかったんです。
能力、人柄、周囲からの信頼。その人と自分の間にはもちろん、大きな差はありました。でも、その差だって元をただせばすべて「考え方」が違うからだったんだ、という気づき。


衝撃的でした。

 

NakamuraEmiさんの「モチベーション」という曲を聴いたとき、思い浮かんだのはその人の顔でした。

www.youtube.com

 

もちろん、気づけたからと言ってそれが自分の現実になるなんてことはありません。
僕が立ち直るにはまだまだ多くの時間と出会いが必要でした。
でも四十を越えてからの自分が一連の変化を受け入れることができたのは、その人の示してくれた道標があったからです。

自分ではないなにかのせいにしているうちは世界は一寸たりとも動くはずがない。自分が動かせるのは自分だけなんです。
でも、全部自分の責任と思えばすべては自分でなんとかできることにもなり得る。

もちろん、そこに気付いただけでは何も変わりません。

 

なにかのせいにしたい気持ちとの闘い

全部背負おうとして負いきれずに自滅してのたうち回る日々

一筋の光明とともに膨れ上がる尊大な自己評価

なにかを悟ったような錯覚と見えていなかった死角への気付きの繰り返し

 

覚束ないながらも自分の足でその人の道を辿り始めたのは、五年程後のことだったと思います。

それから今に至るも、同じようなことを延々と繰り返しているようにも思えます。


その人はコツを教えてくれた訳じゃ無いんです。
ただ僕の視界の中でその人なりに生きて働いていただけです。
観察して、思い返して、勝手に解釈して、試してみて、思い通りにはならないの繰り返しです。

人がなにかを学ぶことの本質、神髄に気づかせてくれたのもこの経験でした。

 

ああなりたいと思いつつ、遠ざかったり近づいたりを繰り返す中、結果的に試せることはなんでも試してきたような気がします。
今僕が山に登るのも、走るのも、その人がそうしていたからです。
一緒にどう?と誘われたこともあったのですが、その時は気持ちも体もついていきませんでした。

 


その人と過ごした一年のあと、お礼が言いたい、話しをしたいと願いながらも、その人とお会いする機会はありませんでした。


そして、去年の夏、唐突にその人の訃報が届きました。
事態が呑み込めませんでした。
フルマラソンよりウルトラマラソンに適性があるような、とても「 死」とは結びつかないような人だったんです。


僕は「失敗」というのはお金や政府や宗教と同じで人間が社会を維持するために作ったフィクションだと思うようにしています。そんな僕の「処世術」をあざ笑うかのように、取り返しのつかない「失敗」というのは存在するんだというこれ以上ない現実を突き付けられました。

 

連絡は取ろうと思えば取れたのです。
電話番号は携帯に入っていたし、なんならFacebookで友達にもなっていました。
たしか、最初に「おおがきハーフ」で10kmを完走した時だったでしょうか。
今ならこの人に顔向けできるかもしれないと、勇気を振り絞って申請しました。
悲観主義のもたらすあらゆる悪い予感という妄想に反して、あっさりと申請は受理され、それからはたまに投稿に反応をいただいたりもしました。
あの一年間でおかけした迷惑の数々を、許してやるよ、というメッセージを頂いておきながら、最後の一歩を踏み出せなかったんです。


取り返しはつきません。
悔いていても誰も喜んではくれないので考えるのは止めるようにしていますけど、「本当の失敗」は「刻印」なんだなと実感しています。


みのかもハーフに出場する機会もその人がくれました。
コロナ禍に入ってすっかり停滞していた僕の目を覚ましたのはあの突然の訃報でした。
亡くなった後も一方的に恩恵を受け続けるばかりで、絶対に返せな い借りが積みあがっていきます。
理不尽ですけど、恨み言を言いたくなったこともあります。
ズルいですよ、って。


これほど劇的ではなかったとしても、時に意識することすらなく、僕は生きてきた過去においてもこれから先もあらゆる人から一方的に恩恵を受けているんだと思います。

もしかすると、「半径ゼロメ ートルの革命」は、自分だけでは引き起こすことはできないものなのかもしれませんね。

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きっと、そんな僕にできることは受けた恩を次の誰かに受け渡すことなんだと思います。
僕の中に生じたような奇跡を起こすことは無理だとしても、種を蒔くことだけは止めないでいたいと肝に銘じています。

まだと言うより一生答えにたどり着かないように思える僕が受け渡すことが出来るものがあるとしたら、それはその人同様まず自分が楽しく働き、生きる姿を見せることかもしれません。

 

簡単なように思えて、難しいことです。

傍から見て楽しいそうに、しかも働いている時に、ですからね。

演技としてその状態を常時維持することはほぼ不可能です。

 

僕にとってそれ以上に難しいことは、「つい語ってしまう」のをいかに我慢するかだったりしますw

本当に言葉は伝わらない、と言うより多分正解がどこかにあるとして、その本質を自分でも理解していないんでしょうね。

 

どちらにしても、反省することばかりですけど、それだけに挑戦しがいはあります。

 

そして、そんな「人としての当たり前」を腹落ちさせてくれたのも結局その人ということになりますね。

 


その人の形見のシャツと一緒に、みのかもハーフは走りました。


僕のゆったりペースも、ハーフという距離も、その人には物足りない思いだったかもしれません。

 

どうせ「片思い」なんです。
亡くなった人の居場所はきっと生きている人の心にある、とは母の死から学んだことです。

これから先、少なくとも走っているとき、その人は僕の心にいると思います。
いつかは満足してもらえるようにまだまだランナーとしても成長していければと思ったりもしますけど、それもきっと僕の自己満足なんですよね。


僕が生きている限り、その人はそんな存在で居続けてくれるんだと思います。

 

僕はとびっきり運の良い人間です。

そんな幸運を無駄にすることのないよう、これからも生きていきたいと思います。

2021年を振り返ってみたはなし~「ランニングする前に読む本」編~

久々の「本の紹介」です。

 

 



