久々の「本の紹介」です。
実はこの本、どうして買う気になったのか、どうやって目に入って来たのか、記憶が無いんですよね。
買ったのは2021年4月10日らしいのですが。
念のため日記も読み直してみたのですが、全く形跡無し。
ブックマーク的なものも残っていませんでした。
もしや「ウェブ広告のお導き?」と考えるとホラーものですね。
いや、「良縁」だったから一応ファンタジーかな?(^_^;)
僕には一応ハーフマラソンまでは大会で完走した経験があります。
距離は13kmと短いですけどトレイルランニングを完走したこともあります。
「サブフォーに挑戦」はまだ早いとしてもこの手の本を読むなら「フルマラソン完走」ぐらいは目指しても良い立場でした。
ちょっと焦っていたのかもしれないですね。
「かつて走れていたのに今走れていない自分」に。
コロナ禍で大会が次々と中止になり、最後に走ったのは2019年12月15日の「おおがきマラソン2019」。ハーフ初挑戦でした。
結果、出来すぎの「2時間切り」を達成。
フルマラソンに挑戦するかもしれないどころか、このままいけば「サブフォー」まで一気に行っちゃうかも?なんてことを不遜にも妄想していたような。
そんな、我ながら図々しくも微笑ましい記憶が微かに残っています。
当時は「大会のために走っている訳じゃない」なんていきがってましたが、目の前の目標が消えてなくなればやはり影響はありました。
当日現地で応援してくれるような誰かがいるわけでもなく、ランナー仲間と一緒に走る機会も多くはなかったのですが、大会の緊張感はこの歳になるとなかなか味わえない「華やかな高揚感」を与えてくれていたんですね。
そんな「ご褒美」がなくなることで、僕が走る機会は自然に少なくなっていきました。
そこから本格的にコロナ禍が始まり、母が亡くなり、異動があり、生活のバランスが大きく揺らぐ時期が続きます。
この本に出会ったのは、異動後の所属で忙しさがピークを迎えていた頃でした。
読み返してみると「危機感」からFacebookでSNSレコーディングダイエットを再開したのが2021年1月13日のことだったようです。
意地になって体を動かすことは継続していましたが、ハーフマラソンやトレールランニングに挑戦していた頃からすると体つきは目で見て判るぐらい変化し、あの頃の切れはどこかに消えました。
弱気になっていたと思います。
もうすぐ五十代という実は単なる数字なのに必要以上に意味ありげな節目を控えていまして。
大会に出た過去を恨んだりもしました。
記録さえ残っていなければ「無かったこと」にするのは忘れっぽい僕には比較的簡単でしたでしょうから。
衰えの原因はトレーニング不足なのか「老い」なのか。
多分両方だろうし、今から頑張ってももう取り戻せないかもしれない。
そうなったときに「あの頃の自分」を追いかけるのは切なく虚しい作業だろうな、なんてことを考えないようにしていましたが、体はそんな「脳の暴走」に反応していました。
その手の「呪いの言葉」は「年寄りの冷や水」で体を動かし始めた瞬間から周囲から容赦なく浴びせかけられていたことだったりします。
熱心にプロモーションが行われる新刊のタイミングでもなく、話題作という訳でもなく、誰かから勧められた記憶もなく、いわゆるジャケ買いするほど引きの強い表紙でも無く、そもそも電子書籍として購入しているのでまともに装丁を見ている訳でもありません。
なぜ自分の手元にあるのか不思議なこの本ですが、僕はもしかしたら「ランニングする前」に戻れるんじゃないかと思ったのかもしれませんね。
なにも失うもののなかった、「呪いの言葉」を鼻で笑えたあの頃に。
さて、内容紹介に入りましょう。
著者が伝えたいことは実にシンプルです。
大切なことは全部表紙に書いてあります。
「Forefoot」と「SlowJogging」です。
「Forefoot」とは足底の前側で着地する、フォアフットランディングとかフォアフット走法と言われる走り方のこと。
