観ました。
ストーリーについて言えばネットに百出している賛否両論併記に違わずひどいものでした。
その点について僕の頭に浮かんだワンフレーズ論評は「深夜に勢いで書き上げたラブレター(下書きのママ)」です。
そもそも僕は視覚的な芸術性や音楽と言った感情に訴える要素でストーリーの矛盾を補えるとは考えられない、頭の固い人間です。
そんな僕自身にとって一瞬受け入れがたいほど不可解だったのは、僕が自分にとって受け入れがたいタイプのこの作品で一度ならず泣き、それ以上に楽しめて、素直に受け入れ、出来れば誰かともう一度映画館で観たいと思ったことです。
そんな自分の、「あり得ないこの映画に対する評価」の内容をなんとか言語化してみたい、と言うのがこの評を書き始めた動機です。
当然のごとくネタバレありです。ご注意を。
この映画を観る前に自分の中の劇場でアニメ映画を観た記憶を掘り起こして愕然としたのですが、少なくとも30代中盤頃まではアニメ好き、アニメ世代、オタクを自認するところがあったにも関わらず、実に2001年の「千と千尋の神隠し」が最後でした。
コロナ禍以降映画そのものからも遠ざかっていて、親の看取りもあって3年間は確実に劇場に足を踏み入れていません。
そんな僕が「この映画は観よう」と思ったのは3年前に友人からその存在を知らされて以来応援していた中村佳穂さんが主演していたから、と言う割と俗な理由があったからでした。言ってみればティーンエイジャーがアイドル映画観にいくノリですね。
コロナ体制に阻まれてこの1年半はご無沙汰していますが、ここ5年ほどは女性シンガーソングライターを中心に応援している「若手」アーティストのライブに参戦することを生きる歓びの一つにしていた僕からすると、目的は映画鑑賞というよりは彼女の「応援」だったわけです。
些か不純な動機の私は細田守監督のファンどころか、監督の作品を観たこともなく、ただなんとなく耳に入ってきたこれまでの作品評ではストーリー上の矛盾を指摘されることが多い、むしろ自分には苦手なタイプの監督ではないかという懸念を鑑賞前から持っていたりしたのでした。
そんな事情があったので、普段は映画を観る前にネタバレ評を読むなんてことはしないのですが、今回ばかりは「気持ち良く中村佳穂さんを応援する」という主目的のために節を曲げて割と入念に「予習」をしていたのです。
効果は抜群で、散見される「矛盾」「ご都合主義」「疑問」に囚われることなく最後まで集中を切らさずに映画の流れに乗りきることが出来ました。
ですが当然この策は諸刃の剣で、概ねの展開は予習済みな僕にはストーリー上の「驚き」はほぼほぼなかったわけです。
ところが、全く想定外な方向性からサプライズはやってきました。
目的が目的だっただけに、オープニングから僕は耳をそばだてて「中村佳穂さんの声」を探していたのですが、聞こえてきたのは中村佳穂さんではない、Belleと言う初見(初聴)のアーティストの紡ぎ出す音の世界でした。
過去にリアルで1回、コロナ禍に入ってからオンラインライブ1回と「熱心なファン」と言えるレベルではないまでも一応の中村佳穂さんのライブに参戦履歴があるのですが、
・MCなのか歌っているのか判然としない。歌うように話し、話すように歌う。
・セットリストが存在しているのか、そもそも全部ジャムセッション疑惑。
・バンドメンバーがノリノリ。仕事を超えて楽しんでる。
・レコーディングされている曲からして熱帯の生態系のようなむせかえるような濃密さが奔放に溢れ出てくる。
と言ったイメージがあって、彼女の声は探すまでもなく仮にこの映画のように覆面歌手として彼女が出現したとしても一発で判ってしまう強烈さがあると言うのが僕の中の中村佳穂さん像です。
結果として盛大な肩透かしを食らうことになった鑑賞前の僕の勝手な予想は監督は中村佳穂さんのこの天性、個性に賭けたのではないか、と言うものでした。彼女に地のまま、自由に歌わせ、映像は後付け。
謂わばモーションキャプチャーよろしく中村佳穂さんの存在を取り込むことでこの作品は成立しているのではないだろうか、と。
Belleは佳穂さんとは対照的?な「正統派」なディズニーヒロイン然としたキャラです。鈴というこれまた別の意味で対照的な「裏面(表面?)」を持つことで単なるオマージュキャラに留まらない存在感を得ていますが、アーティストとしてのパフォーマンスは割とそのコードに忠実です。
僕の下司な予想を遙かに超えて、監督は中村佳穂さんにBelleと言う彼女とは正反対とも言える役どころを与え、彼女のことを知ったつもりになっていた僕が「演技」なんてとても出来そうにないと思い込んでいた佳穂さんはその難題を見事にこなしきっていたわけです。
そんなわけで、幸運なことにも僕は「鈴/Belle」という「入れ子構造」を「中村佳穂/鈴/Belle」というもう一段多い三段構造であることを発見するというサプライズに出会えたわけです。
さて、この評を書くための資料を探しているうちにこの映画の音楽制作陣の語る裏話を見つけました。
この裏話によるとこの映画の音楽制作ではかつて黒澤組がシナリオを作成するために僻地の旅館に作家を缶詰にしたような協同製作体制が試みられたようで、そのことを指して「作曲村」なんて言葉が使われていたりします。コロナ禍もあって「リモート」で実現されたらしいその環境で構築された監督や中村佳穂さんを含めた音楽制作陣の綿密なチームワークがこの映画の音作りにはあったわけです。正直、細田監督にシナリオ面でもその熱意と度量があったらと思ってしまいますがそれはおいておいて。
