はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」
注)この文章は映画「竜とそばかすの姫」のネタバレを含みます。
また、一応その1の続編として書かれていますが、内容的には概ね独立しており、単独で読むことが出来ます。
「ネットに対する信頼」。
監督の語るこのテーマについて、僕が思ったのは細田監督は無条件にそう言っているわけでは無いのかもしれない、と言うことでした。
例えば、「U」と言うこの映画で示された仮想世界について、この評を書くために振り返ってみるまで僕はついフェイスブックや少々マニアックなところでセカンドライフと言ったアリモノの延長線上にあるなにかであると考えてしまっていました。
少し先にあるなにかであることは映画冒頭の説明からある程度は理解できるとしても、リアルとして描かれる高知の限界集落が「今」かいっそ「過去」であることを想起させるものであるだけにそこから繋がる世界を未来と捉えることは難しいところがあります。
ですが振り返ってみると映画の中で描かれている「U」はアリモノとは違う方向性を持った、現状の問題点をある程度克服した「あり得べき理想のネット」として描かれています。
それは「営利企業」ならぬ「賢者」なるものによって運営されているようです。
アバターであるAsはユーザーの生体情報を元に生成され技術的に複垢の生成が制御されている、個人と緊密に結びついた唯一性を持った存在です。個人情報は厳密に管理されているようで、滅多なことで「身バレ」しないようですが、その存在はユーザーの個人情報と明確に結びついておりネットだからと無責任な行動をすることには今以上の心理的、技術的、あるいは法的な制約があることが想像出来ます。
「ジャスティス」という過激な自警団が存在するのは運営が公式に設置する「検閲システム」が存在しない、自律した社会の自浄作用に期待する性善説的な運営が為されていることの証と受け取ることが出来るかも知れません。
なにより「個人の持つ隠れた能力を無理矢理引き出す」と言う特性はネット云々を超えてある意味「人類の夢」ですらあります。
さて、上に挙げた「U」の特徴の中に現代の我々が接続可能なネットが不完全ながらもすでに備えているものがあります。
それは「隠れた才能を無理矢理引き出す」特性です。
僕は細田監督の信じる「ネットの可能性」はこの一点に絞られているのではないかと思っています。
最初に白状してしまうと、これから述べる論には前回の論に輪をかけて「弱い」部分があります。
それは「ネットで才能を開花することができた人達って結局元々特別な才能を持っていた人達でしょ?鈴だってそうだったじゃない」と言う誰でも簡単に想起することのできる反論にこの映画で示されている僅かな証拠だけでは反論しきれないことです。
僕はそれはちょっと違うと思っています。
確かに現実にマスコミ等を通して耳目に入る情報のほとんどは「そういう事例」です。
僕はもっと小さな、人の注意を惹くほどのこともない、「細やかな成功事例」がこの世には実は結構あるんじゃないかと信じています。
なぜそう言い切れるかと言えば「僕自身がそれを経験しているから」です。
うん、やっぱり弱いですね。
ブログで何度か触れているとおり、僕は5年ほど前に捨てかけていた人生を拾い直しました。
僕を救ってくれたものは、理屈は判っていないけど臨床上効果が観察されている精神医学の「裏技」とか、仕事を勝手に難しくしているのは他ならぬ自分だと身を持って教えてくれた優秀な同僚とか、20kg以上の減量を理論面で支えてくれたパレオダイエットとか、鈍りきっていた体を再生してくれた活動量計とか、腐りかけていた感性を含めて叩き直してくれた登山とか、自分の可能性を示してくれた長距離走とか、その他にも色々とあるのですが、中でも30代半ばから10年間入り浸っていたネットコミュニティでの経験はなくてはならないものでした。
客観的に文章にすると働き盛りと言われる貴重な年代の日々をネットに浪費した「子ども部屋おじさん」のはなしになってしまうのですが、それでも、僕はその日々が僕に欠落していた大切なものを授けてくれたと信じています。