実はこの本、どうして買う気になったのか、どうやって目に入って来たのか、記憶が無いんですよね。

買ったのは2021年4月10日らしいのですが。

念のため日記も読み直してみたのですが、全く形跡無し。

ブックマーク的なものも残っていませんでした。

もしや「ウェブ広告のお導き?」と考えるとホラーものですね。

いや、「良縁」だったから一応ファンタジーかな?(^_^;)

 

 

僕には一応ハーフマラソンまでは大会で完走した経験があります。

距離は13kmと短いですけどトレイルランニングを完走したこともあります。

サブフォーに挑戦」はまだ早いとしてもこの手の本を読むなら「フルマラソン完走」ぐらいは目指しても良い立場でした。

 

ちょっと焦っていたのかもしれないですね。

「かつて走れていたのに今走れていない自分」に。



コロナ禍で大会が次々と中止になり、最後に走ったのは2019年12月15日の「おおがきマラソン2019」。ハーフ初挑戦でした。

結果、出来すぎの「2時間切り」を達成。

フルマラソンに挑戦するかもしれないどころか、このままいけば「サブフォー」まで一気に行っちゃうかも?なんてことを不遜にも妄想していたような。

そんな、我ながら図々しくも微笑ましい記憶が微かに残っています。

 

当時は「大会のために走っている訳じゃない」なんていきがってましたが、目の前の目標が消えてなくなればやはり影響はありました。

当日現地で応援してくれるような誰かがいるわけでもなく、ランナー仲間と一緒に走る機会も多くはなかったのですが、大会の緊張感はこの歳になるとなかなか味わえない「華やかな高揚感」を与えてくれていたんですね。

そんな「ご褒美」がなくなることで、僕が走る機会は自然に少なくなっていきました。




そこから本格的にコロナ禍が始まり、母が亡くなり、異動があり、生活のバランスが大きく揺らぐ時期が続きます。




 

この本に出会ったのは、異動後の所属で忙しさがピークを迎えていた頃でした。

読み返してみると「危機感」からFacebookSNSレコーディングダイエットを再開したのが2021年1月13日のことだったようです。

 

意地になって体を動かすことは継続していましたが、ハーフマラソンやトレールランニングに挑戦していた頃からすると体つきは目で見て判るぐらい変化し、あの頃の切れはどこかに消えました。



弱気になっていたと思います。

もうすぐ五十代という実は単なる数字なのに必要以上に意味ありげな節目を控えていまして。

 

大会に出た過去を恨んだりもしました。

記録さえ残っていなければ「無かったこと」にするのは忘れっぽい僕には比較的簡単でしたでしょうから。

 

 

衰えの原因はトレーニング不足なのか「老い」なのか。

多分両方だろうし、今から頑張ってももう取り戻せないかもしれない。

 

そうなったときに「あの頃の自分」を追いかけるのは切なく虚しい作業だろうな、なんてことを考えないようにしていましたが、体はそんな「脳の暴走」に反応していました。

 

その手の「呪いの言葉」は「年寄りの冷や水」で体を動かし始めた瞬間から周囲から容赦なく浴びせかけられていたことだったりします。



熱心にプロモーションが行われる新刊のタイミングでもなく、話題作という訳でもなく、誰かから勧められた記憶もなく、いわゆるジャケ買いするほど引きの強い表紙でも無く、そもそも電子書籍として購入しているのでまともに装丁を見ている訳でもありません。

なぜ自分の手元にあるのか不思議なこの本ですが、僕はもしかしたら「ランニングする前」に戻れるんじゃないかと思ったのかもしれませんね。

 

なにも失うもののなかった、「呪いの言葉」を鼻で笑えたあの頃に。





さて、内容紹介に入りましょう。

 

著者が伝えたいことは実にシンプルです。

大切なことは全部表紙に書いてあります。

「Forefoot」と「SlowJogging」です。



「Forefoot」とは足底の前側で着地する、フォアフットランディングとかフォアフット走法と言われる走り方のこと。

 

「SlowJogging」とは自分が苦しいと感じずに走り続けられるペースで走ること。



この二つの「技術」を習得することさえできれば、歩くのと同じ程度のゆっくりペースでも、例え一回10分とか5分と言った短時間でも、その「小さな一歩」を継続しさえすればいずれ自然に走れる体になる、というのがこの本の主張です。

年齢も体力も関係無く、走ることによって歩くよりずっと効率的に、単に「走れる体」ということに留まらず、体の諸機能の最適化や、脳の働きの向上から、アンチエイジングに至るまで一気通貫にもたらしてくれるという、なんとも「都合の良いお話し」を科学的なエビデンスを示すことで信じさせてくれます。

 

さすがに「サブスリー」にまで言及されると、それはその後の当人の努力次第でしょ?と突っ込みたくなりましたが、それも最初の一歩があればこそと思えばあながちウソとも言えません。



専門家でも科学者でもないので正直この本の示すデータの妥当性については検証することはしていません。そもそもできませんし。

 

ただ、この本を信じることで害が生じることはないだろうとは思っています。

シューズ代以外はお金もかかりませんし、健康被害が生じることも考えにくいです。

 

そもそもこの本は「マラソン世界記録を狙うには?」とか「ウルトラマラソンを完走するには?」と言った常人に到達不可能な領域を目指しているわけではありません。

仮に「最適解」でなかったとしても、やらないよりは遙かにマシなことを「軽はずみ」にスタートさせることが目的だとしたら、間違い無くこの本は高いレベルで成功しています。

 

「あの頃の自分に戻ることがなくても衰えたままでいるよりは遙かにマシだ」というごく当たり前の事実を突きつけることによってこの本は僕の目を覚ましてくれたのです。

 

12月末に読了して以来週10km以上のペースで走り、徐々に距離もペースも上がりつつあり、それと同時にフニャフニャになりかけていた体幹も復活してきました。

 

我ながら単純というか、暗示にかかりやすいというか。

 

そうなる前から「成功」を確信していたので、読了時点で3月に予定されている「かかみがはらシティマラソン2022」にエントリーしています。

 

