ふと目にしたー文から家族の再解釈をしてみたはなし。

新しくいちから家族を始める。それは想像以上に大変なことなのだ。僕の育った家族は、あとから振り返るとおかしなところが沢山あった。

~中略~

そもそも核家族のありかた自体にまだお手本がなかった。父も母もとにかく暮しを楽にすることに必死で、あるべき家族の姿を模索する余裕はなかった。

- ECD作「他人の始まり 因果の終わり。」

http://books.rakuten.co.jp/e-book/

 

他人の始まり 因果の終わり

他人の始まり 因果の終わり

 

 

たまたま録画機が勝手に録り留めた闘病中のECD氏のドキュメンタリーを発掘して読んでみようと思った本ですが、冒頭近く、彼が自分の親が築いた家族について語ったー文を読んだ瞬間、ずっと繋がらなかった回路が突然繋がったような衝撃を受けました。

 

僕が自分の育った家庭環境に感じてきた違和感。ほんの一部ですが、冒頭で引用した個所で受けた衝撃を堀り下げることでその正体を見つけることができるような気がしたのです。

 

今回は書いてまとめることで「衝撃」「思いつき」に改めて、形を与えてみようと思います。

 

ECD氏については知っている人は僕よりずっと知ってみえるだろうし、少し調べれば僕があやふやにまとめた情報を読むよりまともなものがいくらでも見つかると思います。ここでは彼については今回論ずる前提として必要な範囲で触れるだけにしたいと思います。

 

執筆時点で50代前半、歳の離れた女性と40代後半に結婚するまで恋愛経験が豊富とは言えない人生を送り、今は二人の子供を授かる。癌に冒され闘病中。

 

父と実母の間には弟が二人、歳の近い弟は氏を含めた家族から距離を置いている。歳の離れた弟は若くして割腹自殺している。母は病死する前に家出してそのまま戻らずに実家の外で病死した。歳の離れた弟は母が家出した先で父との間になした子だった。母の死後、父の後妻と折り合いがつかなかった氏も家族から離れるが後妻と別居後は高齢になった父の面倒も見ている。最近そんな父が後妻との婚姻関係を解消していないことに気付き、そのことに苛立ちを感じている。

 

引用した一文はそんな状況にいた執筆当時の氏が自分の育った父母の作った家庭について述懐したものです。

 

自身も核家族で育った父はともかく、田舎の大家族で育った母は大家族の居心地の悪さから逃れたい気持ちはあっても核家族の中での自分の果すべきロールモデルを見つけるには到らなかったのだろうと氏はこの個所に続けて語っています。

 

余りに赤裸々にある意味無感情とも取れる客観性を持って現状と家族史について記述されています。弟の壮絶な死に様に立ち会ったことを含めて、折々に修羅場に立ち会い、腫れ物に触るような記憶を持っているはずの父に対しても氏は「取材」と称して当時の心情を含めた状況を聞き出しています。

 

正直に言えば氏の執筆動機が僕には計りかねました。ただ、僕とは違うその姿勢や着眼点には今回取り上げた個所以外からも気付かされることは多々ありました。

 

 

本題がら授かった僕の気付きに話しを戻します。

一見安定的で未来永劫このままの社会が続くんじゃないかと錯覚していた昭和の時代もそれ以前に戦争と戦後復興と言うカオスからスタートしていたと言う当たり前の事実。

ニュータウンだった故郷の景色の移り変わりはそれなりの変化ではありましたが、その変化を含めて日本はこのままリニアに成長を続けて、山は切り開かれてどんどん街になってゆき、リニアに増え続ける人を収納し続ける。きっと自分が社会に放り出されてもこのまま、それどころか自分が生まれる前からだってそうやって「同じ法則」の元に支配されていたはずと錯覚していたようにも思います。

 

バブル崩壊と共に社会に出て、「9.11」や「3:11」と言ったパラダイムシフトを経験し少なからず荒波に揉まれた僕は、安定の時代に人としての盛期を過ごした両親は僕達の苦労を実感できない世間知らずにも思えたりするのです。

 

