2021年を振り返ってみたはなし ~マイナンバーカード編~

 僕には年齢の割に?PCとかITとかに対して「好き」と言うより「執着」に近い関心があるのですが、これもADHDである自分に取っての「杖代わり」と言う側面があったりするからだったりします。

 そんな事情からすると真っ先に飛びついても良さそうなものですが、マイナンバーカードに対しては忌避感がありました。

 理由はシンプルに「管理者に対する不信」です。

 

 少し前の話になりますが、「公文書改竄」「統計不正」が報じられたときは、率直に「この国は法治国家じゃ無かったんだ」と思いました。どちらも民主政体にあっては「未来からの預かり物」です。自分は影も形も無くなって、縁もゆかりもない誰かが後継者になる。そんな未来に対して「善良な管理者」としての責任を持つのが民主主義国の国家元首の役割です。

 当時野党議員の皆様がこぞってリーダーの個人名を連呼していた記憶が残っています。また、それを報じるメディアの論調にしても是非のどちらの立場にしても特定個人の資質について論じるものが多かったように記憶しています。その後も公私混同案件が頻出するたびに野党もメディアも司法でさえも「新しいネタ」に飛びつき、鮮度の落ちたネタはアッサリと放置されたように僕には見えました。

 なるほど、この国は「放置国家」ではあったのかもしれませんね。

 

 

 この「放置」こそが一番の問題です。少なくとも僕の「不審」の理由の最たるものです。

 発端は個人の資質だったかもしれませんが、彼に出来たことは将来同じ地位に就く誰かにも出来てしまう状況が残されてしまった。問題が起こったときにその穴を塞がないのは、問題を起こす以上に罪深いことです。問題そのものは当事者を除けば災厄ですが、放置は関係者全員のサボタージュですから。その責を負うべきは選挙権を持つ全国民を含めたこの国の政治環境全てであり、当然僕自身もその一部です。

 

 政治をシステムとして捉えることが出来ないのは「国民性」なのでしょうか。今の教科書がどうかは中身を見る機会がありませんが、振り返ってみると僕が小中高で学んだ頃の歴史教科では「人物」に焦点が当たることが多かったように思います。僕の理解力や読解力が及ばなかった一面もあると思いますが、「制度」が人の生活に及ぼした影響について具体的に学ぶ機会は充分ではなかった気がします。

 実際のところ、時代を遡るほどに主要な個人の及ぼす影響は大きなものになる傾向はあるのだろうと思います。

 ですが、もしかすると現代に至ってもこの国では「法による支配」より「優秀な指導者の資質」が重視されているのかもしれません。遵法精神なんざクソ喰らえな「英雄」の超常性にすがっているとしたら、それは見てくれはともかく中身として古代の社会です。そんな国に自分の情報を全て紐付けて差し出す気にはなれません。




 僕がマイナンバーカードを取得せずにいたのはそんなことを思っていたからです。




 そんな自分の心境の変化には複数の理由があるように思います。



 コロナ禍で交流の幅が狭まる中で週2〜3回ペースで会っていた人から受けた影響は大きかったと思います。個人事業主であるその人から見れば、マイナンバーカードは「単純に便利な代物」で潜在的なリスクはあったとしてもメリットを考えれば使うのが当たり前という論調でした。

 僕自身ゼロリスク信仰の危険性は充分認識している積もりだっただけに実体験を伴った説得力のある話しには耳を傾けざるをえません。



 冒頭であれだけ青臭いことを言っておいて何ですが、五十を越えて少しはふてぶてしく社会を観察する余裕が出来てきたことも大きかったかもしれません。

 あちこちに突っかかっては跳ね返されることの多かった半生を振り返ってみて「元々人間というものは自分が思っているほど性能の良い存在では無かったんだ」と思うようになりました。

 それでいて、社会の中で生きていくにはその人間の不出来さを受け入れていくしか無い。

 そして、社会そのものは「人間の不出来さ」を考えると奇跡的なぐらい有用なこともまた、僕の気付きのうちでした。

 そもそも、自分自身がその不出来な人間の中で取り分け不出来な部分を持つ存在です。そう考えればまだ自分の不出来さを受け入れることもできます。

 そんな「循環思考」は欠陥の多い自分を受け入れるターニングポイントにもなりました。



 コロナ禍にあってワクチンの価値について向き合わざるをえなかったことも大きかったですね。

 個人単位で見れば、ワクチンで恩恵を受けるか否かは「運次第」だというのが僕の結論です。ですが、社会全体で言えば明白なメリットが存在します。もちろん、今後利益を上回る規模の害が後世に判明しなければ、ですが。

 

 この構図はマイナンバーカードにもある程度当てはまる気がします。マイナンバーカードを使いこなすにはある程度の努力を強いられることは間違いありません。その努力に見合う便益を得られるかどうかは、その人の環境と考え方次第としか言いようがありません。

