いまさら「逃げ恥」を真っ正面から論じてみた話し。(ネタバレ注意)

いまさらですけど、「逃げ恥」を見ました。

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まず原作から出会えた幸運について

 

Koboのセールスでたたき売りになっていた原作を購入したまま積ん読しておいたのを先日ぽっかり時間が空いた際に読んだことから火がつきまして。

 

 

 

ここのところ私が読んだ本の中でも特に印象に残っている本が3冊あるのですが、

 

 

 

 

 

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

 

 

この三冊が提起している問題にそれぞれそれなりの回答を示していると言いきってしまっても言いすぎではないと思います。現代日本の闇に差した一筋の光に思えました。おおげさですけど本音です。

 

 

良作ドラマに原作者の悲哀を見る

 

漫画を先に読んでダバダバ涙を流したのでこのままドラマを見ると「見なきゃ良かった」と思うパターンかなとも思いましたが、あれだけブームになったのだから見るべき点はあるのだろうと怖々見てみた結果思ったことは

 

  • どちらも見るつもりならまず漫画から
  • これだけ原作を絞り尽くしたドラマは初めて見た
  • 恋ダンスとか割と「刺身のツマ」だった

 

の3点。

 

実のところ、ドラマを見た後に漫画を読み直すとかなり冗長なストーリーだなと思ってしまいます。が、漫画を読まずにドラマだけ見ては物語が示すテーマの全てを吸収することは難しいと思います。

 

これは漫画の作者である海野つなみ氏が連載期間だけで4年半の歳月を費やし、恐らく連載開始以前から渾身の力を振り絞って構想し、取材して得た物を詰め込んで構成したものを印象に残る部分をチョイスして11話の連続ドラマに再構成した結果と考えれば当然です。

 

結局商業的二次創作って言うのは原作者が監督でもしない限りは下手に料理されても上手にされても原作者としてはある程度の悲哀を味わうことになるのかなーと思わざるをえない残酷な現実もみえました。

 

が、端書きなんかを読むと原作のラスト近辺はドラマの脚本と原作が相互にフィードバックしあったことがどちらの展開にも活かされていたみたいですね。漫画が終盤にさしかかった時期のドラマ化というのも、たまたまそのタイミングになったのかもしれませんが、大事に育ててきた作品のいわゆる「龍の目」の部分で外部からの口出しを受け入れて完成度を高めると言う作業があったのは海野つなみ氏の度量の広さをしめすエピソードのような気がします。*1

 

 

「逃げ恥」が示したものとは(ココからネタバレ)

 

ところでドラマを見終わってさらに欲張って余韻に浸りたいとググってたら

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こんな声もあったようで。

 

この物語がここまで受け入れられたのもやはり新垣結衣さんの人気や恋ダンスと言った「大向こう受け」を担った要素が働いていたからという点は間違い無くあり、原作が構築し、ドラマが啓発した「未来を先取りした思想」自体が受け入れられている訳じゃない、いや、むしろ読み解かれてすらいない可能性がある、ということを物語っているのかなと。*2

 

ドラマにはいくつかのオリジナル要素があって、どれも原作に欠け気味な「ヤマ」や「オチ」、つまりメリハリをつけるために効果的に機能しています。

 

中でもラス前の10話で描かれた高級フレンチでのプロポーズシーンは最終の11話での「小賢しいみくりさん無双」な展開とともに漫画とドラマに共通する背骨とも言える思想、アイデアを鮮明に描き出すことに成功している箇所ではないかと思います。

 

平匡さんらしからぬ用意周到な舞台設定のプロポーズは、「旧世界の遺物」そのものです。

 

「空気」を読むことで進行する儀式化された一連の婚活プロセス。

夫婦の間のことは理屈でも理論でもないから言語化出来ないという「信仰」。

関係性の言語化、システムの構成に長けた平匡さんですら論理破綻に導く「常識」の落とし穴。

 

みくりさんが感じた「モヤモヤ」は今の日本に欠けている何かを鮮明に浮かび上がらせます。

 

「恥をかいてでも逃げた」みくりさんはあの瞬間、誰よりも闘っていたんですよね。

 

どんな未来を選択するかと言うことについては二人は絶対的な解を示してはいないです。が、システムを固定せずに常に状況に合わせて変更し続ける姿勢、それを大人げないまでに言語化し、システム化する努力こそ、この物語の真骨頂であり、「二人の愛の形」ですよね。

 

だからこそ、二人はどんな未来でも怖がらずに受け入れられる自信を手に入れることが出来た。

 

それこそがドラマのエンディング「恋」でフューチャーされたドラマのサブテーマ、「夫婦を超えてゆけ」の示す物、言ってみれば「超夫婦」という思想の結実なんだと思います。

 

引用した記事の時点ではオチを見ていない段階だったとは言え、「面倒くさいことから逃げずに答えを探すことがテーマのドラマのヒロイン」に対して「クソめんどくさい」「上から目線のクソ」という批判があったこと自体が漫画じみているなーと思ってしまいます。

 

