母の看取りについてのはなし。

6月12日、母が亡くなりました。

 

私に取っては初めて立ち会う肉親の死、と言うより人の死の瞬間に立ち会うこと自体が初めての経験でした。

 

もうそろそろ、ということで、最後に一目会って欲しいと親戚を招くためにお休みをいただいた日、一通りお客さんが帰られ、夕餉の支度をしようかと思い始めた頃、呼吸が乱れ始め、最期はすっと、消えるような、静かなものでした。



本人にとってはずっともっと難しいことだったと思いますが、宣告を受けてからの一年半余りの時間は気持ちの整理と言うより、人の死とは何であるか自分の身近に置き換えて学び直すための時間でもありました。

 

突然に大切な誰かを亡くすことを思えば、その点「がん」は慈悲深い病気と言えるのかもしれないと思ったりもします。



本人のことは、本人にしか判らないことであり、母はその点闘病期間中に二冊の本を残しました。

 

ですが、ロクに手紙を書いているところも見たことの無い、教師時代に生徒所見を当時中学生だった私にゴーストライティングさせていたような母の「突貫工事」はそこに書いているなにか遺したと言うより、死を受け入れるための準備行動だったと私は受け止めています。

 

母が私に遺したものは、そんなわけで書面には残っていないものです。

 

生き様そのものです。



最期まで、自分で立って歩くことに拘りました。

 

歯ブラシを持てた最後の日まで歯を磨きました。

 

それでいて、あれほど我の強かった人が、人に活かされていることを素直に受け入れ、心の底から「ありがとう」と言えるようになりました。



享年76歳。

 

幾つになっても、どれだけ病み衰えても、人は成長することが出来る。

 

母の最後の半年余りの生き様は、これから老いを迎える自分にこの上ない勇気を与えてくれました。




正直、仲の良い親子ではありませんでした。

 

看護も介護も弟の奥さんである義妹にほとんどお任せしてしまい、現代の手厚い福祉が無ければ自宅療養は成立しなかったと思います。

それでいて、私は45を越えてやっと生きやすさを手に入れたのに、その自由を奪われたように感じていました。

 

素直に母を受け入れ、遅ればせながら向かい合えるようになったのは実質2週間そこそこです。

 

それでも、今は間に合わなかったよりは全然良かったとそんな自分を受け入れています。



多分それは、今、素直に母を尊敬することが出来ているからです。

 

本を書いたからではありません。自然保護をしたからではありません。

 

懸命に自分を生きることを最期まで諦めなかった人だからです。



奇跡のような出来事だったのかもしれません。

 

50年近く、埋まることの無かった母子の間にあった溝が、たったあれだけの時間で綺麗に消えて無くなりました。



母と、母の看取りに携わっていただけた全ての人に感謝しています。福祉に支えられたと言う意味では、それは広く、今この文章を読んでくださっている皆さんにも等しく感じる気持ちです。

 

ありがとうございました。