 ですが、収税効率の向上、税と年金の一体化、諸手続きのオンライン化・自動化と言ったことが計画通りに実現していけば、日本という社会に取っては「効率性」と言う明白な判りやすいメリットが生じます。

 

 さらに、「IT」という人ならぬ物によって律せられたシステムが正常稼働を始めれば僕が 日本社会に抱いた「幻滅」の正体、「実は法治主義ではなく人治主義であった」や「そもそも人ですらない『空気』にさしたる疑念も抱かずに従順に順う国民性」を根底から変える可能性があることにも思い至りました。

 

 かつて半導体生産で世界をリードしていた日本がIT後進国に成り下がったのはなぜでしょう。

 肝心なソフトウェア開発で立ち後れたからとか、教育政策の対応の遅れとか、バブル崩壊以降の後ろ向きな投資姿勢とか。他にも数え上げると切りが無いほど理由があるように思えますが、僕はそれは「都合が良かったから」だと思っています。

 誰にとって?

「この国で指導的な立場にある人達」にとってです。

 

 大規模かつ複雑なシステムは、「大人の事情」を考慮してくれたりはしません。「忖度する」ことを組み入れようとしたら、それこそ高度な「人間性」を備えた現在の科学では作り得ない「高度なAI」を実装する必要があるでしょう。

 そしてシステムによって業務フローが自動化されればされるほど個人が「例外的な介入」をする余地は狭くなります。

 

 僕が日本のエラい人で、「均質かつ高度な教育を受けていて、個々人は高い業務遂行能力と規範意識を持ち合わせ、かつ従順に上位者の意向に従う『日本国民』」という得難いリソースを自由に使役することの出来る立場に立つことが出来たなら、そんな「融通が利かなくて、しかも現に自分が優位に立っているシステムに大幅な変更をもたらしかねない代物」は可能な限り遠ざけたくなるでしょうね。



 もしかすると、今になってマイナンバーカード普及に邁進しているこの国のリーダーの多くはこの構図に気付いていないのかもしれません。

 むしろ、国と国民の情報格差を拡大してより支配しやすい環境を構築できる、なんていう僕が少し前に怯えていたような「陰謀」を目論んでいたりするかもしれません。

 そんなリーダー達は、もしかしたらシステムに「忖度する機能」「大人の事情を理解する能力」の実装を要求して現状既に「継ぎ接ぎ」の様相を呈しかけている巨大システムを「迷走」どころか「暴走」に至らしめるかもしれません。



 それもまた、一つの可能性ではあります。ですが、仮にそうであったとしてもその「リーダー達の妄想」上のディストピアは恐らく日本では実現しないと思います。

 今、我々がその可能性に多少なりとも現実味を感じてしまうのは、多分お隣の「法が紙切れに過ぎない皇帝支配の国」の実情を見ているからでは無いでしょうか。

  冒頭僕が嘆いていたことを考えれば、その可能性は近づいているようにも思えます。ですが、お隣さんにはお隣さんの事情があって、こちらの事情とは異なります。

 

 お隣さんでは「『特定の組織』が国家の上位に立ち、国家を指導する」ことが明確に憲法に謳われています。ある意味あのカオスは「法治」の結果なのです。



 我が国の事情を考えると、法を「努力目標」として捉える文化があることは現実問題として観察されている事実なので、その点危惧を感じない訳ではないのですが、少なくともシステムに公然と「法の理念に反する機能」を実装することはできないはずです。

 

 大規模システムの開発には大量の人員が動員されるので、「こっそりなにかを仕込む」ことは極めて難しいでしょう。

 

 年金に関する数々の「やらかし」を考えると、日本の行政機関はシステム開発の発注には向いていない気がしますし、実際にそうであれば「失敗」する確率は高いかもしれません。そこでまた「放置」が為されるかは、それこそ我々次第ですが、少なくとも失敗によって被る不利益はマイナンバーカードを所持していない国民にも平等に降りかかります。普及に汲々としているシステムの信頼を確保することを考えれば、むしろ「不運な個人の被った不利益」については確実に補償されるでしょうね。財源は我々の懐から供出される税金ですけど。

 

 もう一つ、ここまで望んだら欲張り過ぎなのかもしれませんが、将来収入のある全国民が確定申告をする未来が到来したとしたら、と想像してみましょうか。

 そうなれば、少なくとも今のように税金を「なんだか知らないけどいつの間にかかすめ取られている『天使の分け前』みたいなもの」と考え、出来るだけ面倒事には巻き込まれたくないと主体的に物を考えることを放棄する人の割合は減るかもしれません。

 そんな人達がその経験を通して「自分達は奴隷でも家畜でも無く、『市民』なんだ」と気付くことが出来たなら。この近い将来の人口激減が約束されている国は今の数倍の「主権者」を獲得することが出来るかも知れません。



「悪くないかもしれない」と僕はそう思いつつ、生涯初の確定申告に向けて「紙の書類」を探したり整理したりしているところだったりするのです(^_^;)