まあ、むしろ、「ガッキーオーラを超えるウザさ」を認めてしまったこう言った視聴者からの反応という「前振り」があったからこそ平匡さんの「僕はみくりさんを下に見たことはないし、小賢しいなんて思ったこと、一度もありません。」という台詞は暁闇の中でより一層の輝きを放ったのかもしれないし、公衆面前のハグという使い古された演出に感動を呼び起こされてしまう「説得力」が宿ったのだとしたら、ドラマ制作陣としてはまさにしてやったりだったかもしれんですけど(^_^;)*3

 

 

完全に蛇足な話し

  

ところで「プロの独身」と言う生き方が認知を得たと思い込んでうっかり自称してしまったらそれは「自爆行為」でしかないんで「ご同輩の皆さん」は注意しましょうね(^_^;)

*1:いや、当然のことながら海野つなみ氏の人となりとかシランのですけどね(^_^;

*2:まあ、Twitterの感想の抜き書きがどこまで世相を反映しているかと問われるとかなり微妙ではあるんですが、、、

*3:ドラマでは原作者の意図を超えて「小賢しい」がフューチャーされていたことに違和感を感じていた旨の記述が原作の端書きにあったりします。

ひねりもなくただ反省した話し。

いったん公開したものはよほどのことがない限り引っ込めないようにしています。修正は公開後でもバシバシしますけど(^_^;)

 

40代後半の独身男性ということであまり「リスク」に頓着しなくて良いせいもあるんんでしょうね。

一度出しちゃった物は間違っていようと後悔しようと引っ込めてもどこかに痕跡が残っている可能性もあるし、そこも含めて自分だよなという想いもあります。

 

なんですけど、今回このブログへの投稿を2件取り下げさせていただきました。

 

1件については書評なんですが、言及した内容に事実誤認が見つかりその内容が投稿の趣意に影響する部分だったためです。嘘を嘘と知りながら公開し続けることは問題がありますし、修正するなら根本的に書き換える必要があります。本自体は面白いと思っていることに変わりは無いので、いずれ切り口を変えて投稿できたらと思っています。

 

もう1件は日記物なんですけど、「自分以外の人の不幸」をネタにしておりまして、自分なりの考えでこのまま公開し続けることが忍びなくなりました。

 

いずれにせよ、公開してしまったこと自体が私の浅はかさの記です。読んでくださった皆さんにも申しわけありませんでした<(_ _)>

 

助け船が豪快に水しぶき上げて通過していった話し。

私の所属の担当は割とベタな庶務、総務というヤツです。

建物管理や修繕、備品や消耗品の購入なんかと並んで給与計算やそれに付随する社会保険とか源泉徴収なんかの税務関係の手続きなんかも業務の範囲内です。割とアウトソーシングされがちな業務でもあるとは思いますが、うちはコンサバな職場なんでほぼ自前でやってます。

で、当然この辺をカバーしているといやでも同僚の個人的な事情が業務上の情報として入ってくるんですね。

このご時世、できるだけ人の秘め事には関わりにならずにいたいものなんですけどそうもいきません。

特に離婚についてはやはり同僚に知られることに抵抗感がある人も多いようで、ギリギリまで黙ってる人もいるみたいなんですが、そうは言っても扶養控除とか配偶者手当とか社会保険の手続きなんかもあるのでコッソリ担当者だけにお話しなんてこともあるわけです。

ちなみに今その辺を担当しているのは「姐さん」です。
幸いうちの職場では世間で言うほど頻繁に離婚話を聞くことはないようなんですが、いざそうなるとあまり広い範囲に話せないだけについ「はけ口」になってしまい聞きたくない話しを聞いてしまうこともあるみたいで、自分で「悪いムード」を払拭するのが苦手な「姐さん」にはとりわけ苦痛なことになってしまうこともあるだろうなと思います(かと言って「秘密の相談」を我々に漏らすわけにもいかないですからね)


さて、今日はたまたまぶっちゃけるタイプの人が相談にみえていまして

私も聞こえる範囲に座っていたので否が応でも事情が入ってきます。その同僚、仮にAさんとします、はよく姐さんに懐いて?いるようでたまーにフラーっとうちの部署に来てはほぼ一方的に1~2時間マシンガントークをしては満足して帰っていく人でした。

今日はさすがに神妙な雰囲気でかがみ込んで姐さんに

「私、実は離婚しましてー」

と話し始めたのですが、詳しい内容はネタには関係ないのでここでは割愛させていただきます。

離婚なので当然と言えば当然なのですが、円満な雰囲気ではないんだろうな、ということは伝わってきました、という点だけに留めたいと思います。

そんなことがあったのがお昼頃。


それからしばらくして夕方頃、早上がりの姉さんが帰ってしまい、ボスが出張に出かけたタイミング。事務所の中には私、サワヤカ君、姐さんの3人という状況です。

「あ、Aさんが別居始めた日ってAさんの誕生日、、、」

と気付いて思わず呟いてしまったふうの姐さん。

いつもはリアクションの大きいサワヤカ君が掠れた声で

「マジッスかー、、、キツいっすね、、、」

姐さんの言葉にはなんやかやと反応する私も「まだ荷物の整理も終わっていない部屋の壁を見つめながら孤独を噛みしめるいつもはマシンガントークなAさん」を想像して思わず目を閉じてしまいます。

職場に沈鬱な空気が流れました。

(いかん。「換気」をしなくては)

姐さんのムードを変えることを第一の仕事と心得ている私はその雰囲気を噛みしめる間もなく空気を換えるネタを探し始めます。

「いやー、、、Aさんそりゃ辛かっただろうけど、今までずっと誕生日祝ってくれる家族が居たわけじゃない。
 私なんかここ20年誕生日もクリスマスもずーっとお一人様ですよ!」

 

ええ、結局出たのは十八番の自虐ネタでしたorz

反応は?肝心の姐さんの様子を窺うと、どう反応して良いか戸惑ってるようで若干動揺しているようにも見えます。

滑ったか?