もちろんそんなわけはなく、子どもとして過酷な戦争を経験した両親はその後も戦後の新しい世界の中でそれに相応しい価値感を形成して行った世代の一人として同じように見えたとしても一つとして同じ日を繰り返すことのない時の流れの中で日々新な経験を積んでいたはずです。

 

僕の両親、父も母も「旧家」でも「本家」でも無かったとは言え僕の育った環境とは違う、より濃密で息苦しかったであろう家庭に育っています。

 

 

父は地方とは言え県庁所在地の中心市街で産まれ、育ち盛りの頃に空襲や戦中戦後の飢餓体験を持っています。比較的食糧の豊富な田舎出でその父の経験を実感ある事実として共有できていない母とは共通点の少ない夫婦だったと言えるかもしれません。

 

父方の祖父は乾物の卸しを営む商売人でした。ただ体が弱く特に目を悪くしていたので生業を切り盛りしていたのは祖母だったようです。

 

元来生真面目だったらしい祖父は弱い視力をおして書画を嗜む「文化人」で、宗教心に厚く、市内でも名のある天満宮の氏子総代を勤めたこともあったと聞くので人望もそれなりにあったのでしょう。

 

祖母に家計を頼ることには忸怩たる思いかあったかもしれませんが、僕の知る祖父はそんな事情を感じさせない家族や親類縁者の尊敬を集める存在でした。

 

多くの父親が家族を経済的に養うことでなんとか威厳を保っていたり、人によってはその実積だけでは評価されずに居場所のない思いをしているらしいことを伝え聞くとこの祖父の在り方はやはり色んな意味で「特別」だったのだろうと思わざるを得ないです。

 

父方の家族とは盆と正月の付き合いだったので見えていないことも多いのですが家族に「とびきりの人格者」が居てその人が教導的な役割を果たしていたとすれば、軽く見積もっても子どもとしては息苦しさを感じていた可能性は高いと思ったりもします。実際父がそう漏らしたことを覚えています。

 

 

母方の祖父は職業軍人でした。

真珠湾以前に大陸で片足を失い帰国しますが、故郷で陸軍病院の立ち上げに関わりそのまま事務方として戦後も国立病院事務として勤め上げています。あまり意識したことはありませんが、良く良く考えてみれば祖父は終戦までは傷痍軍人として陸軍省勤務を経続したのでしょう。母は現役の軍人の娘として育ったと言えるのかもしれません。

 

祖母は若い時分はそこそこ美しかったようで、それよりなにより良くも悪くもかなり強烈な個性の持ち主でした。祖父が片足を失ってからそのことを前提に見合いをしたようで、当時「忠国婦人の鑑」として地元で新聞放道までされたようです。溢れる自己肯定感を持つ人でしたが、次女としての立場で進学も許されず、姉の子を育てていた時期もあったと聞きます。祖父との結婚は祖母なりの起死回生の一手だったと考えるのは意地悪が過ぎるのかもしれませんが、そのくらいのことは考えたとしても不思議はないと思える野心的で生命力溢れる人でした。

 

軍人らしく、怒れば怖かったですがほぼほぼ無ロだった祖父は定年退職後は経理として祖母の起こした事業を支え、二人は「それなりの」経済的な成功を納めました。

 

恐らく自分の意思に反して祖母に後継者認定された母は僕の出産を機に教職を辞し、祖母の下で働くことになりました。

 

母はその後老い衰えた祖母の支配から徐々に解放され、活発で自己肯定感に溢れた「本来の自分」を取り戻していきますが、物心ついた頃から幼年期の僕から見た母は少しも幸せそうではありませんでしたが、これは今回のテーマから外れるので「また別の話し」としたいと思います。

 

 

さて、正常性のバイアスとでも言うのでしょうか、僕はECD氏に触発されて思い返してみるまで「あり触れた核家族に育ったあの時代のその他大勢」としか自分や家族を認識してきませんでした。

実はかなり特殊な情況の結果として生まれて、それぞれの家系の醸す特殊な空気のブレンドの中で育ったと言えるのかもしれないですね。

 

このコペルニクス的転回によって永年父に関して抱えていたなぜ?について今までとは違う、補完的な別の視点からの解釈が産まれました。

 