僕には鈴のような「眠っていた特殊な才能」はありませんでした。
その日々の中で名誉や地位を得たわけでもありません。
経済的な成功があったわけでもなく、むしろだいぶもっていかれました。
そこで僕が授かったものは、現実世界で同じ数を熟していたらとても身が保たないほどの「失敗体験」です。
それは同時に失敗の数の数倍の「経験」でもありました。
鈴の母親は、失敗を恐れなかったことで命を失う失敗をしました。
母親の血を引く鈴には元来「失敗を恐れずに自分らしく生きる力」が引き継がれていたのかも知れません。
その鈴が、母親の死を切っ掛けに囚われてしまったのは煎じ詰めれば「自分らしくあることへの恐れ」だったのかもしれません。
今考えてみれば、僕自身がそうであったように思うのですが、自分らしさを殺すことは苦しく辛いことです。
そんな鈴を変えたのは、間違い無くBelleとして生きた「U」での経験でしょう。
ずっと歌えなかった鈴にとっては歌えた、声が出た歓びは「自分にも出来る」という自己効用感をもたらしました。
その上、自分らしくあることであれだけの多数によって承認されたのです。
母親から引き継いだなにかを考えると、鈴にとってはもしかすると歌と同じように、あるいはそれ以上に自分らしさの本質であったのは「自分を投げ出してでも誰かを救う強さ」だったのかもしれません。
そう考えれば、失った何かを取り戻すプロセスとして、鈴にとっては「歌う」ことと少なくとも同等程度には「窮状にあることを知ってしまった竜を救う」ことは大切なことだったと考えることも自然なことに思えてきます。
ここまで考えると、印象深いけどなにげないあるシーンが実はストーリー上とても重要な役割を果たしていたかもしれないという可能性に思い至ります。
それは鈴が河原で「心のそばに」を作曲するシーンです。
通しで観たのは一度切りなので確信はありませんが、鈴が「鈴として歌えた」初めてのシーンだったのではないでしょうか。
Belleの仮面(ペルソナ)を着けなくても、「U」というゆりかごの中でなくても、歌うことが出来た。ごく自然に、なんの葛藤も描写されない状況でそんな重要なブレークスルーが発生したのはもしかすると、自分の「歌えない」という葛藤以上に鈴の心を「竜を理解したい」という気持ちが占めていたからなのかもしれません。
ここまでの流れを踏まえて、改めて僕にとってあのアンヴェイルシーンはなんだったのか、考えてみたいと思います。
僕は過去に「ネットコミュニティからの卒業」を経験しています。
僕がネットコミュニティにはまり込んだのは中年以降のことでしたし、そこで鈴のように特別な才能を開花させたわけでもない。
期間も、と言うことは速度感も、時間感覚も全く違う。
僕はリアルの人間関係とネットの人間関係は基本的に切り離していましたしね。
そう考えると、「ネットにいる間に経験したこと」と言う点ではほぼ共通点がなかったのです。
そんな僕がアンヴェイルの瞬間については鈴と自分を重ね合わせていました。
自分に取ってのアンヴェイルとは、と考え直してみたとき、思い当たったのは「卒業」そのものです。
ネット生活の中で自己肯定感を涵養し、自分に自信を持つことが出来た僕ですが、得たものをリアルな自分に振り向けるまでにはタイムラグがありました。
「巣立ち」はかなりの精神的な代償を要求します。
元々ネットで「成功」することができたのはリアルと比較して行動を起こしたり失敗の代償に支払ったりするコストが圧倒的に低かったからです。
ネットの居心地が良ければ良いほど、「ここに居られるなら居続ければ良いじゃないか」という気持ちに傾くのは自然なことです。
僕の「卒業」に当たってとりわけ大きかった切っ掛けは「親の看取り」でした。
自分の意志ではどうにもならない事態によって文字通り「現実に引き戻された」わけです。
それは突然やってきて、気持ちの整理をつけるまでには時間が必要でした。
その時の僕の戸惑いの感情が、あのシーンには凝縮されていました。