 


が、その次の瞬間、、、

「どっひゃひゃひゃ、それ最高に笑えますね!」

と心の底から楽しそうに笑いはじめるサワヤカ君。

釣られて笑う姐さん。

良かった、、、姐さんのちょっと引きつったような笑顔を見てそう思うと同時に、、、

ついこの前結婚するまではそこそこいい歳の独身だったサワヤカ君。

私ほど寂しい人生は送っていないだろうけどそこまで笑うか?と思わずにはいられなかったのです、、、

八つ当たりのコストに関する事例と考察。

前振り(と言う名の言い訳)

 

コミュニケーションとは情報の流通である、と思っています。

他にもいろんな見方が出来ると思いますが、私は大筋でそう理解しています。

 

流通であるからには、可能な限り障壁を無くしてスムースに行われることが望ましい。

まあ、例えばテレビを際限なく起きている間ずっと見ている、とか、仕事もせずにネットサーフィンしまくり続ける、なんて状況でも情報は流通しまくってるようにおもえるのですが、そういった場合は流れている情報の価値そのものがジャンクである、ことも可能性としてはあるんですが、そうでなくても受け取る側の姿勢の結果としてどうしても受け取った情報がジャンクになってしまいがちだと言うことがあるんじゃないかと思っています。

 

ちゃんと勉強するとか、人の話を真摯に聞くとか、受動的な知識であっても読書という整理された知識を時間と余裕を確保した上で受け止めるとか。

情報の価値というものは受け取る側の姿勢であったり、入ってきた情報の処理の仕方にであったりによってある程度決まるという側面もあると思います(実はADHDの一番問題な点はこの入ってくる情報の処理が出来ない点にあるのではないかと思ったりしますが、その点についてはまた別のお話で。

 

 

さて、この受け取る側の姿勢というのは一つのコミュニケーションに対しての障壁となり得るのかもしれません。他にはどんなことがあるでしょうか?

 

 

時間や距離によって発生する「物理的な情報との隔絶」というのは大きいでしょうね。

防災、居住環境、経済的競争圧力の大きさと言ったデメリットを超えて多くの人が都会に住むメリットを享受することを選択する一番大きな点はこの障壁を限りなく小さくする効果があるからだと思います。最も一般的に考えられるものですが、逆に言えばこの障壁があったればこそ人間は平穏に身の丈に合った生活が(かつては)できていた、なんて皮肉なことも言えてしまうのかもしれません、が、これもまた別の話ですね。

 

 

情報源と隣接していてもそれが活かされない場面もあります。

例えば、

 いわゆる風通しの悪い職場。

 相互に無関心な家族。

 一方的に先生がまくし立てるだけの教室。

 

情報の流通が存立理由そのものであるような組織であっても大きな障壁が存在する事例を拾うことは我々にとって容易なことなのではないでしょうか?

 

具体的に物理面以外のなにが障壁として作用しているのか。

考えられる候補は、実は日本人の美徳の多くとも重なります。

「気遣い」「思いやり」「配慮」「空気を読む」「以心伝心」

一見テレパス的な情報共有手段も含まれているのでは?と思われる方もみえるかもしれませんが、どれも「通じている」という幻想が相互に(或いは片方に)存在する状況を指しているだけです。言葉にしても身振り手振りにしても文字にしても、伝達手段を使っても正確に伝わらない物がなにもないまま伝わってるわけがありません。

村社会という一見緊密な人間関係にあって都会以上に有益な情報の流通が阻害されうるなんてことは我々実際田舎に住んでいる人間が日々現実に体験していることだったりします。が、これについても今回のテーマからはずれますので、また別のお話として取り上げたいと思います。参考図書としては最近取り上げる機会の多いこれですね。

 

 

今回お話ししたいのは、私が個人的にもっとも問題視し、可能な限り無くしたいと思っている障壁である、「怒り」についてであります。(ヤットカヨ

 

怒りとは防御のための反応だ、という考え方があります。

一見攻撃的なものにみえますが、言ってみれば怒りとはヤマアラシのとげとかスカンクのガスのようなものです。

 

怒りはその瞬間には「攻撃」ですが、本質としては怒りの主が実現しようとする意志は Leave me alone. という3文字に集約されます。まあ、日本語なら「放っておいてくれ」の一言で済みますけどね。

 

それこそ「ヤマアラシのジレンマ」という哲学上の命題のようなものがありまして、放っていて欲しいと思うのはその瞬間のことですぐに人寂しくなってしまうということも人類にはアルアルな不具合であります。さる若くして亡くなった私と同郷の創作家はそんな心理状況に陥りがちな人のありさまを指す「人類ネコ科」という秀逸な言葉を残されたりしました。