父は理系の研究職で僕が生まれるまで母は教職、二人とも田舎の国立大学とは言え当時としては「それなりの」学歴であり、時代の空気感もあってか二人ともそれなりにリベラルだったようです。家の中には宗教臭が一切なく、それどころかまともな年中行事もありませんでした。今考えてみると、厳しい躾があったわけでもない気がします。

 

下積みの長かった父は僕の就職に際して安定性を重視するよう「アドバイス」しましたが、当時はかなりの「プレッシャー」を感じたものの、今から考えてみるともし僕がどうしてもしたいことにめげずに取り組んでいればそれなりのところで折れていたような気もします。

 

僕は父の意志に反して一度の失敗で第一志望の地元国立大学を諦め、「そこしか受からなかった私立大学」に入学しました。父はいい顔はしませんでが、結局はすんなり受け入れています。

 

なぜそんな空気感の中で僕はあれだけの「圧迫」を感じて育ったのか?

 

冒頭の引用個所を読んで思い浮かんだのは、ECD氏のご両親のように、僕の父と母にも適切な「手本」がなかったのではないかと言うことです。

 

それぞれの家族からは当然影響を受けたでしょろうが、どちらも自分達とは違いすぎます。

 

リベラルであろうとしても、子どもには相応の規律は必要だったでしょう。

特に父にとってはしきたり、礼儀と言った「形から入る」ことには抵抗感:があったのかもしれません。自分が感じた息苦しさを再生産したくないと言う思いで。結果として規律を形成していた装置は継承も構築もされなかったわけです。

 

良かれと思って取り払ってみたものの、結果生じた隙間を埋め合わせるものを二人とも持っていなかったのではないでしょうか。皮肉にも今の僕は形から入ることには科学的な合理性があると信じています。思いかえせばそう父に告げた時、寂しそうな顔をしていた気がします。

若くして結婚した二人には形を取り払った後に語るべき自分なりのオリジナルな「実」も持ち合わせてはいなかったでしょう。

皮肉にも、そんな二人が共通して知っていた秩序を保つために有効な「装置」があったのではないでしょうか。私の想像ですが、それは厳父から受ける理不尽とも言える「プレッシャー」だったのではないかと思います。

 

最初は偶発的だった.かもしれません。でも結果として父は「独創的な理不尽」を創出するようになったのかもしれません。必要に迫られて。

 

父がアルコールに溺れるようになったのは身の丈に合わない職場での辛さから逃れるためで、家族はその吐けロになっていたと言うのが永年の僕の理解でしたが、この視点から改めて解釈すると、父は(意識しているかどうかは別として)母からの要請に応えるために、あるいは自身必要に迫られて、已む無く家庭内でも「ない袖」を振り続けた可能性が考えられます。「受け売り」は断呼として認めないとしても、自分がその立場になると何も無しではすまされなかったわけてす。結果として開いた穴を埋められない自分を追い詰めて行くことにもなったのかもしれません。

 

僕と同世代の父親の多くは教え導くことより同じ高さの視線でフラットに語り合うことで親子関係を成立させているように思います。

 

とは言え、より身近にお手本を見る機会があったはずの僕ですら、もしかしたらこうなのかもしれないと気付いたのはこの数年の間のことです。そして僕も気付けた後も家族に対して「仕切り直す」ことには難しさを感じている始末です。

 

「資格がない」のなら無責任に家族を作って子どもを巻き込むな、と言うのは子どもだからできる「後出しじゃんけん」でしょう。

 

或いは、僕がより明確な意志を示していればボタンをかけ直すタイミングはあったのかもしれません。

 

でも、当時の僕にはそれだけの勇気も能力もありませんでした。

 

その足りなかったものを涵養することこそ、本来親の責務だったんじゃないのかと思ったりもします。

 

堂々巡りをしても最初から解決策は存在しません。それは過去の出来事で変えることは出来ないのですから。

 

 

今はただ、少しだけ自分の視野が広がったのかもしれないと言う些細な事実を喜ぶに留めたいと思います。

 

最後に、気付きの切っ掛けを時を超えて与えてくれたECD氏に感射します。

「あの世」を信じない氏には届かない祈りを捧げる替わりとして。