ハーフは締め切られてしまったので取りあえず10kmからの再スタートになりますが、タイムとか距離とか挑戦とか、そんなこととは関係無く「あの空気」の中で走れることにワクワクしています。

今の状況では開催されるかは「神のみぞ知る」ですけどね。



「自分の変化」という一点でテーマを選んできた「2021年を振り返ってみたはなし」シリーズの中でこの一冊を取り上げたのは、自分に与えたインパクトが一番大きかったからなんです。





でも、仮に僕が表題通り「ランニングする前」にこの本に出会っていたらどうだったかと考えると、「微妙な結果」に終わっていたのではないかとも思います。




「自分のペースで走る」というのはある種の人間にとってはとても難しいことです。

僕は人生のほとんどを「肥満」として過ごしてきましたが、妙に「真面目」なところがあって中学校から大学にいたるまでずっと体育会系の部活動に所属していました。

なんらかの「義務感」に駆られていたような気がするのですが、謎です。

ちなみに弓道部が体育会系かどうかは議論の別れるところではありますが、筋トレやランニングはあったので異論は認めません。

 

特に中学生、高校生当時はまだ部活動中に水を飲むことがギリギリ御法度の時代で、当然個々人の体力・能力にあったトレーニングメニューなど存在しませんでした。

 

優れた筋力、体力を持つ者にはなんの負荷にもならず、付いていけない者はどうやってバレずにサボるか、あるいは限界を超えてひっくり返るまで頑張って許してもらうか、という理性的に考えると全く無意味な練習というよりは「儀式」に、多いときには30kgぐらいになったであろう「絶対に下ろすことのできない荷物」を抱えながら参加していたわけです。

 

そんな僕にとっては走ることとは自分では付いていけないペースになんとか追い付くことが目標として設定されている、謂わば「永遠に成功条件を満たすことのない全力疾走の鬼ごっこをギブアップするまで続ける」拷問でした。



同じ過去を持つ人間は少なくとも僕と同世代までは結構いたのではないかと推測するのですが、僕を含めたそうした人達にとっては「自分のペース」なんて書物に書かれている空想上の生き物同様に現実味のない概念です。

 

体を動かすようになってからのことを思い起こすと、まず山登りやインターバルトレーニングである程度の持久力を身につけ、自分のイメージする「このぐらいなら走っていると認めてもらえるペース」を熟せるようになってからようやく走り始めた気がします。

 

山登りはともかく、インターバルトレーニングはジョギングなんて比較にならないほどの地獄のような負荷がかからないと意味がないし、事実時間は短くてもそうだったのですが、当時の僕の感覚では「それでも走るよりマシ」だったんですよね。




三十代で左アキレス腱を断裂し、今でも左右のふくらはぎの太さが見て判るほど違います。

いまでも距離を伸ばしたりスピードトレーニングしたりすると無意識のうちに負荷のかかっている右膝に違和感が出てしまう、そんな僕に取っては「フォアフット走法」も読んだだけで「自分には無理だな」と判断しかねないものでした。

 

そもそもこの本では「アキレス腱は足底筋膜と組み合わさることで人体の中で最も優秀な衝撃吸収機構を形成しており、フォアフット走法を推奨するのはその仕組みを最大限活用可能な走法であるから」と説明されていたりします。

 

読み方が悪ければフォアフット走法どころか走ることそのものを諦めていたかもしれません。



幸いにも僕はこの本に出会う前にフォアフット走法を習得していました。

 

走る前の体重を落とす過程で坂道上りを多用していたのですが、当時は一日の歩数が二万歩を超えることも珍しくなく、当然過体重の身では膝や腰に負荷がかかります。

上りはまだ良いのですが、上った分発生する下りが問題でした。

 

かつての減量の失敗の多くも途中で故障を抱えたことでしたし、歳を取ってそのリスクは高まっていました。

故障対策はクリアしないと先が見えない重要事項でした。

 

切っ掛けは思い出せないのですが、ある時、動物の四足歩行と人間の二足歩行を比較することで「多くの動物は人間でいう足底の前側にあたる部分でしか接地していないんじゃないか」と気付きまして、そこから「踵をついて骨格で衝撃を吸収しようとしたら膝か腰が壊れるのは当たり前だ」という結論に辿り着きました。

正直、この件はまだ「答え合わせ」に出会えていないので僕の勘違いなのかもしれませんが、少なくともこの「思い込み」は動機付けとしては有効でした。

 

思いつきをどう形にして良いのか判らず、最初は下りだけつま先立ちで下りたりといった無茶もしましたけど、書籍やネット情報で「フォアフット走法」なるものがあるらしいと気付いてからは先人の遺した情報を集めるようになりました。

 

最終的に家の中で裸足でフォアフットで歩くことから徐々に感覚を掴むことができたと思います。



偶然かつ幸いにも僕は大きな故障には至りませんでしたが、フォアフット走法は独学で正解に辿り着くのが難しい概念だと思います。

 

解説本も結構出ていますが、ランニング教室等で「口伝」で教えてもらうほうが安全かつ近道ではないでしょうか。

 

フォアフット走法について言えば、最近は「厚底シューズ」という裏技も存在しているようですが、あれはあれで通常の靴とは走り方が違うというのは、結局フォアフット走法を感覚的に判っていないと使いこなせないからなのかなと思っています。

 

ちなみにNIKEが「Breaking2」で世界を変えるアイデアを披露したのが2017年5月のこと。

「VAPORFLY 4%」の市販開始が同年6月、日本発売は7月だったようです。

 

この本の初版出版日は2017年2月15日です。

ギリギリこの本は「世界が変わる前」に成立しており、本文中に言及のある厚底シューズはソールにフカフカのクッションのある初心者用と称して販売されることの多い、昔ながらのアレのことです。

元々記録狙いの人をターゲットにしていないことを考えると、今書かれたとしても厚底シューズへの言及はない可能性もありますが、この本がこのタイミングで書かれたことは僕に取って幸いなことだったと思います。