「SlowJogging」とは自分が苦しいと感じずに走り続けられるペースで走ること。
この二つの「技術」を習得することさえできれば、歩くのと同じ程度のゆっくりペースでも、例え一回10分とか5分と言った短時間でも、その「小さな一歩」を継続しさえすればいずれ自然に走れる体になる、というのがこの本の主張です。
年齢も体力も関係無く、走ることによって歩くよりずっと効率的に、単に「走れる体」ということに留まらず、体の諸機能の最適化や、脳の働きの向上から、アンチエイジングに至るまで一気通貫にもたらしてくれるという、なんとも「都合の良いお話し」を科学的なエビデンスを示すことで信じさせてくれます。
さすがに「サブスリー」にまで言及されると、それはその後の当人の努力次第でしょ?と突っ込みたくなりましたが、それも最初の一歩があればこそと思えばあながちウソとも言えません。
専門家でも科学者でもないので正直この本の示すデータの妥当性については検証することはしていません。そもそもできませんし。
ただ、この本を信じることで害が生じることはないだろうとは思っています。
シューズ代以外はお金もかかりませんし、健康被害が生じることも考えにくいです。
そもそもこの本は「マラソン世界記録を狙うには?」とか「ウルトラマラソンを完走するには?」と言った常人に到達不可能な領域を目指しているわけではありません。
仮に「最適解」でなかったとしても、やらないよりは遙かにマシなことを「軽はずみ」にスタートさせることが目的だとしたら、間違い無くこの本は高いレベルで成功しています。
「あの頃の自分に戻ることがなくても衰えたままでいるよりは遙かにマシだ」というごく当たり前の事実を突きつけることによってこの本は僕の目を覚ましてくれたのです。
12月末に読了して以来週10km以上のペースで走り、徐々に距離もペースも上がりつつあり、それと同時にフニャフニャになりかけていた体幹も復活してきました。
我ながら単純というか、暗示にかかりやすいというか。
そうなる前から「成功」を確信していたので、読了時点で3月に予定されている「かかみがはらシティマラソン2022」にエントリーしています。
ハーフは締め切られてしまったので取りあえず10kmからの再スタートになりますが、タイムとか距離とか挑戦とか、そんなこととは関係無く「あの空気」の中で走れることにワクワクしています。
今の状況では開催されるかは「神のみぞ知る」ですけどね。
「自分の変化」という一点でテーマを選んできた「2021年を振り返ってみたはなし」シリーズの中でこの一冊を取り上げたのは、自分に与えたインパクトが一番大きかったからなんです。
でも、仮に僕が表題通り「ランニングする前」にこの本に出会っていたらどうだったかと考えると、「微妙な結果」に終わっていたのではないかとも思います。
「自分のペースで走る」というのはある種の人間にとってはとても難しいことです。
僕は人生のほとんどを「肥満」として過ごしてきましたが、妙に「真面目」なところがあって中学校から大学にいたるまでずっと体育会系の部活動に所属していました。
なんらかの「義務感」に駆られていたような気がするのですが、謎です。
ちなみに弓道部が体育会系かどうかは議論の別れるところではありますが、筋トレやランニングはあったので異論は認めません。
特に中学生、高校生当時はまだ部活動中に水を飲むことがギリギリ御法度の時代で、当然個々人の体力・能力にあったトレーニングメニューなど存在しませんでした。
優れた筋力、体力を持つ者にはなんの負荷にもならず、付いていけない者はどうやってバレずにサボるか、あるいは限界を超えてひっくり返るまで頑張って許してもらうか、という理性的に考えると全く無意味な練習というよりは「儀式」に、多いときには30kgぐらいになったであろう「絶対に下ろすことのできない荷物」を抱えながら参加していたわけです。
