「ユルさ」について考えてみたはなし。

最近、とある人から「お題」を頂きまして。まあ、僕が勝手にお題と捉えているだけなんですけどね。具体的には「~さんはもっとユルめでお願いします。(^^)」と言うものでした。

 

それで、ここ数日は「ユルく」なるってどういうことだろうと考えていました。

 

判ってます。「こういうところ」がユルく無いんですよね。

 

でも、僕に取ってはこのリアクションは自然なもので、「そうしないようにする」ことが不自然なことなんです。しゃーないですね。



さて、客観的に「ユルい」かどうかって判定が難しいですよね。僕から見ると僕よりユルく無い人はいくらでもいます。ADHDと言うこともあり、エラーレートが高いです。ここ数年は変化を厭わなくなったので簡単に「ブレ」ます。少し気を抜くとすぐダレてきます。

 

なにより、変わる前の生産性ゼロの自分が「基準」になっています。ベースがゼロですから「普通」でいることで自己評価は「無限大」になり得ます。

 

諸々考えてみると、セルフイメージよりずっとユルい人間なのかもしれないと思ったりします。



ユルさを人類全体を順位付けしてみたら実は半分以下の順位なのかもしれません。

 

そう考えてみると問題の本質は実は、僕が「ユルく見えないこと」なのかも知れません。




「肩の力を抜いて」、とか「もっとテキトーで良いよ」と言うアドバイスは子どもの頃から24時間360度どこからでも受けてきたもので、あまりに頻繁なので本当にそうなのかも?と「真に受けていた」時期もありましたが、概ね反発を感じていました。ちなみに「真に受けていた時期」の自分は最悪でした。人間歯止めが利かなければどこまででも堕ちていけるものです。



実は僕がこの五年程で大きく変われたのは「どうせ真面目なら突き抜けて真面目に生きてやろう」と開き直れたからのような気もしています。

 

突き抜けて真剣に、今まで当たり前だと思っていたことを全部洗い直すつもりで取り組んでいって見えたことは、「僕は全然真面目じゃなかった」ということでした。

 

難しい言葉を使ってみたり、いつもしかめっ面でいたり、他人に厳しく接してみたり。「真面目」と言うイメージを与える要素を洗い直してみれば、どれも「中身の無い弱い自分」を守るバリアのようなものであり、不必要に他人を遠ざけるものばかりでした。



本質的に真面目であろうとすれば、自分の弱さを認めて、どんな理不尽な言葉もそれなりに受け止め、ニコヤカに挨拶し、「怒り」を感じる場面では自分がなにに怯えているのか、その衝動の本質を見極める必要がありました。




今回もらった「ユルさ」と言う言葉の本質を突き詰めて考えることで、せっかく手に入れていたはずのこの「気付き」から遠ざかっていた自分を見つけることができました。

 

正直、今回「お題」をもらった時はかなり反発を感じたのです。ここまで這い上がってきたのは「頑張っている」からで、力を抜いたら簡単にずり落ちてしまう。気楽に「ユルめ」なんて言って欲しくない。

 

実際そうなのです。「基本」が出来ていない自分には当たり前の生活を営むことでも「必死にならないと出来ないこと」なんです。



ですけど考えるまでもなく「真面目でいること」と「真面目さをアピールする」ことは全く違うことだったりします。

 

自分を生きるのは簡単なことじゃない。多分、誰にとっても多かれ少なかれそうなんです。それぞれに日々挑戦している。苦悩していれば偉いわけじゃない。スイスイと簡単に泳いでるように見える人が「くだらない」わけじゃない。




必要以上に「真面目」に見えることには色々な害があります。



時に「褒めて」もらえることがあります。

 

「褒め言葉」は毒です。これほど容易く僕を劣化させるものはありません。

 