 

が、残念ながら人類の多くはネコのごとく狡猾なチャームの能力を獲得するには至っていないので、自分の都合で放っておかれる人は大抵「なでて欲しい」ときも放っておかれる運命にあることが多いようです。

 

「放っておいて欲しい」という意志の表示ほどコミュニケーションの障壁になることは無い。下記のエントリーで取り上げた事例に真逆に作用する存在と言っても良いかもしれません。

 

ukkiemf.hatenablog.com

 

 

 ADHDであることと結びつけられる、とかつて担当するカウンセラー氏に言われたことがあるのですが、私には「早とちり」という悪癖があり、それにともない「八つ当たり」をしてしまうことがしばしばあります。

 

なにせ人の話を最後まで聞かない、いや聞けない。

リニアに出力された情報をリニアに入力、処理するので、特に日本語との相性は良くないのでないかと思います。

現在に至るも日本語では一番大切な文章の趣旨は文末を聞かないと解き明かされない構造になっておりますから。

 

私もただADHDだからと言って諦めているわけでは無く、そもそも必要以上に感情を表に出さないようにしたり、例え怒りに触れるようなことでも務めて冷静にその事実を指摘するに留めるようにしたり、職責上自分より下に居る人にも叱責では無く指導、指摘をすることを心がけたりしているつもりです。

 

この辺はマインドフルネスという考え方と直結する部分ではないかと思いますが、心がければできることでもなく、体調、それに伴う認知能力、ストレス状況など、いわゆるコンディションを整えることでやっと実現されることであると理解しています。

 

一朝一夕になせることでは無く、日々の鍛錬や節制、調心が結果として表れると言うことになります。

 

少なくとも私に取っては押さえ込みたいけど難しいことなんだよってことですね。

 

この「八つ当たり」ってやつは「怒り」の中でも最も害を為す度合いの高い存在だと思います。

無実の罪を罰する訳ですし、やってしまった方としてはただでさえ人として恥ずかしい

「怒り」を勘違いに基づいて爆発させるわけです。

式にしたら

「相手への被害」+「自分の周囲の情報流通を阻害する障壁の構築」+「自尊心への大ダメージ」

でしょうか。(しなけりゃ良かったorz

 

本題 

さて、やっと本題です(^_^;)

 

今週は土曜日に休日出勤がありまして。

丸々一日と翌日曜日も30分ぐらい出勤したんですね。ま、日曜日分はまともに計算すると面倒なことになるんでサビ残なんですけど。

で、土曜日の代休を今日取ろうと思っていたら想定外の来客予定が午後に入ってしまったので、午前のみの休みになったんですね(自分の判断です。

午前休というのはなかなか有効に使うのが難しいのは私が朝に弱いからなんですけど、そうは言っても色々処理しなければならないことも溜まっていて、かなり忙しく動き回っていたのです。なんとか午前中に全部こなしきれるかなーと思っていたら、もう一手間取らなければならないことが判ったのが12時過ぎぐらい。もう一手間に至る過程でかなり苛つくような事情(いわゆるお役所で陥りがちな不条理というやつです)があったのと、13時の午後の就業時間に間に合わせなきゃならないことでちょっと心がかき乱されていたわけです。

 

そんな状況で、職場からの電話が携帯にかかったんですね。

もう、いやーな予感しかしないわけです。こういうときにアレコレ考えずに現実を受け止められればいいんですけど、私にはいろんなシナリオを想定して事前シミュレーションをしてしまうという悪癖がありまして(最もマインドフルネスからかけ離れた行為ですね。

 

このケースだと

・午後から来るはずだった来客が前倒しで来ちゃってボスもいないからどうしましょう?という「ガキの使い」的な指示依頼。

・仕事で見つかった疑問点がどうにも解消しなくて、数十分も経てば私が出勤することを忘れてかけてきた「早とちり」。

・あと数十分も待てないような致命的なミスが見つかって10分でも前倒しで来いという業務命令。(受け止め方次第ですけど、そこまで重要な仕事はしていないんですけどね。ま、他の人はそう考えている可能性があるということです。

以上の3点ぐらいでしょうか。オッズは上に行くほど高くて60%、38%、2%ぐらいかなーってところです。

 

電話の主がボスだったらまだ良かったんですけど、若手の同僚であるサワヤカ君でした。

 サワヤカ君については下記の投稿にて言及しております。

ukkiemf.hatenablog.com

 サワヤカ君の声を聞いた瞬間に付加情報が脳内から提示されます。

 

このサワヤカ君、とにかく自分の不安を解消することを最優先してしまう悪癖があるようで、例えば事務所内で確認すれば判るようなことを他の部署に異動した前任者に電話で聞いてしまうようなところがあるんですね。(まー私が頼りないと思われている証拠かもしれませんが

 

最近はちょっとミスが重なったりしたこともあって特にその傾向に拍車がかかっていて、例えば先週金曜日に私が午前、ボスが午後に出張だったのですが、出張先に直行している運転中に電話がかかってきてどう考えても午後に帰ってから処理すれば良いようなことを聞いてきたり、午後に私が帰ってみればみたでその日彼が起こしたミスについて当日の夕方にはボスが帰ってくるにも関わらず会議中の時間にボスに電話で「報告」をしようとするわけです。(実際はボスが帰ってくる前に自分は体調不良で早退して結局その報告は私がすることになったんですけどね。

