僕の「気付き」の内訳のはなし プロローグ? 「ゆる言語学ラジオ」篇

僕にはYouTubeを「時間泥棒」として敬遠しているようなところがあります。

 

「わざわざ敬遠する」ということは依存の対象として何度かはまり込んだ経歴が残っているからでもあります。

 

過去の経験を振り返ると、タマタマ何かの切っ掛けで視聴を始めたチャンネルについては初期から塗りつぶすように視聴を重ね、概ね長くても二~三年程度分の動画を視聴した段階で、「ああ、だいたい判った」と思う瞬間が来て、興味がプツンと切れることが多かったです。

 

YouTubeの番組作成はかなり過酷なのではないかと想像します。

ネタのインプット、シナリオの作成、撮影、編集。

サポーターとのやり取り、他の発信者との関係性構築。

「当局」とのやり取りなんかもあるかもしれません。

 

一番時間がかかって短期的には優先順位が低いように感じてしまうのが「インプット」ではないかと思います。

同じネタでも多少切り口を変えれば「味変」はできるでしょう。

「コラボ」や「視聴者いじり」や「個人の感想の垂れ流し」には基本的にインプットは不要でしょう。

余程勉強熱心な人でも「その他のタスク」と人気の獲得、維持に不可欠な「一定の更新頻度」を確保しようとすると「物理的な限界」がやってくるのではないかと思います。

 

「人と人のやり取り」をエンタメとして消費することは僕の中でかなり価値の低い行為です。

「自分がそのやり取りを構成する一員」であるならともかく「スクリーンの向こうのそれ」を鑑賞する行為は単に「温かい空気」を「その気分だけ」補充するだけの「無意味な行為」に思えます。

多くの人の行動を観察するに、僕のこの価値観は正しいかどうかはともかく人類全体の標準から離れた「異端」なのだなという自覚はあります。



僕の興味がプツンと途切れるのは、もちろん自分自身の性格もあると思いますが「そんな事情」が「裏」にあるのでは?と感じることがあります。




そんな僕にとって、チャンネルを選ぶ基準は「自分が持っていない知識セットのうち、興味を惹くものがあるかどうか」。

その一択とは言いませんが、比重はかなり高いです。



YouTubeというメディアは本質としてその条件を満たし続けることが難しい、ということが前段で述べたとおりです。



過去にはYouTubeを通じて「凄い人」を見つけたことがあります。

 

僕の知らなかった「究極の答え」に近いなにかをもっている人でした。

結局YouTubeという「万人向けの判りやすい解説に腐心する必要のあるメディア」より、縁あってリアルに会うことが叶ったその人本人と話す方が何万倍も面白くなってしまって、その人のチャンネルの視聴も途切れてしまいました。

初期から三年間分程度を三ヶ月程度ぶっ通しで視聴し続けて、一時期は「作成していた当の本人」より動画の内容に詳しい状態になったりもしたんですけどね。



当然、それはレアケースですし、仮にそんな僕に「本人」の価値を認められたからと言って「YouTuberとしての成功」からは却って遠ざかる気もします。



ともあれそんな僕にとってのYouTubeは散々そうやって「自分への言い訳」を構築しているにも関わらず、「父親が寝室に下がってからの『独りの時間』に耐えきれずに音が欲しくて流してしまう、消費するのに罪悪感すら伴うもの」でした。

本当にしたい「書くこと」の効率は確実に下がりますしね。




2023年10月末、心臓冠動脈狭窄の診断を受けて、今後いずれかのタイミングで冠動脈バイパス手術を受ける必要があるとの診断が下ったことで状況が変わりました。

 

そんな傾向にブーストがかかったのです。




孤独耐性が極端に下がりました。




「走る」ことで時間を費やすことができなくなったので、「自分と向き合う時間」が「居間で座っている時間」とほぼイコールになってしまいました。

結果、「人の声が聞きたい欲」が高まりました。

 

そんな時でも「気軽に消費できるコンテンツ」には食指が動きません。



「後日の自分」に少しでも言い訳が立つような「少しでも実になるようなもの」を探していて行き当たったのが「ゆる言語学ラジオ」でした。

 


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https://www.youtube.com/@yurugengo



僕は、大学は外国語学部を出ています。

と言うのは建前で「体育会系弓道部」を専攻した他は「科学史」とか「宗教概論」とかそんな「専門外」のことの履修ばかり印象に残っていて、語学からは逃げまくっていました。

