お芝居じゃ無く「ルパンを追っていたらとんでもないものを見つけてしまった」的なはなし。

今日、職場で「ハラスメント報告」をしました。

 

お相手は件のTさんです。



大変だろうな、とは思っていたのです。

 

でも話しを進めているうちに、なんかおかしいな、と思うようになってきました。



本気で相手と喧嘩をしたいなら、私なら警告もなにもせずに気付かれないようにセッセと証拠を集めた上で法的手段に訴えます。

ハラスメント報告って内部で処理したい、それも謂わば「再構築」を望んでいるからこその選択肢だと思うんです。

例えとして適当かどうかは判りませんが、離婚訴訟が法的手段なら、家裁の「調停」に相当するものではないかと。あるいは、状況によってはカウンセラーによるカップルセラピーに相当するケースだって受け持たないと、それより軽い受け皿が他にないじゃないですか。



日本の組織には、基本的に『それは「管理職」がうまく収めるべき』という前提があると思うんです。

 

でも、それって家族で言うなら喧嘩の仲裁を「おじさん」か「おじいさん」に依頼するようなものですよね。あるいは、落語で言うと大家さんとかかな?どっちにしろ、「手近な人」ですよね。

 

基本的に「内部」の人は自分自身が利害関係者です。鳥瞰的なものの見方をしようと思っても、出来る訳がないのです。仲裁の方法論や技術を持っているわけでもなく、基本的に「人間力による解決」を期待されているとしか思えない。

 

人間力」って言うけど、それってなんでしょうか。それぞれの人間は違うモチベーションを持っている違う人間なのに、もし一人の個性で「丸く収める」ことが出来たなら、それってそれこそ「空気」を使った圧力か、パワハラ的な圧政が存在するのかな?と思ってしまいます。

 

それに、そもそも「そういう役割」ではないですよね。本来の役割が日常業務を廻すことだったり、組織の目的を追求するためであったりすれば、人間関係の再構成なんて本来業務を逆回転させることにもなりかねないことを考えれば、一人の人間が同時にできることでは無いんです。そもそも「むちゃぶり」なんです。



人間関係というものを、なめているなと思います。

 

健全な人間だけがいて、全員が健全な人間関係を築いている組織なんて、それ自体が奇跡的な存在だと思います。



病理はあちらこちらに当たり前のようにあるはずなのに、一番手近であるはずの手段を採ろうとすると、まるでそれでキャリアを棒に振らなきゃいけないかのような反応が返ってくる。

 

これって、単純におかしいことなんじゃないかと。



子どもじゃ無いので、そういう現実だってことは判っていました。「争議」を起こせば、起訴した側は内容の如何によらずに「そういうやつ」であることだけでラベル付けされる。日本はそう言う社会だと、私はむしろ現実よりも自分はそう信じているだろうな、と用心するぐらいにそう思っていました。

 

ところが、地域性もあるかもしれませんけど、たいていのことで自分が思っているよりイージーだったと思う私が、あれ?と思うほど現実は重たかったのです。




私の職場は比較すれば健全な方だと思います。

 

上司は真面目で意欲と能力のある良い方です。所属長にも大きな不満はありません。なにより、今事態がこじれているのはその人達のせいじゃない。

 

なぜ、事態を正すために、関係者が皆近視眼的になっている今、鳥瞰的な視点を求めて合理的な解決方法を模索しようとする中、一番イージーなはずの手段を「申請」しようとするだけで、その尊敬すべき人達を「突破」しなければならないのか。



判ってはいたんですけど、改めて自分のこととして体験してみて思います。

 

これは、おかしいです。