 

彼の声を聞いた瞬間に脳内でそれらの情報が直結してしまいまして。

いきなり不機嫌モードです(一応念のため、そうならないように最善の注意を尽くしてきたので、私の不機嫌な声は彼はあまり聞いたことが無いはずです。

「~さん、今お時間よろしいでしょうか?」

「あの、あと数十分で出勤する予定なんですけど、それからじゃダメなのかな?」

「ダメなんです。実は午後からの予定のお客さんが見えてまして」

(あ、60%の方か?

「いや、ボスに対応してもらえないの?」

「ボスが対応しまして、来客対応終わったので午後から出勤しなくても良くなったと伝えてください、ということだったのでお伝えしました。」

 

、、、、、、、、、、、

 

もうね、死んでしまいたくなるわけですよorz

「追い突っ込み」による「コラテラルダメージ」に関する観察例について。

以前信頼する同僚であるところの「姐さん」を紹介した。

 

ukkiemf.hatenablog.com

 

今回、職場で起こったドラマを紹介するに当たって改めて私の職場の仲間を紹介しよう。

私の右側に90度角度を違えて座っているのは「ボス」。50代半ばのベテランで私の上司だ。


「やむを得ない」を「やむぉーえまい」と言いにくそうに言ったりする面があるが、書類仕事に関してはなかなかの目利きでそもそも書類仕事に向いていない私の書類を真っ赤に添削してくれるありがたい存在だ。(ADHD持ちとしてはマジでありがたい。

眼の前に座っているのは4月からの同僚、「サワヤカ君」。
30代半ばのスポーツマン。ちなみに5月の連休明けに入籍したばかりの新婚さんだ。正社員である。

左隣にはあの「姐さん」。
サワヤカ君よりちょっと人生のベテランの2児の母。
パートさんながら正社員一人前以上の働きと気さくな人柄でまさに「姐さん」と呼ぶに相応しい職場内心理的ポジションを獲得している。

サワヤカ君の右隣、私の左向かいには、サワヤカ君より1月早い3月からの新参メンバーである「姉さん」。


バブル景気の盛りを社会人として経験している私より微妙に人生の先輩であり、それでいて衰えを感じさせない美貌の持ち主でもある。こちらも2児の母で中山道筋に店を構える老舗の奥方でもある。パートさんだ。


さて、「姉さん」はとある演技系の競技で全国レベルの選手だったというキャリアの持ち主で、その美貌もあいまってトーシューズに画鋲を入れる等の工作など弄さなくても自然にスクールカーストの頂点に立っていただろう人だ(と私は勝手に思っている。

正直、最下層民だった私としては彼女のキャリアを聞いた時点で警戒心を持って迎えざるをえなかったが、実はドジっ子属性を持っていたりする気さくで、そして性格の良い方だった。そもそも全国レベルの選手になれるぐらいの人だから「努力」する才能ももっているだろうし、社会性があるからこそ華やかな地位に居られるという面もあるだろうしね。

だが、一方で彼女には少々お嬢様気質なのかな、という一面もある。

 

ボスが理不尽な業務命令をだしたりするとあからさまにムスッとしたり(ま、私ならムッとするどころか喰ってかかるのでその影響かもしれないが(^_^;)、実は仕事のラインが私とは違うのだが私には判らない事を訊かれた際、「ごめんなさい、それは僕では答えられないな」と答えると涙目になっちゃったりしたことがあったりで、職場に溶け込むまではキチンとフォローしていかないとヤバイ気配があったりした。

そんなわけで彼女のラインの業務ソフトやメール環境の整備など、この4月ぐらいから私の手がけた業務改善と言えるようなものは本業では無い「姉さん」の仕事に付随する物だったりした。

そのラインに属する唯一の引き続き勤務している人であるボスが彼女が引き継ぎするまで前任者にお任せだったこともあり、結局姉さんをフォローしているうちに私が段々その業務に精通してしまい、5月辺りからは仕事の内容にも口出しするようになってしまったのはADHD的な情報の出入りに歯止めが利かない気質の弊害と言える。いかんなーと思いつつも会話が耳に入ってくると突っ込まずにはいられない。

同じく本来業務は私と同じラインの姐さんもベテランらしく姉さんのフォローには人一倍気を遣っている様子だった。


そんな皆の地道な努力の甲斐もあって、職場の空気は良好で、あまり共通する話題もなさそうな集団にも関わらずお昼休みには会話の花が咲くようになってきた。(ちなみにボスは昨年度から絶対その輪には入ってこないのだが、、、