 

新しもの好きだけど拘りの強い僕は、「Breaking2」以降のアレは「タイムを餌に人類の肉体を退化させるアヘンのようなものだ」と迷信さながらに信じ込んでいるのでこの当たりの記述は敵意と偏見に曇っている可能性があることを申し添えておきます(^_^;)



話題が飛んでしまいましたね。元に戻しましょう。

 

武道を習う中で頻繁に出てくることに、書物で伝えるのが難しい技術は存在する、ということがあります。

この本の扱うテーマは、いかに上手に伝えたとしても伝わりきらない気がするのです。

それは著者の力不足と言うよりは「文字情報で伝えることの限界」のような気がします。

 

恐らく、著者にもその自覚があったのでしょう。

この本には「公式サイト」が存在し、そこでは「動画」が公開されています。

 

人生の質に関わる問題ということで考えると、「自分のペースで走る」ことも「フォアフット走法」も学校教育の中で必修課題に設定するべきでは無いかと、今回のエントリーを書きながら思いました。

そうなればこの本は「良い教科書」になるはずです。

ただ、理解するのに「先生」は必要になるでしょうね。




この本は間違いなく僕を救いました。

上に述べた「欠点」はあるものの、モチベーターとして考えると100点に近いと思います。

そこまで考えると、もしかするとこの本の一番の欠点は実は「届けるべき対象を間違えている」点にあるのではないかと考えたりします。

 

この本を必要として、かつ伝えたいことが伝わるのは「一度は走る歓びを生きる支えにしていたけどそれを失ってしまった人達」ではないでしょうか。

今まさにコロナ禍に喘ぐこの日本に数多く存在するはずの人達です。

あの時の僕のように。

 

このブログからでは届くことは無いかもしれませんが、もし届いたら、作者・編集・出版の皆様、この本の改題及びキャンペーンの仕切り直しのご検討をよろしくお願いいたします<(_ _)>

 

意外と「世界を救う」かもしれませんよ。




ここからは「余談」です。

つくづく書物との縁は異なものだなと思います。

 

出典がどこだったのか、正確に覚えていないのですが、確か読書猿さんが「書物の最大の利点はいつまででも待ってくれること」と書いてみえたのを思い出します。

 

うろ覚えですが、それは「積ん読」に悩む読者からの相談に「紙の本」の利点を説く文章の中の表現だった気がします。

 

「本棚に置いてあればいずれ必要な時に目に入り、その時必要とする情報を教えてくれる」といった回答だったと思います。



僕とこの本の場合、「電子上の本棚」に「積ん読」されていたわけですが、幸いにも「棚卸し」作業の中で「必要な時」に僕の目にとまってくれました。



電子書籍を買うことにためらいがなくなった頃、「物理的に空間を占拠しなくなった安心感から書籍購入欲が暴走した時期」が僕にはありまして。

 

それ以前の紙の本まで含めると既に所有している本だけで人生の余剰時間全てを読書に捧げたとして人生が終わるまでに読み切る自信がないぐらいには積ん読が進行してしまっていたりします。

引っ越しの多かった社会人生前期にはドサクサで読むこともなく失われた書物なんてのも結構あったりします。ハア。

 

小学生以来の付き合いの「新しい本を買わないと寂しくて死んじゃう病(でも読むのは一部だけ)」からは未来永劫解放されないだろうと思うとなおのことです(ヲイ

 

ちなみに前述の読書猿さんの忠告を真に受け、最近は「大事な本は紙で無くちゃ病」にも罹患しました(マテ



今回の「縁」を経て、「それも悪くないかもしれない」と思えるようになったことも「収穫」だったかもしれません。



何事にも限界はありますけどね(^_^;)

2021年を振り返ってみたはなし ~マイナンバーカード編~

 僕には年齢の割に?PCとかITとかに対して「好き」と言うより「執着」に近い関心があるのですが、これもADHDである自分に取っての「杖代わり」と言う側面があったりするからだったりします。

 そんな事情からすると真っ先に飛びついても良さそうなものですが、マイナンバーカードに対しては忌避感がありました。

 理由はシンプルに「管理者に対する不信」です。

 

 少し前の話になりますが、「公文書改竄」「統計不正」が報じられたときは、率直に「この国は法治国家じゃ無かったんだ」と思いました。どちらも民主政体にあっては「未来からの預かり物」です。自分は影も形も無くなって、縁もゆかりもない誰かが後継者になる。そんな未来に対して「善良な管理者」としての責任を持つのが民主主義国の国家元首の役割です。

 当時野党議員の皆様がこぞってリーダーの個人名を連呼していた記憶が残っています。また、それを報じるメディアの論調にしても是非のどちらの立場にしても特定個人の資質について論じるものが多かったように記憶しています。その後も公私混同案件が頻出するたびに野党もメディアも司法でさえも「新しいネタ」に飛びつき、鮮度の落ちたネタはアッサリと放置されたように僕には見えました。

 なるほど、この国は「放置国家」ではあったのかもしれませんね。

 

 

 この「放置」こそが一番の問題です。少なくとも僕の「不審」の理由の最たるものです。

 発端は個人の資質だったかもしれませんが、彼に出来たことは将来同じ地位に就く誰かにも出来てしまう状況が残されてしまった。問題が起こったときにその穴を塞がないのは、問題を起こす以上に罪深いことです。問題そのものは当事者を除けば災厄ですが、放置は関係者全員のサボタージュですから。その責を負うべきは選挙権を持つ全国民を含めたこの国の政治環境全てであり、当然僕自身もその一部です。

 

 政治をシステムとして捉えることが出来ないのは「国民性」なのでしょうか。今の教科書がどうかは中身を見る機会がありませんが、振り返ってみると僕が小中高で学んだ頃の歴史教科では「人物」に焦点が当たることが多かったように思います。僕の理解力や読解力が及ばなかった一面もあると思いますが、「制度」が人の生活に及ぼした影響について具体的に学ぶ機会は充分ではなかった気がします。