「自分が微笑めば世界も微笑み返す」というそれまで「単に余裕がなくて」気付けなかった単純な原理によって鈴の中にあるリアルに対するイメージも変化していたはずです。
それでも今までうまくいかなかった世界はどんなタイミングでまた自分に牙を剥くかも判りません。
Belleと言う自分を守ってくれていたペルソナを失うことはやっとできた「安全基地」を失うことを意味します。
「以前の自分では無い」と言う気持ちと「認めてくれたこの世界に留まりたい」と言う不安。
そのバランスをつき崩すには必要な切っ掛け。
それは突然で、準備もなにもないままの鈴に半ば答えの決まった決断を突きつけるのです。
あの短い瞬間にその一連の流れが凝縮された鈴は僕より大きな衝撃を味わったことと思います。
彼女の揺れ動いた気持ちは、もしかすると生を受けた瞬間の赤子の泣き声のような本能的なものだったかもしれません。
たぶん、これが僕が流した涙のもう一つの理由です。
多少無理矢理にではありますが、鈴と僕の経験を統合して一つの言葉にしてみるとすれば、「繭としてのネット」でしょうか。
ネットに溢れる批判の中の一つに「ネットの可能性と言いつつ、ラス前の東京行きの件が余りにもアナログ」と言うものがあります。
監督始め、制作陣があれだけの矛盾を放置してなお彼女が生身で乗り込むことに拘ったのは、彼女が「卒業」したことを示す必要があったからではないでしょうか。
ネットを論じる中で我々はともすればそこに留まるか、あるいは否定するかの二元論に陥りがちです。
そんな中、リアルと相互補完的な関係性、リアルに落ちこぼれた人間が再生するための、生物としては変態することのない人間にとって新たに生まれ変わるための「繭」としてのネットと言う概念を提示することが出来たのは、この映画が到達することの出来た、もう一つの歴史的な到達点なのかもしれません。
さて、そこまで言っておいて手のひらを返すようですが、この論で語っている側面については前回ほど手放しに細田監督を褒める気持ちにはなれませんでした。
鈴の辿った軌跡は余りに安易な気がします。
メディアで取り上げられるような「バズる」という極めて表象的な現象。
その中でネットが鈴に与えたものは「歌そのもの」はともかくとしてあとは「聴衆としての賞賛」ぐらいのものです。
ネットの中で形成された人間関係は「竜/恵」以外ではジャスティンぐらいです。
彼女を支えていたのはヒロちゃん始めリアル繋がりばかり、それも地元高知のです。
「繭」と言うコンセプトがあれば、リアルを丁寧に描くことにも必然性はありますが、明らかにバランスを欠いていると思います。
僕が敢えて指摘するまでもなく多くの方が指摘するようにこれ以外にもこの映画には色んな「つっこみどころ」があります。
ですが、同時に有無を言わさずに人を引き込むシーンが続き、うっかりしているとそれぞれを結ぶ中で生じている矛盾を見逃してしまうほどの気持ちの良いリズム感があります。
あくまで想像ですが、この映画はヴィジョナリーである監督が幻視したシーン、つまり、「個人の妄想」を一つ一つ丁寧に実現することで成立しているのではないでしょうか。
そして、その点において成功していると僕は思います。
そもそも、中村佳穂さんの主演抜擢は監督の「妄想」がなければ実現しなかったでしょうし、それがなければあの説得力のあるライブシーンは産まれなかったかもしれません。
少なくとも僕がこの作品を観ることはなく、当然涙を流すこともなかったでしょう。
正直、観終わった直後は神山健治監督作品としてNetflixでシリーズドラマとしてリメイクされないかな、なんてことを思ってしまいました。
ですが、この作品の持つ「煌めき」はその奇妙なアンバランスさがあるからこそ成立しているような気がします。
仮に綺麗にまとめたところで、僕が「竜とそばかすの姫」に求めるものはそこにはないでしょう。
この映画は沢山の「奇跡」で出来ていて、同じものはもう二度と組み上がらないのです。全ての映画がそうであるように。
もしかしたらもう少し続きを書くかも知れませんが、取りあえずここまでにしたいと思います。