色々々々あった今年をシンプルに振り返ってみたはなし。

「禍福は糾える縄の如し」

 

僕の2020年はそんな年だったと思います。

 

まあ、どの年を切り取っても人の人生はそんなもんでしょうけどね。



11月から新しい職場に移りました。

 

自分ではコントロールできない母の死や大きな失恋、そしてコロナ禍に見舞われる中で、実はこの異動は自分自身の決断、意思を通したことの結果でした。

 

正直、自分の思い描いていたものとは真逆な結果でした。

 

不本意ではありましたし、当時は自分の無力を感じもしましたが、振り返ってみると良い変化であったと思っています。

 

前の職場は自分を再生、と言うより生まれ変わらせてくれた、思い入れも深く、多くの信頼する人達の居る大切な場所でしたが、四年半と言う年月は良くも悪くも「慣れ」を招きました。

 

悪いことに「慣れ」は「奢り」を伴ってやってきました。それこそ諸々のことでペースを乱されたこともありましたが、10月までの自分の働きぶりは我ながら不本意でした。




今の職場では「美味しいところ」をもらっていると思います。

 

事務職員の定数は前の職場の倍の四名です。

 

僕は病休されている方の穴埋めとして前回に続き「過員」としての気楽な立場です。

 

一人は休んでいるので実質定数内とは言っても僕の居ない状況で曲がりなりにも廻していた優秀な皆さんの中に参画する形です。年度途中のイレギュラーな異動だったことも考慮していただいて、担当する仕事の範囲は10月までと比べれば8割程度に減りました。もちろん施設の規模は大きいので単純に8割減では無いのですが、自分の感覚では「食い足りない」ぐらいです。

 

そんなお気楽な状況で、自分の狭い経験の内で隣の若い同僚にアドバイスしたり、面白そうな仕事があったら隙を見て横からかすめ取るようなことをしていました。正直、僕が迎え入れる立場だったら我慢ならなかったかもしれません。

 

にも関わらず、何をやっても「助かります」「来ていただいて良かった」と口にだして評価してもらえました。

 

ぶっちゃけ自己評価以上の褒め言葉をもらうと居心地が悪くなるたちなので、その点座りは悪かったのですけどね。

 

人も状況も違うので暫くは様子見かな?と思っていたのですが、前の職場で日の目を見なかったり試行済みの業務改善を早い時期にあっさり採用していただいたことで発言のハードルがどんどん下がっていったのも嬉しい誤算でした。

 

多少通勤距離が伸びた上に、始業時間が早くなったこともあって起床時間が1時間ほど早まったことは日々寒さが募る時期だったこともあって辛かったのですが、マイペースで働かせてもらえたこともあって早々にアジャストすることができたと思います。



なにより、戦力として期待されて新しい職場に赴いたのは初めてのことで、それは素直に嬉しい経験でした。

 

知命」を目前にしてのこの発言はいささか恥ずかしい話しなのかもしれませんが、十年前の僕ならそんな日が来るとは思いもしなかったことでしたから、ある意味「夢が叶った」以上の経験でした。

 

 

 

さてそんな恵まれた状況の中、今、僕は二十二歳の同僚と席を並べています。

 

彼の歳の頃の自分を思い返すと、今の彼は信じられないぐらい優秀で、職業適性という意味でも遙か及ばないと感じます。



が、彼の仕事ぶりを見ていると窮屈だな、と思います。

 

今の職場は風通しが良いと思います。上司も来た早々の僕に自由にやらせてくれるぐらいの度量を持った人です。そんな環境に居ながら良くも悪くも僕を含めて周りのベテラン勢の顔色を覗ってしまい、一つ一つの仕事の捉え方にしても「こんなもの」と言う思い込みの枠を出ないところがある。

 

仕事そのものに「楽しい」とか「面白い」と感じている様子がありません。「あの仕事はやってみたい」みたいな欲を感じることがないようなのです。

 

職場には馴染んでいるし、同僚との会話、人間関係には喜びを見出していても仕事そのものに喜びはなくて、実際話しを聞いてみるとアーリーリタイアメントを指向していたりするんですよ。

 

なんのことはない、僕自身五年前にはそうでした。

 

二箇所目の職場で迎えた四年目の彼は「守離破」で言えば、まだ守る段階です。

いきなり職場に闖入してきた図々しいオッサンを前に警戒する気持ちもあったかもしれません。

 

ですが、今の僕からはそんな彼が「もったいない」と写ります。まだいくら失敗してもやり直しの利く、これからいくらでも吸収して「なにもの」にでもなれるのに。

 

もしかすると僕は出世とは無縁どころか、一度は職自体をギブアップしかけた身で本当に失うものはなにもないと言う「恵まれた」状況にいるからこそ、そう思うのかもしれません。

 

それこそ、彼には守りに入る権利もあります。結局僕が立ち直れたのは「失敗するのも自分の責任。一度の人生なにをしても構わない。最後に責任をとるのは自分なんだから」と開き直れたからです。なにものになるか、なんてことは彼以外の誰にも干渉できることではありません。

 

そうですね。彼がどうと言うより、彼の姿を通じて、今自分が自由になれていることに改めて気付けた、と言うことなんでしょうね。

実は今年、そんな自分の心持ちに寄り添ってくれる詩に出会いました。

 


日食なつこ -「四十路」MV

 

僕自身はもう四十路と言うには図々しい歳になってきましたが、働いている限りはこの詩のような心境で働けたら良いな、と思っています。



純粋に仕事のノウハウという点では隣で働く彼に伝えられるほどのものはそう多くはないでしょう。彼の能力ならいずれ遠からず自分自身の力で僕なんか易々と越えていくことだと思います。

 

ただ、浮き沈みの大きかった僕が今のままの心境を保って彼の隣で働くことで「いろいろあるかもしれないけど、人生そんなに悪くない」ことを伝えられるかもしれない。

 

それこそ烏滸がましい話しですが、今はそんな不遜なことを思っていたりするのです。