今日のお昼は「腰痛になった姐さんの息子」の話しからスタート。

息子をサッカーの試合へ送迎するために高速に乗ったという話しの辺りから軸が「かつて自分がのっていた車」にシフトしていく。

ドジっ子属性がありながら車とドライブが大好きな姉さんが話しを引き継ぎリードしていく。

姉さんのリードで「自分の車」から話題は多少脱線して、「かつて名古屋の叔父さんに黒のセルシオを借りて名古屋高速を走っていたとき」なんてエピソードに。


「左車線でゆっくり走っていたんですけど、なぜか皆さん私の車を除けていくんですよね」

うん、突っ込み待ちですよね。

ところで私には「突っ込み嚥下不良」とも言うべき特性がありまして。
「隙」を見つけると突っ込まずにはいられないのです。

が、姉さんには例のちょっと気をつけてあげないといけない一面もある。無思慮な突っ込みは思わぬ反応を引き出すことにもなりかねない。

私は会話の流れの中で突っ込みのタイミングを逃さないよう、無い頭を必死にフル回転させて、姉さんに最大限の配慮をした(つもりの)突っ込みをいれた。

「いやー、姉さんみたいな美人さんがそんな車に乗っていたら、そりゃ見た人はいろんなドラマを想像しちゃうよね!」

我ながら際どい。が、その瞬間姉さんの意識が「美人さん」という言葉に囚われたのか、ナチュラルな笑顔が出ている。成功だ!と思った瞬間。

「姉さん、そりゃ『極妻』じゃないですか!」ハッハッハッハー(サワヤカに

という被せるようなサワヤカ君の追い突っ込みが、、、

 

努めて冷静さを保ちながらもさっとお手洗いに立ち上がってしまった姉さん。

揃って下を向いてしまった私と姐さん。

正直、そのあとサワヤカ君がどうしていたのか余り記憶がない。

ただ、これほど実感を伴って「コラテラルダメージ」という言葉が脳内にリフレインした瞬間はなかったと思う。

 

ネタとしてはファンタスティックなんだけどね(^_^;)

切り抜き的ADHD論。

Google+という、ぎりぎりメジャーと言えなくもない、でもあまり一般的ではないSNSがオンラインでは私の「主戦場」だったりします。

 

その中で、とある最近自分はADHDではないかとの疑念を持たれた方の投稿へのコメントを書いたところ、比較的今の自分の中にあるADHDという言葉と自分との関わり方というか、今自分がこうで、ADHDについてこう思っている、ということについて過不足無くまとめられたな、と思ったので切り貼りしておきます。

 

初出はこちら

plus.google.com

自分がファーストコメント出した状態で書いていますので、議論の流れがどうなるかとか、想定できない段階なのですが、興味のある人は「今後の展開」も併せて追っていただいた方が私という狭い思考世界に限定された話しよりはマシな考えに触れることができるかもしれません。

 

 

情報という面だけとっても、入力も出力も恐らく人類史上最高という状態で、それだけでもADHDにとっては苦痛な状況と言えなくもないはないですよね。

人間の質の変化より社会の質の変化のスピードが速いことを考えれば、ADHDという考え方自体が相対的なものだとするのはむしろ当たり前のことかもしれません。

時間軸上のことだけでなく、広く社会でサポートすべき障害であるという社会のコンセンサスがいち早く確立したアメリカで、その一方「製薬会社の企業努力」によって特に子どもの発達障害の範囲が恣意的に広げられたのでは無いかという「作られた病気」説がある程度説得力のある話しと捉えられていたり、フランスのようにADHDは教育、躾の所産であって、社会の受け止め方、有り様で根絶することができるという受け止め方な国もあるようで、地理的、文化的な影響も大きいようです。人類はADHDという存在に「やっと気付いた」ところで、まだどう捉えたら良いか戸惑っているのかな、なんて思っちゃいますね。


そもそも私が自分をADHDだ、と思うのはストラテラコンサータが「効果」を発揮したから、とか、医者がそう診断したから、ということ以上の確信は持てないでいます。

ADHDの処方薬をスマートドラッグとして使う人の存在はむしろ成人のADHDが日本でその存在を認知される以前からあるわけですし、単なる能力不足であるとか、怠け者であるとか、ADHDという属性がそうした評価の隠れ蓑でしかないんじゃないかっていう考えは、自分の中からどうしても消えない「怖い考え」だったりします。

確信としてあるのは病名では無く、自分の中に生まれてこの方存在する「生き辛さ」だけなんです。

ただ、私の主観的な「生き辛さ」に誰かがADHDという名前をつけてくれて、そのことによって誰もがとは言わないけどそうなる以前とは比べものにならないぐらい多くの人が「その状態」を比較的客観的に捉えることが出来るようになって、対処するためのノウハウが蓄積されたり、国家から公的なサポートを受けられるようにもなったわけで、突き詰めて自分の中の「怖い考え」と戦うよりは自分のQOLが現実としてここ数年で劇的にあがったことをまず素直に喜ぶべきだと、今はそう思っています。

あまり内容を踏まえたコメントになっていませんね。ごめんなさい。

 

読書感想文「LIFE SHIFT(ライフ・シフト)100年時代の人生戦略」について。

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

 

 

少子高齢化、人口減少、人口ピラミッドの歪化。いずれも先進国がほぼ例外なく陥る破滅に向かう「避けがたい宿命」を指し示すものとされているこれらの現象を、個人がより自由にダイナミックに生きる明るい未来への道しるべへと読み代えることを、本書は果敢に試みている。

 

 