 実際のところ、時代を遡るほどに主要な個人の及ぼす影響は大きなものになる傾向はあるのだろうと思います。

 ですが、もしかすると現代に至ってもこの国では「法による支配」より「優秀な指導者の資質」が重視されているのかもしれません。遵法精神なんざクソ喰らえな「英雄」の超常性にすがっているとしたら、それは見てくれはともかく中身として古代の社会です。そんな国に自分の情報を全て紐付けて差し出す気にはなれません。




 僕がマイナンバーカードを取得せずにいたのはそんなことを思っていたからです。




 そんな自分の心境の変化には複数の理由があるように思います。



 コロナ禍で交流の幅が狭まる中で週2〜3回ペースで会っていた人から受けた影響は大きかったと思います。個人事業主であるその人から見れば、マイナンバーカードは「単純に便利な代物」で潜在的なリスクはあったとしてもメリットを考えれば使うのが当たり前という論調でした。

 僕自身ゼロリスク信仰の危険性は充分認識している積もりだっただけに実体験を伴った説得力のある話しには耳を傾けざるをえません。



 冒頭であれだけ青臭いことを言っておいて何ですが、五十を越えて少しはふてぶてしく社会を観察する余裕が出来てきたことも大きかったかもしれません。

 あちこちに突っかかっては跳ね返されることの多かった半生を振り返ってみて「元々人間というものは自分が思っているほど性能の良い存在では無かったんだ」と思うようになりました。

 それでいて、社会の中で生きていくにはその人間の不出来さを受け入れていくしか無い。

 そして、社会そのものは「人間の不出来さ」を考えると奇跡的なぐらい有用なこともまた、僕の気付きのうちでした。

 そもそも、自分自身がその不出来な人間の中で取り分け不出来な部分を持つ存在です。そう考えればまだ自分の不出来さを受け入れることもできます。

 そんな「循環思考」は欠陥の多い自分を受け入れるターニングポイントにもなりました。



 コロナ禍にあってワクチンの価値について向き合わざるをえなかったことも大きかったですね。

 個人単位で見れば、ワクチンで恩恵を受けるか否かは「運次第」だというのが僕の結論です。ですが、社会全体で言えば明白なメリットが存在します。もちろん、今後利益を上回る規模の害が後世に判明しなければ、ですが。

 

 この構図はマイナンバーカードにもある程度当てはまる気がします。マイナンバーカードを使いこなすにはある程度の努力を強いられることは間違いありません。その努力に見合う便益を得られるかどうかは、その人の環境と考え方次第としか言いようがありません。

 ですが、収税効率の向上、税と年金の一体化、諸手続きのオンライン化・自動化と言ったことが計画通りに実現していけば、日本という社会に取っては「効率性」と言う明白な判りやすいメリットが生じます。

 

 さらに、「IT」という人ならぬ物によって律せられたシステムが正常稼働を始めれば僕が 日本社会に抱いた「幻滅」の正体、「実は法治主義ではなく人治主義であった」や「そもそも人ですらない『空気』にさしたる疑念も抱かずに従順に順う国民性」を根底から変える可能性があることにも思い至りました。

 

 かつて半導体生産で世界をリードしていた日本がIT後進国に成り下がったのはなぜでしょう。

 肝心なソフトウェア開発で立ち後れたからとか、教育政策の対応の遅れとか、バブル崩壊以降の後ろ向きな投資姿勢とか。他にも数え上げると切りが無いほど理由があるように思えますが、僕はそれは「都合が良かったから」だと思っています。

 誰にとって?

「この国で指導的な立場にある人達」にとってです。

 

 大規模かつ複雑なシステムは、「大人の事情」を考慮してくれたりはしません。「忖度する」ことを組み入れようとしたら、それこそ高度な「人間性」を備えた現在の科学では作り得ない「高度なAI」を実装する必要があるでしょう。

 そしてシステムによって業務フローが自動化されればされるほど個人が「例外的な介入」をする余地は狭くなります。

 

 僕が日本のエラい人で、「均質かつ高度な教育を受けていて、個々人は高い業務遂行能力と規範意識を持ち合わせ、かつ従順に上位者の意向に従う『日本国民』」という得難いリソースを自由に使役することの出来る立場に立つことが出来たなら、そんな「融通が利かなくて、しかも現に自分が優位に立っているシステムに大幅な変更をもたらしかねない代物」は可能な限り遠ざけたくなるでしょうね。



 もしかすると、今になってマイナンバーカード普及に邁進しているこの国のリーダーの多くはこの構図に気付いていないのかもしれません。

 むしろ、国と国民の情報格差を拡大してより支配しやすい環境を構築できる、なんていう僕が少し前に怯えていたような「陰謀」を目論んでいたりするかもしれません。

 そんなリーダー達は、もしかしたらシステムに「忖度する機能」「大人の事情を理解する能力」の実装を要求して現状既に「継ぎ接ぎ」の様相を呈しかけている巨大システムを「迷走」どころか「暴走」に至らしめるかもしれません。



 それもまた、一つの可能性ではあります。ですが、仮にそうであったとしてもその「リーダー達の妄想」上のディストピアは恐らく日本では実現しないと思います。

 今、我々がその可能性に多少なりとも現実味を感じてしまうのは、多分お隣の「法が紙切れに過ぎない皇帝支配の国」の実情を見ているからでは無いでしょうか。

  冒頭僕が嘆いていたことを考えれば、その可能性は近づいているようにも思えます。ですが、お隣さんにはお隣さんの事情があって、こちらの事情とは異なります。

 

 お隣さんでは「『特定の組織』が国家の上位に立ち、国家を指導する」ことが明確に憲法に謳われています。ある意味あのカオスは「法治」の結果なのです。



 我が国の事情を考えると、法を「努力目標」として捉える文化があることは現実問題として観察されている事実なので、その点危惧を感じない訳ではないのですが、少なくともシステムに公然と「法の理念に反する機能」を実装することはできないはずです。

 