そして多少なりとも歳を取って、自分が褒める立場に立つこともあるようになって思うことは、「褒める」ことは「諦める」ことと同義だということです。褒める人の心にあるのは「感謝」や「歓心」ばかりでなく、「自制」だったり時として「無関心」だったりします。

 

 まして、真面目さをアピールしてくる「めんどくさい輩」に出来ることなんて出会ってしまったら褒めていなして出来るだけ近づかないようにするぐらいです。

 

そもそも人間には人間を正確に評価する能力がありません。褒めることも誹ることも、同じように「自分の印象」と言う「他人の持っている幻想」の表出です。「一喜」することも「一憂」することも同じように単に本来の自分から遠ざかることにしかならないのかもしれません。



あるいは、「そっとして」おいてももらえるかもしれません。

 

僕は日常を楽しく生きたいです。適当に距離感を保って多くの人と接し、「これは」と思った人とは深く関わる縁を築きたい。そんな「人間」としての日常を続けることが、今僕が一番噛みしめて楽しんでいることです。

 

必要な時に自分の力を求められることはこの距離感の中で大切な喜びの瞬間です。常に扉を開いておくことで、その瞬間は偶さか訪れるものです。自分でコントロールすることは出来ません。

 

自分の都合の良いときに「御用聞き」をすることは、「仕事を作る手間」を相手に押し付けることにしかならないと思っています。「力を借りる」ことは人間として大きな責任を伴う行為です。その責任を伴う行為を主導権のないままさせることは無責任の極みと言って良いかもしれません。

 

「自分の力」を蓄えるのは「人の役に立つ」喜びを得るための準備です。でも扉を開いていなければどれだけ備えていてもその機会は得られないのです。

 

もちろん、「備える」ためにも安売りすることは禁じ手です。研いで、使って、休ませて。そのバランスを見極めることが人生の難しさであり、恐らくは極めるべき「楽しみ」でもあるのかもしれません。



なにより「日頃の努力」を周囲の人に申告する行為は「百害あって一無し」です。

 

「自分の力を発揮する」という結果ではなく、「そのための準備」というプロセスを誇ることに意味があるのか。どれだけ備えていても「本番」で力を発揮しなければ意味がありません。なにより、評価するのは常に他者の仕事です。ズカズカとその分を越えて「良い顔」をしてもらえると考えるのは随分虫の良い話しです。




そこまで理解した上でなお、僕には「真面目さをアピールしたい願望」が確実にあります。疲れたり、自信が無くなったり、怯えたり、弱ったり。そんな時には思いも寄らない量が漏れてしまっていたりする。

 

子細に最近の出来事を振り返ってみれば、今の自分は「ダダ漏れ」状態で日々を送っていたような気がします。




僕は自由です。自分の好きに生きています。好きなだけ真面目でいようが、馬鹿みたいに突き詰めて考えようが、自分でやっていることです。

 

誰になんと言われても「自分を好き」でいるために必要なことは手加減することなく続けます。それこそが僕なりの「自分へのご褒美」ですから。

 

つい、忘れてしまいます。「自分のため」にしているはずのことを「すり替え」ようとする試みはこの世に満ちています。「給料のため」「社会のため」「仲間のため」「誰かのため」。一見素晴らしいことのように見えて、そう勘違いしたとたんに「ご褒美」は「義務」になったり、「仕事」になったり、「苦労」になったりします。

 

そうですね。きっとそういうことなんだと思います。

 


いつかきっと、心の底から本気で「自分のためにやっている」と思える日が来ると思います。本気でそう思えているなら、そもそもここで書いていることは全部自分の胸のうちに納めておけば良い話しなんですよね。

 

たどり着けるかどうかはとにかく、今はまだ向かっている途中です。僕のことですから、きっとたどり着く前に何度も忘れて見失うことでしょう。元々、このブログの第一の想定読者は「忘れてしまった将来の自分」だったりするんですよね。

 

可能性は限り無く低いですけど、晒しておけばもしかすると御同病の誰かのヒントになるかも知れないですしね。