「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」を観てきました。
ネタバレありの感想です。ご注意を。
ぶっちゃけ、1971年生まれの僕からすると、「アニメの鬼太郎」を映画館で観る=「東映漫画まつり」な訳で、いい歳した大人の鑑賞には堪えられないというのが「相場観」でした。まあ、モロ偏見な訳ですが。
正直、最近ご贔屓のYoutuberがお薦めしていなかったらこの選択はなかったと思います。
実際観てみれば冒頭から明らかに「子供向け」では無かった訳ですが、絵柄、声優、ストーリー展開、舞台設定から「推理展開における意外な真犯人」まで、全てのパーツが「どこかで見たことがある」という代物でして。
主人公バディの組み合わせを観て「ああ、これは特定嗜好なお姉さん市場狙いなのかな」なんて思ったりして観ていました。お薦めしてくれたYoutuberさんは「ダメ男好き」という明白な属性を持っていたりしましたし。
そんなテンションはラス前20分ぐらいまでは続いていたのです。
それが、隣のお姉さんがスンスン鼻をすすり始め、それがステレオになり、サラウンドになり、結局自分も泣いてました。
無理矢理なカタルシスも想定外のどんでん返しもなく、むしろラストは予定調和的です。
まあ、「墓場鬼太郎」とか「鬼太郎の誕生譚」については「諸説あります」状態とは言えある程度のフォーマットは決まっているわけで、最後にどうなるかは推測はできちゃうし、事実その推測から大きく外れない流れのままなんです。
正直、自分でもちょっと呑み込めませんでした。
もしかすると、「もらい泣き」というヤツか?とも思ったのですが、どうも違う気がします。
一つ明確に言えることがあるとすれば、それはこの作品が「水木しげる」「鬼太郎」という存在に対してとことん誠実に向き合っていたということです。
前述したように、僕にとっての鬼太郎のイメージは「東映漫画まつり」です。実はその立ち位置ってちょっと「ゴジラ」に近いんですよね。
僕らが子ども時代に消費していたのは「原作」から毒が抜かれてシャバシャバに薄められた上に激甘に味付けされた代物だった、というのがその共通点です。
ただ、じゃあ僕が「ホンモノ」を知らなかったのかと言えば、オタクのハシクレとして「墓場鬼太郎」の存在も知っているし、民俗学好きとして水木しげる先生の日本妖怪文化史上の泰斗としての業績も認識しているし、なんなら「ゲゲゲの女房」とかご本人が出演しているドキュメンタリーなんかも観ていて、ご本人の人となりについても「それなり」には知っていんです。
ですが、白状すると「墓場鬼太郎」近辺のあのアクと言うより毒の強い作風は苦手だったりします。
その理由について、単に自分の感性に合っていなかったんだろうな、ぐらいのことを思っていたのですが、今から考えてみれば僕に氏の描く「エゲツナイ人間の真実」を正面から見据えるだけの度量が備わっていなかったということかもしれません。
水木先生って独特の感性があって、ちょっと地獄を地獄と思わないヒョウヒョウとしたところがある気がするんですけど、あれは「余裕のない人間」にしてみると、シリアスに扱うべきもので遊んでいるように見えちゃうんですよね。その遊び方が結構独特なので余裕のない人には尚のこと解釈が困難になってしまう。
その点、この映画は水木先生本人が観たら、多分「オイオイ」と思うほど、「遊びのない真剣さ」で解釈していたりします。
言ってみたら、僕みたいな水木作品難読者?向けにほどよく翻訳してくれていたってことです。
そう考えると、僕が泣いたのはこの作品を通じて改めて水木しげる先生が作品を通じて伝えたかったことを再解釈することができた、ということなのかもしれません。
実は近年ゴジラについても似たような経緯を辿った気がしています。
「シン・ゴジラ」や「ゴジラ-1.0」を通じてやっとシリアスにゴジラという存在と対峙することができたのは、「そういう作品が無かったこと」と同じぐらい「自分に受け止める度量がなかった」ということがあったのではないかと。
自分についてはそうなのかな?として、周囲のお客さんは10代から20代ぐらいの方が多めで、水木先生のリアタイ世代じゃないでしょう。水木作品は「古典」として繰り返し消費されているでしょうし、10年前には「墓場鬼太郎」も深夜枠でアニメ化されていたらしいので全く初見というわけではないでしょうが、女子中学生・高校生っぽい人達が僕の辿ったのと同じルートで「感涙」に辿り着いたとはちょっと考えにくい。
彼ら、彼女らが心動かされたのはなにか、という問いに当然僕の内面からは答えはでないのですが、ここ最近鑑賞した映画との比較で言えば、「すずめの戸締まり」で感じた消化不良感、「ゴジラ-1.0」で割と安易にカタルシスを感じてしまった自己嫌悪と比較するととても「自然な感動」具合でした。
安易な「泣かせプロット」に頼らずに、「割と良くあるパーツ」で誠実に水木先生の心情に迫るストーリーを紡いだ本作は、派手な視覚効果のような「飛び道具」に頼りがちな現代の映画界にあって珍しく「ちゃんと物語を着地させる」と言う実は面倒くさい割に映画としての「売り」にはなりにくいものに真剣に取り組み、成功した作品とは言えるのかもしれません。
最後に。
終劇後の劇場の空気感って結構興味深いと思っていて、良作と思った映画を観終わったあとはちょっと状況を観察したりするのですが、最近で言うと「THE FIRST SLAM DUNK」の時のリアタイ世代90%以上の客層の一体感とか、「Tar」のあとのポカンとした空気感とかは印象的でした。
この作品はと言えば「こんなに暖かい空気感を感じたのは初めて」だったかもしれないです。
本編開始直前までは鑑賞中もしゃべり続けるんじゃないかという勢いで画面に映るものの感想をひたすら交換しまくっていた女子中学生グループが「もうこのまま次の回も観ていきたい!」なんて「今観たちょっと良い物」で盛り上がっていたのが微笑ましく印象的でした。