 大規模システムの開発には大量の人員が動員されるので、「こっそりなにかを仕込む」ことは極めて難しいでしょう。

 

 年金に関する数々の「やらかし」を考えると、日本の行政機関はシステム開発の発注には向いていない気がしますし、実際にそうであれば「失敗」する確率は高いかもしれません。そこでまた「放置」が為されるかは、それこそ我々次第ですが、少なくとも失敗によって被る不利益はマイナンバーカードを所持していない国民にも平等に降りかかります。普及に汲々としているシステムの信頼を確保することを考えれば、むしろ「不運な個人の被った不利益」については確実に補償されるでしょうね。財源は我々の懐から供出される税金ですけど。

 

 もう一つ、ここまで望んだら欲張り過ぎなのかもしれませんが、将来収入のある全国民が確定申告をする未来が到来したとしたら、と想像してみましょうか。

 そうなれば、少なくとも今のように税金を「なんだか知らないけどいつの間にかかすめ取られている『天使の分け前』みたいなもの」と考え、出来るだけ面倒事には巻き込まれたくないと主体的に物を考えることを放棄する人の割合は減るかもしれません。

 そんな人達がその経験を通して「自分達は奴隷でも家畜でも無く、『市民』なんだ」と気付くことが出来たなら。この近い将来の人口激減が約束されている国は今の数倍の「主権者」を獲得することが出来るかも知れません。



「悪くないかもしれない」と僕はそう思いつつ、生涯初の確定申告に向けて「紙の書類」を探したり整理したりしているところだったりするのです(^_^;)

2021年を振り返ってみたはなし ~書類整理にKaTaSu編~

 このテーマについては「 ブレークスルー」があったのは2021年でしたが人生かけて取り組んできた継続案件ですね。50年かかりましたが、やっと自分なりの方法が見つかりました。

 

 プライベートは積年の「負の遺産」の整理がなかなかつかなくてまだまだカオスが続いていますが、仕事の書類については迷子や未整理のものは現状ゼロと言う奇跡的な状況です。自分が認識していない整理ミスはあるかもしれませんが、少なくとも未整理案件が積み上がっていたり、「あれがない」と思いつつ探す時間が取れないみたいな状況にはありません。

 

 「それって人として当たり前」と思われる方もいるかと思いますが、50年間なんともならなかった部分なので自分としては奇跡的なんです。許してやってください(^_^;)



 

 方法は至って単純です。

 

1 作業中のタスクは原則1タスク1ファイルで ↓ これ、KaTaSuに放り込みます。

クリヤーホルダーファイル|クリヤーホルダーファイリング KaTaSu<カタス>|商品情報|コクヨ ステーショナリー

2  タイトルと締切をロール紙型の付箋紙にざっと手書きで書いて背表紙にはり付けます。↓ 付箋紙のお薦めはコレです。

ポスト・イット® 全面粘着ロール PTR-50Y, イエロー, 50 mm x 10 m, 1 巻/パック, 10 パック/箱 | 3Mジャパングループ

3  タスクが完了したら成果品のボリュームにあったチューブファイルとかフラットファイルに整理収納します。

4  完了案件を収納していたKaTaSuは背表紙を剥がして新しい案件に再利用します。

 

 これだけです。


 改めて言語化してみると、骨組み的にはライフハックの古典である『「超」整理法』に近いのかもしれません。

・1タスク=1フォルダで収納するところ。

・タスクの分類は気にしないこと。

・作業中のタスクは全て一つの棚に立てて並べているところ。

 

 野口悠紀雄氏の同名新書で画期的なアイデアを世に問うたのは1993年のことだったようですが、僕がそのアイデアに触れたのはたしか就職した後のことで、恐らくは2000年前後だった気がします。

 試してはみたものの、

・個々のタスクの表題を一覧出来ない。

・封筒を使うと出し入れが微妙にまどろっこしい。

・クリアフォルダーではボリューム的に収まらない。

・他に適当な収納アイテムが見当たらない。

と言ったあたりがネックになって、自分の仕事には使えないなと断念した覚えがあります。

 

 KaTaSuの良いところは

・とにかく出し入れがスムーズ。

・多少嵩が張っても収納しきれる柔軟性。

・背表紙があるので内容を一覧できる。

つまり、当時感じていたもどかしさを見事に解消する存在だったわけです。

 

 KaTaSu以前の自分の事務処理を思い出してみると、「『作業中』を適切に収納、整理するプロセス」が処理できていなかったんですね。

 

 中途半端でもファイル収納するのが事務作業の基本だと思うのですが、僕は作業量の見積りが下手で、フラットファイルで収納し始めて結局チューブファイルに入れ替えたり、チューブファイルもサイズアップする羽目になったりで、スッキリしないことが多くてついそのままごちゃっと机に山積みにしたりしていました。

 全体像が見えないまま仕事を進めているので作業が進むと整理し直したくなったりで、手戻りが多過ぎて書類整理にモチベーションが湧かなかったんですよね。

  そうなると一々パンチ穴を空けて串に刺す作業すら面倒に思えてくるもんなんです。

 一般論にしちゃいけませんね(^_^;)自分はそうでしたorz

 

 

 そうした「製本」に伴う諸々をタスク完了時点で一気通貫にまとめて出来るようになるだけで、作業量自体が減るわけじゃないのですが、それだけで気持ち的には全然違います。



 

 今回これを書くに当たってネット通販の購入履歴を調べてみたのですが、KaTaSuを使い始めたのは2019年の6月頃だったみたいです。

 正直我ながら手応えを感じるまで2年近くのタイムラグがあったんだと驚きました。

 使い始めた頃の状況を思い出してみると、やっと仕事に自信が芽生え始めたぐらいだったにも関わらず当時の上司の方からなぜか不当に?高く評価されていまして。

 自分としてはその期待に応えようと必死だったつもりなんですけど、途中親が死んだり、ADHDということで特に苦手分野の書類整理については割引いてもらえる感覚に甘えていたと思います。

 