Life Shift: Let Go and Live Your Dream: Aleta St. James: 9780743276924: Amazon.com: Books

 

原著 は2005年11月に刊行されている。

10年以上が経過しており、本書で示されている「希望の未来」は、実は一部すでに社会変革において保守的な日本でも実現している。

 

とは言え、ここで書かれていることの多くは理想主義的な夢物語と言われてもしかたがない面がある。

 

 

骨子はこうだ。

 

  • 平均寿命の上昇に伴って健康寿命も上昇する。
  • 現在の社会制度や個人の人生設計は旧来の人生70年を前提としている。
  • 想定寿命が100年になるならば、それを前提とした新しい生き方を個人は模索するべき。
  • そして社会制度や企業も変革する個人のあり方を取り込むべきだ。

 

もうちょっと詳細に述べると、

  1. 同一企業で息を詰めて働き続け、定年年齢になった時点で生産人口からすっぱり離脱する「定型的な人生」を前提とした社会制度は無駄に長い引退時代を送る世代を量産し、非合理的だ。
  2. 企業の形態や社会制度は現状を後追いするものなので変化に対しては硬直的にならざるを得ない。
  3. 個人こそが多様な人生設計を指向するべき。優秀な人材が多様な生き方の中で自分の付加価値を高めれば企業はその人材を取り込むために変革せざるを得ない。その変革は結果として社会制度の抱える矛盾の多くを解決する方向に向かう。

 

ってところ。

 

うん、こういう抜き取り方をすると青臭さが鼻につくレベルで夢物語だ(^_^;)

 

思いっきりざっくり刈り込んだけど、このまとめ方は大方間違ってはいないと思う。

 

 

結局、この話の無理のあるところは、変革のエンジン役とそのリスクを個人に求めているところだろう。

 

 

人生には色んなことが起こる。変化は希望にもなり得るが、リスクでありストレスでもある。

 

どの時代にも自分で人生を切り開く人はいるし、その中には才覚を発揮して輝ける人生を歩む人も多く存在するが、その人達が輝いているのは逆に誰にでも出来ることではないことをしているからだよね? 

 

 

 閑話休題

本書が変化の結末として描いている「ユートピア」はこうだ。

 

自由でダイナミックな来たるべき個人のライフスタイルの事例としてはこんなところがあげられている。

  • 就業前の自分探しステージがあれば、人生の初期段階で人脈や得意分野、特殊技能を得る可能性もあるし、運が良ければ起業に結びつけることも出来るよね!
  • 企業で働き詰める中では自分のスキルを更新したり、新しいスキルを習得して転身を図ることは難しいよね?途中でサバティカルとか、あるいは思い切って人生のパートナーに養ってもらってブラッシュアップしたり新しいスキルを身につけたりするステージがあってもいいよね!
  • 有能な人はスキルや人脈を駆使して独立した経済体として企業と対等なパートナーシップを結んでも良いよね!気が向いたら大きな企業に取り込まれちゃっても良いしさ。
  • 流行のシェアリング・サービスとかで副業しちゃえば経済的な自立性は高まるよね!

 

いや、ね。やってる人は過去に遡ってもやってることもあるし、この10年間で実現しつつあるように見える現象も含まれている。でも、社会制度がこういったフリーな生き方をフォローするようになるにはそれが例外的な生き方であっては成り立たないよなー。

 

 

で、仮にこんな生き方が主流になる変革が実現したら(つまり割とみんな自由に人生設計できる未来が来たら)どうなるか。

  • 人は余暇を有効活用して常に学んだり、自分のスキルや人脈を更新するようになる。現在のように組織のコマとして働き続け健康上も仕事の能力としても徐々にすり減って使い物にならなくなった時点で定年を迎える社会と違ってその社会では「使える状態」で老年期を迎え、長く現役として人生を使い切るようになる。
  • スキルを更新したり、健康を維持するためには企業が現在のように人を拘束し続けることは社会トータルとしては不合理な選択になる。つまり、皆働きすぎず、結果として多くの人に就業機会が行き渡るようになる。
  • 結果として老齢人口の比率が上がっても就業人口の減少は抑えられる。若年層の就業機会も増える。
  • そもそも余裕が増えることによって少子化だって長い目でみれば解消するかも。
  • 家庭や企業に閉じ込められる状況が減るので、多業種交流、年齢層を横断した交流が多く生まれる。縦割り思考の弊害を打破した新しいビジネスの可能性も生まれやすくなるし、世代間の断裂も解消する!
  • 多数派になる老年層も身近に若年層と交流する機会が増えることで、「若い世代の未来」のことも身近な問題として当事者意識を持って考えることができるようになるかも。

 

もう、まさにユートピアですな。万事解決。

 

 

ユートピアへの道筋を遮る問題点ももちろん指摘されている。

  • 人生の初期段階でフラフラする原資はどうすんの?
  • 企業に属していない間の経済的保障、社会保障は?
  • 相互にパートナーに養ってもらうなんて今の離婚率考えたら現実的?
  • 企業は安定的な人事構造を維持出来くてコストが上がっちゃうんじゃないの?
  • 個人、企業、社会の順に変革するって順番に無理があるんじゃない?