そんな僕にとっては走ることとは自分では付いていけないペースになんとか追い付くことが目標として設定されている、謂わば「永遠に成功条件を満たすことのない全力疾走の鬼ごっこをギブアップするまで続ける」拷問でした。
同じ過去を持つ人間は少なくとも僕と同世代までは結構いたのではないかと推測するのですが、僕を含めたそうした人達にとっては「自分のペース」なんて書物に書かれている空想上の生き物同様に現実味のない概念です。
体を動かすようになってからのことを思い起こすと、まず山登りやインターバルトレーニングである程度の持久力を身につけ、自分のイメージする「このぐらいなら走っていると認めてもらえるペース」を熟せるようになってからようやく走り始めた気がします。
山登りはともかく、インターバルトレーニングはジョギングなんて比較にならないほどの地獄のような負荷がかからないと意味がないし、事実時間は短くてもそうだったのですが、当時の僕の感覚では「それでも走るよりマシ」だったんですよね。
三十代で左アキレス腱を断裂し、今でも左右のふくらはぎの太さが見て判るほど違います。
いまでも距離を伸ばしたりスピードトレーニングしたりすると無意識のうちに負荷のかかっている右膝に違和感が出てしまう、そんな僕に取っては「フォアフット走法」も読んだだけで「自分には無理だな」と判断しかねないものでした。
そもそもこの本では「アキレス腱は足底筋膜と組み合わさることで人体の中で最も優秀な衝撃吸収機構を形成しており、フォアフット走法を推奨するのはその仕組みを最大限活用可能な走法であるから」と説明されていたりします。
読み方が悪ければフォアフット走法どころか走ることそのものを諦めていたかもしれません。
幸いにも僕はこの本に出会う前にフォアフット走法を習得していました。
走る前の体重を落とす過程で坂道上りを多用していたのですが、当時は一日の歩数が二万歩を超えることも珍しくなく、当然過体重の身では膝や腰に負荷がかかります。
上りはまだ良いのですが、上った分発生する下りが問題でした。
かつての減量の失敗の多くも途中で故障を抱えたことでしたし、歳を取ってそのリスクは高まっていました。
故障対策はクリアしないと先が見えない重要事項でした。
切っ掛けは思い出せないのですが、ある時、動物の四足歩行と人間の二足歩行を比較することで「多くの動物は人間でいう足底の前側にあたる部分でしか接地していないんじゃないか」と気付きまして、そこから「踵をついて骨格で衝撃を吸収しようとしたら膝か腰が壊れるのは当たり前だ」という結論に辿り着きました。
正直、この件はまだ「答え合わせ」に出会えていないので僕の勘違いなのかもしれませんが、少なくともこの「思い込み」は動機付けとしては有効でした。
思いつきをどう形にして良いのか判らず、最初は下りだけつま先立ちで下りたりといった無茶もしましたけど、書籍やネット情報で「フォアフット走法」なるものがあるらしいと気付いてからは先人の遺した情報を集めるようになりました。
最終的に家の中で裸足でフォアフットで歩くことから徐々に感覚を掴むことができたと思います。
偶然かつ幸いにも僕は大きな故障には至りませんでしたが、フォアフット走法は独学で正解に辿り着くのが難しい概念だと思います。
解説本も結構出ていますが、ランニング教室等で「口伝」で教えてもらうほうが安全かつ近道ではないでしょうか。
フォアフット走法について言えば、最近は「厚底シューズ」という裏技も存在しているようですが、あれはあれで通常の靴とは走り方が違うというのは、結局フォアフット走法を感覚的に判っていないと使いこなせないからなのかなと思っています。
ちなみにNIKEが「Breaking2」で世界を変えるアイデアを披露したのが2017年5月のこと。
「VAPORFLY 4%」の市販開始が同年6月、日本発売は7月だったようです。
この本の初版出版日は2017年2月15日です。
