ゴジラにおける「何でも説明しちゃう博士」に関する論考 その1

ゴジラ -1.0」を観てきました。

ネタバレありの感想?論考?です。

 

僕自身について言えば、ゴジラについてはなんとなくシリーズの流れやメルクマール的な作品のプロットを承知している程度の「ニワカ」であり、マニアにはほど遠いです。

記憶力に自信がないこともあって、「シン・ゴジラ」以前の作品の細部はかなり怪しいと思います。

むしろ着想自体はゴジラマニアの方の「ゴジラ -1.0」評に対して抱いた違和感を起点に湧いたものでして、「違う視点」や「より高い解像度」をお持ちの方には些か公平性に欠けて見える可能性があります。

 

さて、「予防線」はこのぐらいにしましょうか。

 

観終わった直後の感想は「天晴れ!」でした。

シリーズ前作はあの「シン・ゴジラ」です。

山崎監督自身が「シン・ゴジラ」鑑賞直後に「貧乏くじ」と表現していた立場に自ら立つことになったわけです。

 

その「作家性」もあって、ほぼフリーハンドで伝統ある「ゴジラ」という日本有数の歴史を持つシリーズコンテンツを「蹂躙」した庵野秀明監督とは対象的に、山崎貴監督は「全方位に気を遣いつつ営業成績獲得に最適化した作品を作る」ことに定評があるようですが、そんな期待が製作を依頼した東宝側にあったとすれば両手を縛られた上でシン・ゴジラを超える成績を上げよ、と言う旧日本軍も真っ青な無理筋な勝利条件を背負って本作は制作されたことになるわけです。

 

そんな危機的な状況を乗り越えて?、本作は「シン・ゴジラ」とは違うルートで、それも「シン・ゴジラ」でさえなし得なかったレベルで「ゴジラ」という「伝統芸能」を解体的に再解釈し、呪縛から解き放ってみせた、と言うのが鑑賞直後の僕のこの映画評です。



ゴジラって良くも悪くも日本的なコンテンツだと思います。

怪獣映画という本来は娯楽作の王道のようなジャンルであるにも関わらず、「戦争への反省」「核兵器への恐怖」「自然への畏怖」等々あらゆる人類的な命題を背負わされてしまっている。

 

背負っていることが悪い、とは思わないのです。

なにも考えずにひたすら蹂躙を繰り返すだけなら予算的に太刀打ちできないハリウッド映画に敵うはずがありません。

物量で対抗できないなら評価軸を変えるのは戦略としてアリでしょう。
それこそ日本の「お家芸」ですしね。

 

ただ、「伝統芸能」になってしまったことで「こじらせてしまった」のかもしれないとは思います。



いわゆる「ゴジラファン」の立場で本作を批判する意見として耳にしたもので印象的だったのは「ゴジラを代弁する立場の人がいなかった」というものです。

 

初代の芹沢博士からシン・ゴジラの牧吾郎博士に至る「ゴジラの生態を解明して対策を策定」したり「ゴジラ出現の道義的意義」を説明したり、最終的に「人類に対してゴジラを弁護する立場」に立ってしまう、「あのポジション」の人です。

 

本作で言えば野田健治さんがそれに近いのですが、彼は「ゴジラが水爆実験の影響で巨大化した」とか、「大戸島に出没していたあの個体が変化したもの」みたいな経緯も、ゴジラに関する詳細はなにも承知していませんし、劇中の解説台詞も「何も判っていません」ととても正直です。

 

画期的なあの作戦も、「これで生きている生物はいないでしょう」というレベルの思考で策定されている訳で、ある意味大戸島での「零戦の20ミリを食らって生きていられる生物なんているか!」と程度の差の問題でなんらの確信があるわけでもないんですよね。

 

現に作戦の肝になるような「出現時刻」なんか大外ししている訳ですし、作戦そのものも最後の「特攻」という隠し球がなければ大失敗に終わっていた可能性が高い訳ですし。

 

僕は逆にここが良かったと思います。



映画鑑賞には「メタ的な理解」という文脈が存在します。

 

ゴジラも犠牲者だ」ということは「映画を観ている人間が判ればそれで良い」んですよね。むしろ「なんでも台詞で説明するんじゃねー」というのは映画批判の典型の一つです。

 

「人間が人間の事情で躊躇いなくゴジラを倒して喝采をあげる」という構図に「救いのなさ」があるならば、そちらの方がメタ的により際立つ形で「この世の不条理」を表現できているという解釈も成り立つわけです。

反省は、必要なら観ている人間がすれば良いのです。

 

実際、「ゴジラ-1.0」を観てしまうと過去作の「なんでも説明しちゃう博士」というのは作劇上かなりの問題点だったことが際立ちます。

 

なにせ緊張感や恐怖感が薄れます。
人間は言語化された時点で「理解」します。
本当は判っていないものでも判ったつもりになってしまうものなのです。

「日本の怪獣映画」がホラー映画やパニック映画とは違う、良くも悪くも「独立したジャンル」になってしまった原因の一つはこの「回り道」がフォーマットとして組み込まれてしまったことにあるような気がします。

ご丁寧にも刺激を消すことがフォーマットに組み込まれていたわけですから、早々に「伝統芸能」になってしまったのも当然ですよね。

 

本作のキーワードになっている「-1.0」について、山崎監督は「色んな含意がある」的な発言をしていますが、もしかすると「何でも説明しちゃう博士」の存在もマイナスしてみたものの一つだったのかもしれないですね。

 

さて、ここまで書いてきてなんですが、実は書いている間に本文の論点である「何でも説明しちゃう博士」問題について、「ゴジラ -1.0」とは全く別のアプローチで対処した事例に思い当たってしまいました。気付いてしまったからには書かないと収まりがつかないのですが、その点については次回に回したいと思います。