中村佳穂さんと言う希有な個性に寄りかかることなく、監督、歌い手、そしてこの映画の音楽制作陣が協同作業で創造した全く新しく生を得たアーティストBelleの存在がこの映画を映画として成立させていたわけです。
裏話の中ではBelleに関わるエピソートに留まらない、細田作品を肉付けしようと奮闘する多様な才能のエピソードが語られていますが、引き続き僕は自分が映画を観て感じたことを書こうと思います。
僕の印象に残っているのはやはり過剰にふくれ上がっていた僕の期待値を易々と超えてみせたライブシーンです。
ライブとは「刹那」です。
映画という「作り込み」で成立している作品とは正反対です。
特にこの作品では「バーチャルワールドを描くアニメ」と言う技術的に実現可能なあらゆる表現が許される自由度があるにも関わらず、過剰な飛び道具に頼らずに「完成度の高さ」が追求されています。
派手であれば盛り上がる、と言うのはこの手のメタストーリーで繰り返されてきた失敗の典型でしょう。シナリオ上「~の見事な歌声は観客を総立ちの熱狂に導いた」と書き入れることは簡単でも、実際パフォーマンスでその状況に説得力を持たせることは言ってみれば「ホームランのサイン」を出しているようなもので無茶振りも良いところです。
であるからこそ、鑑賞前の僕はあのような下司な予想をしてみせたわけですが。
その難題を乗り越えた上で、更にフィクションならではの表現の中で「ライブの神髄」を描き出してみせたのが、この映画のハイライトの一つ、アンヴェイルから「はなればなれの君へ」のシーンだと思います。
ここではBelleに「Uの歌姫」の座を奪われたペギースーが「狂言回し」を演じます。
やりようによっては音楽を邪魔するだけの蛇足になりかねないこの演出が、僕には響きました。
「こんな普通の娘だったなんて、、、、わたしと一緒じゃん」
「あんなやつらに好き勝手に言わせるなよ、、、」
「歌え!止めるな!」
ペギースーの台詞、と言うより独白は、「鈴/Belle」には決して届くことはありません。
彼女が感じた「共感」「想いの共有」は残酷なまでに一方通行です。
それでいて、その事実を承知していながら、それでもなおそれを乗り越えて想いが届くという幻想がライブには確かにあります。
感覚でしかないものの実証を証明することは虚しい作業ですが、少なくとも僕は台詞こそ違えど心情において「ペギースーだった自分」を経験しています。
一方で「Belle/鈴」には彼女の事情が、理由があって、アンヴェイルした動機も決意も、歌うことを止めてしまった想いや涙の理由も、その場に何十億も存在するらしい聴衆には全く届いていないのです。
それでいて、この何一つお互いに通じ合っていない関係性を超えて「鈴/Belle」を支える聴衆からの自然発生的なシングアロングは確かに彼女に勇気を与え、支えました。
この究極的に不全なコミュニケーションと、それを乗り越えて発生する一体感を、万人に、とは言わないまでもある程度の範囲の多数の人に理解可能な形で表現したことは、実はこの映画が到達した歴史的な「偉業」なのではないかと、僕は思っています。
あのシングアロングはネットで世界中から募集した何千もの音声をエンジニアが何ヶ月もかかりっきりで編集したものだったことが裏話で明かされています。
そのエピソードはエンジニア氏の映画人としての情熱を示すと同時に、あのシーンが一つ一つの歌をつなぎ合わせて作られた「人造の奇跡」だということを示してもいます。改めて指摘するまでもないのかもしれませんが、どれだけ感動的であろうと、あのシーンは「紛い物」なのです。
ですが、視聴する人間にライブでしか味わえないものを味あわせるだけのクオリティを「紛い物」で作り上げたと言う事実がそれ自体一つの奇跡です。そもそも映画とは、そういうものです。
そして、その奇跡があったからこそペギースーと「Belle/鈴」の「決してかみ合うことのない掛け合い」は一定の説得力を持って僕の心をうったのではないか、と思います。
僕の流した涙は、そういうことの証だったのではないでしょうか。
当初提示したお題の答えの一つは、そんなことじゃないかと思います。
繰り返しになりますが、映画は紛い物です。よくできた映画はよくできた紛い物と言い換えることもできます。
そして、今の世の中では我々大衆は紛い物で操作されることが特別な脅威と言うより「日常」であったりします。紛い物を無批判に受け取ってしまうことが世界に危機をもたらす切っ掛けになる未来は決して絵空事ではありません。
「ライブのもたらす奇跡的な瞬間」を切り取ってフィクションの中で鮮やかに再現してみせたこのシーンは、どれだけリアルになろうと決して現実にはなり得ない「ネットに対する信頼」という細田守監督がこの映画を通して「世間に売ってみせた喧嘩」とどこか重なるところがあるような気がしています。
次回(続く予定です)は、まだ書いていないので書いている内に迷走するかもしれませんが、予定としてはこの「ネットに対する信頼」と細田監督の示した「楽観」について僕の思うところをまとめてみたいと思っています。