 それが、2020年の11月に異動があって風向きが変わりまして。

 異動後の蜜月が期限切れになったあたりから諸々の問題点が顕在化してきまして、実のところ2021年は人間関係的にはかなり厳しい一年でした。

 なにより「ADHD」とか「発達障害」と言った言葉が伝わらない環境でした。自分の状況を伝えるためにそれなりに努力はしたんですけ、むしろそれまでの「理解ある環境」が「奇跡的」だったと痛感しました。

 

 心中複雑なのは、その厳しい環境がきっかけになって自分の中のADHD性の象徴のような弱点であった書類整理が出来るようになってしまったことです。

 

 

 僕の人生の中で新しい収納文具に手を出して結局上手くいかないサイクルは万年ダイエッターが新手の減量法やサプリメントに飛びついては失敗する構図と同様、失敗するところまで含めて安定の流れだったのかもしれません。

 それこそ減量には一足先に成功したわけですけど、書類整理についてはADHDと言う先天的という説が有力な「烙印」に伴うもので、ADHDであることを受け入れた上で長所を伸ばすことで自己効力感を養ってきた僕としては「そこはしょうがない」とある程度割り切って目をつぶるべき要素だったのです。

 

「答え」が見えてから後出しで思うのは病原を探り当てる「適切な診断」も然る事ながら、真剣に変化を受け入れる一匙の「勇気」と、焦らず、方向性を見失わずにその変化を継続する「根気」が必要であり、かつ自分には足りていなかったのかなと言うことです。

 

 特に「勇気」については、心理的安全性が後押ししてくれる面もありますが、僕のような惰弱な人間にとっては、背中を預ける場所が見当たらなかった2021年のような過酷な環境が必要だったのかもしれません。

 そう思えば、2021年の経験は僕には必要なものだったんだろうなと思います。

2021年を振り返ってみたはなし ~プチ断食編~

 一日一食生活を継続しています。

 仕事が忙しくなるにつれて朝食を食べる時間より睡眠時間が欲しいからと朝を削ったのは2020年の11月のことでしたが、その時点で既にお昼はプロテインにしていて、これも無くそうと思えばいけるんじゃないかと思ったのが2021年の3月。

 やってみたらそれほど苦しむこと無く順応できました。

 

 減量目的では無いですし、むしろ一食で一日に必要なカロリーを摂取する必要があるので夕食は一生懸命食べています。

 中国ではかつてラマダン中のイスラム教徒を指して「大食(タージー)」と形容したようですけど今の僕は実質ラマダンを年中継続している状態と言うと近いかもしれません。まあ、お休みの日は日が沈む前に前倒しで食べたりしますけど。

 

 直接の切っ掛けは時間の捻出だったわけですけど、踏み切れたのはある程度理論的な裏付けがあったからです。

 僕の5年前の減量を支えてくれたパレオダイエットは「人間は遺伝子レベルでは狩猟採集時代に最適化されたままなので、可能な限り当時の食生活を再現しよう」と言うシンプルなものでした。その理屈で言えば、恐らく当時の特に狩猟に出ることの多かった男性は狩猟中は運動を継続しつつ結構な時間に渡って断食状態にあったはずです。その状態が人間にとって最適かどうかはともかく、人体はその状態もオプションの一つとして想定、対応しているはずです。

 

 「オートファジー」についての研究で大隅良典教授はノーベル賞を受賞しましたが、これは16時間以上の断食時間を条件に細胞内の古いタンパク質を分解して新しい物と入れ替える人体に備わる仕組みだそうです。

 

  僕自身の体について言えば、疲れが溜まると夜中「みぞおち」に痛みが出て一晩眠れないことが年に数回あるのです。位置的には胃か食道のようなのですが、翌朝病院で観てもらっても明確な診断がついたことがありません。直接的にこの症状にプチ断食が効くのかどうかは不明で、事実プチ断食を始めてからも一回はこの症状が出ているのですが、恐らくやらないよりはやった方が内臓への負担は軽くなるだろうと思っています。

 

 

 そんなわけでスタート時点では迷いは無かったのですが、継続するにつれて人と違うことをする社会的な抵抗感を感じることはありました。一般的に3食しっかり食べるのは体に良いこととされていますし、なにより僕自身の「成功した減量」も3食しっかり食べるスタイルでした。

 

 何事もなく廻っているうちはそうでもないのですが、体調を崩したり体重が上がり始めたりしたときはもしや「一日一食」が原因では?と思うことはありました。

 


 それでもほぼ途切れることなく続けているのは「快適」だからだったりします。

 昼前に空腹に襲われることも、昼過ぎの眠気に襲われることもなく、一日の中で血糖値の上下動を自覚するタイミングが調理開始から夕食を食べるまでの時間にほぼ限定され、お昼前後に限らず一旦小休止が入らずにそのまま集中を維持出来るので終業時間中の集中力がほぼ途切れなく続く感じです(仕事中の集中に関してはADHDとしてのテーマなので1時間に5分程度敢えて体を動かして気分転換したり、仕事が忙しくなっても朝の出勤時間は早めても帰る時間は定時に固定する等の「その他の工夫」も作用としていると思いますが。)。


 食事無しで6時間程度の登山をこなしたりできるようになりましたし(もちろん非常食は持っていきますけど)、お腹へのダメージを考慮して最近は食前(断食の最終段階)に走るようになりましたがそれでも走っている最中にエネルギー切れすることもありません。外出中などお昼をスキップして活動できるようになって時間を有効活用できている感覚もあります。

 

 感覚としては少し減量が成功したときに近いかもしれません。自分の中のリザーブタンクの容量が拡張して自分の行動範囲が広がった分より自由になれた感覚、ですかね。

 

 

 ただ、この習慣がベストかと言われるとその点は自信がありません。恐らく個人差が大きい気がしますし、やってみたらそれほど苦労なく出来たのは自分の体質に合っていたと言うことだと思います。導入で苦労する人がその後馴致できる保証もありませんし、慣れないまま失敗を繰り返して嫌々やっているようではそもそも「自由」からはほど遠いですからね。