ギリギリこの本は「世界が変わる前」に成立しており、本文中に言及のある厚底シューズはソールにフカフカのクッションのある初心者用と称して販売されることの多い、昔ながらのアレのことです。
元々記録狙いの人をターゲットにしていないことを考えると、今書かれたとしても厚底シューズへの言及はない可能性もありますが、この本がこのタイミングで書かれたことは僕に取って幸いなことだったと思います。
新しもの好きだけど拘りの強い僕は、「Breaking2」以降のアレは「タイムを餌に人類の肉体を退化させるアヘンのようなものだ」と迷信さながらに信じ込んでいるのでこの当たりの記述は敵意と偏見に曇っている可能性があることを申し添えておきます(^_^;)
話題が飛んでしまいましたね。元に戻しましょう。
武道を習う中で頻繁に出てくることに、書物で伝えるのが難しい技術は存在する、ということがあります。
この本の扱うテーマは、いかに上手に伝えたとしても伝わりきらない気がするのです。
それは著者の力不足と言うよりは「文字情報で伝えることの限界」のような気がします。
恐らく、著者にもその自覚があったのでしょう。
この本には「公式サイト」が存在し、そこでは「動画」が公開されています。
人生の質に関わる問題ということで考えると、「自分のペースで走る」ことも「フォアフット走法」も学校教育の中で必修課題に設定するべきでは無いかと、今回のエントリーを書きながら思いました。
そうなればこの本は「良い教科書」になるはずです。
ただ、理解するのに「先生」は必要になるでしょうね。
この本は間違いなく僕を救いました。
上に述べた「欠点」はあるものの、モチベーターとして考えると100点に近いと思います。
そこまで考えると、もしかするとこの本の一番の欠点は実は「届けるべき対象を間違えている」点にあるのではないかと考えたりします。
この本を必要として、かつ伝えたいことが伝わるのは「一度は走る歓びを生きる支えにしていたけどそれを失ってしまった人達」ではないでしょうか。
今まさにコロナ禍に喘ぐこの日本に数多く存在するはずの人達です。
あの時の僕のように。
このブログからでは届くことは無いかもしれませんが、もし届いたら、作者・編集・出版の皆様、この本の改題及びキャンペーンの仕切り直しのご検討をよろしくお願いいたします<(_ _)>
意外と「世界を救う」かもしれませんよ。
ここからは「余談」です。
つくづく書物との縁は異なものだなと思います。
出典がどこだったのか、正確に覚えていないのですが、確か読書猿さんが「書物の最大の利点はいつまででも待ってくれること」と書いてみえたのを思い出します。
うろ覚えですが、それは「積ん読」に悩む読者からの相談に「紙の本」の利点を説く文章の中の表現だった気がします。
「本棚に置いてあればいずれ必要な時に目に入り、その時必要とする情報を教えてくれる」といった回答だったと思います。
僕とこの本の場合、「電子上の本棚」に「積ん読」されていたわけですが、幸いにも「棚卸し」作業の中で「必要な時」に僕の目にとまってくれました。
電子書籍を買うことにためらいがなくなった頃、「物理的に空間を占拠しなくなった安心感から書籍購入欲が暴走した時期」が僕にはありまして。
それ以前の紙の本まで含めると既に所有している本だけで人生の余剰時間全てを読書に捧げたとして人生が終わるまでに読み切る自信がないぐらいには積ん読が進行してしまっていたりします。
引っ越しの多かった社会人生前期にはドサクサで読むこともなく失われた書物なんてのも結構あったりします。ハア。
小学生以来の付き合いの「新しい本を買わないと寂しくて死んじゃう病(でも読むのは一部だけ)」からは未来永劫解放されないだろうと思うとなおのことです(ヲイ
ちなみに前述の読書猿さんの忠告を真に受け、最近は「大事な本は紙で無くちゃ病」にも罹患しました(マテ
今回の「縁」を経て、「それも悪くないかもしれない」と思えるようになったことも「収穫」だったかもしれません。
何事にも限界はありますけどね(^_^;)