 

言語学」と「語学」の明確な区別が出来ていなかったことすらこのチャンネルを見て初めて気付いたくらいです。



このチャンネルのコンテンツを観ることで、言語学というのはいわゆる「外国語の習得」とは明らかに違う、言語という概念自体の定義、理解を目指す学問だということを理解しました。

 

言語は「人」・「人間」の存在の根本に深く結びついていて実は「哲学」「文化人類学」「社会学」のような「人間」そのものの理解を目指す学問だということも判ってきます。




刺激的でした。




ただ、一方でコンテンツの内容には不満を感じていました。

前段で述べた通り、僕のYouTube視聴スタイルは気に入ったチャンネルがあると頭から順番に視聴していくというものです。

 

開設当初のこのチャンネルの出演者二人は「実に危うく」見えました。


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僕とは20歳近い年齢差があるにも関わらず「個別の知識」については質、量ともに既に負けている可能性を感じましたが、僕の価値観の中ではより肝心な「歴史の大きな流れ」や「宗教教義やその他の代表的な思想の骨子」など、人間社会の総体を捉える上で必要な「必須科目」への理解が圧倒的に足りていないように見えました。

インパクトが強くて「ひけらかすのに丁度良い細切れ」は異常な記憶力で保持しているのに、その点と点を結ぶ線が全く引けていないように見えたのです。

 

ADHDに特有な「メタ的に理解しないとなにも覚えられない」特質を持つ僕からすると、同じ人類として能力にこのような偏差が存在するのかという戦慄すら覚えるアンバランスぶりでした。

発達障害」の診断を受けていて、標準偏差から大きく外れていることにお墨付きが出ているのは「僕の方」ですけどね。



チャンネルホストのお二人のうちの若い方、水野大貴さんは開設当初は26歳だったそうです。

その時分の私は、ライアル・ワトソン氏、渋沢龍彦氏、ハワード・フィリップス・ラヴクラフト等の著作を読み漁ったり、ハラルト・シュテュンプケ氏著の「鼻行類」とか、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑」といった「奇書」の類いを集めたり、今から考えてみると「現実逃避」に徹していました。



相方の堀元見さんはその3つ歳上。

チャンネル開設当初の彼と同年齢だった頃の私は恐らく自分史上最も「陰謀論」に支配されていて、リアルに「アポロ計画は月に行けなかった」と信じていましたし、もう少しこの傾向を引っ張っていたら、あるいは時代がもう少し下っていたら、熱烈な「Qアノン信者」になったり「ワクチン否定論者」としてネットを攪乱する存在の一角になっていたかもしれません。



今の僕の「お二人に対する見解」が仮に「公平な判断」に基づくものだったとしても、それは百メートル走で三秒ほど早くスタートしているのと同じようなハンデが必然的に生じているからであって、今の時点で多少前に位置取ることができているとしても、いずれ抜かれることは確定的だろう、という程度のことです。

 

「そこまで悲観的にならなくても」と思われるかもしれませんが、現実はもっと僕にとっては酷いものであった、と言うことをこれから語ります。



開設当初のモヤモヤから十月頃の「初見」からしばらく視聴を止めていたのですが、年末年始休暇になって自由になる時間ができてしまうと「その手のコンテンツ」への欲求がより切実なものになります。

もはや選んでいるというか、アル中患者がそれらしいものであれば「エチル」だろうが「メチル」だろうが手を出してしまう感覚で視聴を再開したのです。



しばらく「我慢」して観ていると、様子が変わってきます。

 


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どうやら「バズった回」があったようで、それがまた綺麗に炎上したようで、謝罪シーンなんかが入ったりします。

 


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「流れの中でそういうこともあるよね。」

程度の感想で、時間を費やすために次を次をと観ていくと、事故的なことではなくて、番組製作の態度的なものが変わってきます。

 

現役の専門家を監修に迎えたり、それに飽き足らずにゲストに迎えたり。

 


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「観るに耐えなかった」初期の回を、同じお題で「更新」するコンテンツを作成したり。

 


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↑ この辺、シナリオを構成する水野大貴氏の熱意も然る事ながら、チャンネルホストとして「経営者」的立場にあり、かつ「聞き手」として供に番組をもり立てる堀元見氏の少し年若い水野氏に対する敬意、信頼を感じるところもグッときます。