 そして向いているからと言って、自分はずっとこれを続けるのかな?と思うとそう言い切れる自信もありません。

 今の生活のリズムにはこれが合っているとは思いますけど、例えば時間を自由に使える立場になったらこれを続けるのは逆に苦しいだろうなと思います。

 

 もしかすると人間が一日三食食べるようになったのは暇つぶしや、単に楽しいから、なのかもしれないですね。旅先でお昼や間食に時間を取られないことを今の僕は「自由」だと感じていますけど、その状態を「寂しい」とか「詰まらない」と表現する人は多いだろうなと思います。そちらの方が多分多数派でしょうね。

 

 本当に全ての「拘り」や「恐怖」から解放されて理性で全てを制御出来るようになったなら一日一食にこだわること無く、もう一段自由に生きることが出来るようになるのかもしれないな、なんて思ったりもします。

 

 今はまだ「その変化」のタイミングでは無いようですが、変え時かな?と思えたときには恐れずに変われたら良いなと思ったりします。

2021年を振り返ってみたはなし ~小遣い帳編~

 今まで自分の資産全体の状況はウェブサービス(MoneyFoward)を使っておおまかに把握していましたし、収入額に比して多めに積立貯金や投資をして、足りなくなった分は取り崩すのが僕の大雑把な資産管理法でした。

 今みたいに市況が上向いているからこそ出来る荒業ですし、結局のところ無駄な支出を抑えないと崩す額が増えるので実はここ数年思ったように積み上げができていない状況です。


 この状況を改善すべく大雑把な「小遣い帳」を付けてみることにしました。


 仕組みとしては以下の通りです。


1 一日の予算を1万円に設定します。年間365万円。かなりユルめですが、元々単なる目安ですし。


2 光熱水費や通信費と言った自覚的に支払わない引落し経費は予算の枠外として一切考慮しません。


3 1、2を踏まえて自分が店頭やネットで決済した経費についてこの予算1万円をベースにプラスマイナスを積み上げていきます。


 プラスに積み上がった額=可処分所得という認識で消費の目安にする形を想定していた訳ですが、今日現在でマイナス3万2千円ぐらいですね。

 この結果が独身50代男子(実家住まい)でも資産形成が進まない現状を顕していますが、冬物の衣服を買ったり、お年玉を出したり、食料品も年末年始はいつも通りの買い物が出来なかったりで、ある程度「そうなった理由」は把握出来ていますし、そもそもカード払いの比率が高くなって実際の収支と現金残高の動きにタイムラグが出来たり、金融商品の取り崩しと「収入」の区別がつかなかったりと言った直観的に「出入り」が把握しにくい現状の問題点を解消するために始めたことで、今「やりくり」が上手くいっていないこともむしろその状態を把握できているので仕組みとしては想定通り機能していると思っています。

 あとは「赤字」が積み上がって嫌になって放棄しちゃうのが最悪のシナリオですかね(^-^;


 ちなみにこれもNotion上でやっています。

 正直GoogleSpreadSheetの方が向いているかなと迷ったのですが、月ごとの集計を取ったりグラフ化したりと言った使い方を始めると逆に「手段の目的化」といういつも陥る罠に捕らわれそうです。

 今日時点の状況を知るという意味では必要充分ですし、なにより日々の入力作業がお手軽なので自分はこれで良いかな、と思っています。

2021年を振り返ってみたはなし ~古武術編~

「武神館」という古武術の道場が近所にありまして。

 実はかつてネトゲ廃人をやっていたころに重度の五十肩に見舞われて以来通っていた「腱引き」という整体?治療術の施術者の方が道場の師範でして、その流れだったりします。

 

 厳密に言えば2020年の12月から始めているのですが、2020年中は月謝を払わない「お試し期間」だったので実質2021年からと言って良いでしょう。


 僕自身は武道と言う点では高校、大学と弓道を続けていたとは言え格闘には全く縁が無く、友人の結婚式の余興で踊りを披露すれば一人だけ全く違う動作をして意図せず笑いを取ったり「真面目にやれよ」と仲間にガチ切れされたりするような、絶望的に体の使い方のセンスがない人間だったりします。


 この武神館、誤解を恐れずに言ってしまうと「古流武術のごった煮」でして、投げ技・関節技・打撃といった体術、武器術で言えば剣(居合い含む)、六尺棒半棒、杖、槍、矛、短刀と言った一般的?なものから手裏剣や分銅と言った暗器(暗殺用の隠し持つ武器)の類いや、十手や縄を使った捕縛術に至るまで、リアルに「なんでもあり」だったりします。

 受け身や組み手の型といった基礎になる動作はあるものの一回1時間半の稽古を週一、二回ペースで受けていては全ての技術を一通り触るだけで何年かかるか判らないぐらいのボリュームがあります。

 当然のことながら毎回のように「新しい課題」が出てきてただでさえ絶望的にセンスも記憶力もない僕についていけるわけもなく、永遠に初心者状態から抜けられそうにありません。


 そんな状況ですが、新しくなにかを学ぶこと自体が脳に必要な刺激と言うことで言えば、マンネリとは無縁のこの状況はある意味理想的です。

 

 また全く新しいことをやっているように見えて、実はそれぞれの動作に通底する体の使い方の法則のようなものがあって、「体の使い方のOSのようなもの」をいろんなパターンに当てはめて学ぶことで状況に合わせた「応用力」を学ぶことが終局的な目標だったりします。


 少人数体制の中で僕が一番新入りかつ下手っぴという状況が今のところ続いており、師範のみならず先輩の皆さんからも指導を受け続けている訳で、ありがたいことに学ぶという意味では大変コスパの良い状況が続いています。無駄な自尊心に足を引っ張られなければ理想的と言っても良いぐらいです。


 そんな訳で、僕が「達人」になることは永遠にないと思いますが、続けている限りは伸び代は幾らでも見つかるし、カメの歩みでもほんの少しずつはどこかを伸ばし続けることが出来るんじゃないかと思っています。