 

「ひけらかす」という「芸風」が変わるわけではないですが、彼らへの「周囲からの評価」が明らかに変化している様子が伺えます。

 

なにより、彼ら自身の「無知の知」のレベルが急速に向上し、初期の頃よりははるかに確度の高い発言をしているのに、「正しく自分の無知を恐れる」ようになっていました。




その頃になると、もはや僕は客観的な観察者では居られなくなっていました。




「『人』を尊敬しない」という「鉄のポリシー」があるので、この感情を安易にそう表現はしません。

「大いに感銘を受けた」という言い方をさせていただきます。

 

個別のコンテンツの評価と言うよりは、その「チャンネルの歴史の流れ」にすっかり魅了されてしまいました。



正直「逆にやりすぎかな?」と思わなくもないコンテンツもあります。

言語学マニアである水野氏と、想定される視聴者である「普通の人」とを繋ぐ「通訳者」として機能している堀元氏を敢えて外して、「言語学という学問領域」の中でも取り分け「難解」と評される「生成文法」分野の現役学者との対談形式で四時間半ぶっ続けで多少の予習ではビクともしないような内容を延々と語り続けるものとか。

 


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「若さだな」と思います。

それを自覚し、受け入れた上で、やってみえるようです。

 

僕はそれは単純に「立派」だと思います。

 

軟弱なことにリスナーとしては脱落しましたけどね。

今確認したところ、二十七分頃まではなんとか「我慢」が続いていたようです。





宗教組織、公益団体から命に関わるインフラを運営する事業体まで、ほぼ全てといって差し支えない「組織」を評価する基準がその「経済的な成功」の度合いになったり。



人を評価する基準という以前にまず一定程度の「優しさ」があるかどうかが「足切り」の基準点になったり。



良くも悪くも「評価軸」は時代の流れの中で変動を続けます。



コンテンツについては、とにかく「消化の良いもの」それ以前に「噛まなくても溶けるように口の中で消えていくもの」が良しとされているように感じます。




一方で、現実世界はより一層高い解像度で解析されるようにもなっています。

量子力学」「生成文法」あるいは直感との乖離や、不可知領域の広さでは「医学」に代表される人間の生体への理解もそうかもしれません。

 

今の僕は「せかされることなく自分のペースで理解することが許されれば、最終的には大抵のことは理解できる」と思っていますが、現実にはどれだけ周辺的な知識を仕入れて時間を掛けようと、いっこうに核心に迫る感触を得られない領域が存在することは素直に認めるところです。



臆病な僕にとっては「理解できないことがある」という事態そのものがストレスですから、これはある意味「自分の幸せ」に直結する問題です。

 

目を背けている訳ではないですが「自分なりにできることがある」ということと「社会を信頼する」ということが、この点については盾になってくれていると感じます。

 

自分が理解できないことがあっても、それを理解してくれる、同じ社会を支える同志がいてくれる。

いずれ、ジワジワと、ADHDらしく遠回りに、その周辺事情を少しずつ埋めていくことで、いつかは理解の端には辿り着くことができるかもしれない、という期待も残してはいますけどね。




「ゆる言語学ラジオ」のこの「なにも隠すところのない、ありのままの生臭い美しき軌跡」は、僕の人間や社会に対する信頼を揺るぎないものにする、とまでは言えないですが、「背中を預けるに値する」と、実感させてくれました。




「今時の若い者は」という言葉は古代エジプトの粘土板にも刻まれている、なんて話はどうやら出典不明な都市伝説の類いのようですが、文字として刻まれているか否かに関わらず、恐らく人類は文明を進化させ始めたあたりからならほぼ確実にこの言葉を使っていたのではないかな、と思います。

なにせ「年若い隣人」は良い悪いはともかく「年老いた自分」とは確実に違う世界、価値観、人間関係の中で生きていたのは当時から変わらない事実で、そんな彼らは「自分」とは一致しない「正解」を持っていたはずですから。



僕自身の中にもあった、この「人の世の理不尽の源泉」を、この若者たちは完膚なきまでに破壊してくれました。



YouTubeという、「学びからは最も遠いところ」にあると僕自身が固く信じていた場所から。



それは、引いては「人間って、社会って、凄い」という手術・入院を経て獲得した僕の「根拠なき確信」の、まだちょっと弱いけど、それでも確かな裏付けにもなったのでした。