 

これら以外にも本書では明示的に指摘されていない問題点ももちろんある気がする。

 

そもそも、人間ってそんなに強いものなの?と個人的には思ってしまったりする。(一応本書内ではそのツッコミを想定してか、産業革命以前の人間って結構自由だったし、人間にはこのぐらいのポテンシャルはあるんじゃない?みたいな話しはされているけど、、、

 

実はこの本、随分長い時間をかけて昨日やっと読了した。購入したのは昨年12月。シナリオとして肝心な部分が中抜けしているよな、と思いつつ結果としての「ユートピア」は悪くないんだよな、という二つの思いにシーソー状態で揺られながら、肉体改造に取り組みつつ、同時並行で他の本やブログでいろんなアイデアに触れながら、日々読むと言うよりは題材にして考え続けた日々だった。

 

 

ここで妄想レベルで申し訳ないけど、私なりに「ユートピア」に至る道筋を補完してみたい。

 

やぱり現実に必要なのは「お金」の話しだと思う。お金が「安心」を裏付け、それが「勇気」を産み、「自由」を産む。

 

 

もちろん、魔法の杖は存在しないが、グラミン銀行の事例にあるように金融の力は本来社会問題を解決するためにあるものだ。。

昨今リバイバルしているFintechという言葉が最初にバズったのはもう10年以上前のことと記憶しているし、それ以来着実に新しい力が芽吹いてもいる。ユーザーである社会の側にも適切なリスクを取ることへの理解も進みつつある(「理解」している層とそうでない層の断切は進んでいるかもしれないけど、、、

 

いつ大きな変化が起こってもおかしくないのかもしれない、と個人的には期待している。

 

 

 

もうひとつ、ちょっと違う方向性の話しをしてみたい。

突飛な話しに聞こえるかもしれない。

 

Ingressというオンラインゲームがある。

最近実生活に力点を移す必要に迫られてご無沙汰になっているのだが40代になってリバイブした私の青春wを飾ってくれた存在だ。随分お世話になった。

 

個人的に私を人として再生してくれたものの一つだと思っている。

 

ポケモンGOのひな形と言われることもある、と言えば思い至る人も多いかもしれない。

 

ゲームそのものについては別に詳細に述べる機会があると思う。今回は簡単にふれるだけに留めたい。

 

特徴は「AR(現実拡張)ゲーム」である、ということ。スマホを持って近所の神社やお地蔵さん、目立つ変な看板と言った「現実にある特徴的なポイント」をゲーム上の起点としてそのポイントを2陣営に分かれて取り合いポイントを結んで三角形を作ることで陣取りゲームを行う。

 

つまり、オンラインゲームと言いつつその場に行かなければなにも起こらない(基本的には)というのが大きな特徴になる。

 

Googleの企業内スタートアップグループが立ち上げたサービスなのでゲームの盤面はGoogle Map、つまりは実際の世界だ。

 

 

当然、好むと好まざるとに関わらず人と会う機会が多くなる。別名「引きこもり強制解除サービス」というフレーズは今私が考えたが、現実に「鬱抜け」や、引きこもりの社会復帰の切っ掛けになっている(と実例である本人が言うのだから間違い無い)

 

実社会を舞台にするだけに社会との軋轢を生むこともある。突然見慣れぬ人が夜中に訪れるようになった寺社仏閣が自衛のために敷地内でのスマホ使用を禁止した例はポケモンGOでも話題になったかと思うが、当然先例として人口が少ない分インパクトは薄いながらもIngressのユーザーコミュニティーも同じような途を辿っていたりする。

 

ただ、現実を舞台することは社会の側にもメリットを生む側面もあり、イベントを打つことで集客を図ることが出来たりする。

ユーザーコミュニティを構成する人達が平均的に高いITリテラシーを持っていたり、情報感度の高い「面白い物好き」が多く集まっていたようで、ユーザー主導で「新しい文化」が形成されることもまれでは無い。

 

特に日本ではGoogleのスタッフが東北の復興に関わった縁もあって、サービス開始時から積極的に東北を盛り上げることを命題としたイベントが組まれたりした。

 

日本各所でこのゲームのイベントに参加することに面白みを見出していた私は、去年のゴールデンウィークから計2回、岩手の一関市を中心に活動するグループのイベントに参加し、グループを構成する皆さんと交流する機会を得た。

 

様々な業種、年齢で構成されているのは全国どこでもみられる光景ではあったが、ゲームの作った大きなムーブメントを現実の復興の流れに結びつけたいという強い意志を感じた。

 

例えば、ユーザーはエージェントと呼ばれ、ゲーム内ではプライバシーに配慮する必要があることもあって、本名ではなくエージェントネームで呼び合うことが通例になっているのだが、東北では概ねフェイスブックを媒体として実名で告知を打ったり交流をしたりすることが多いようだ。

 

ゲーム内での「顔」を自分のビジネスの「看板」としてリアルに機能させる人達がいる。

 

ただゲームを利用している訳ではなく、手弁当、あるいは身銭を切ってビジネス上の資産をゲーム内のイベントのために提供したりもするわけで、その点ウィンウィンのバランス感覚がなければいまだ「儲け」の匂いに敏感なネット民の信頼は得られないことは言うまでも無い。

 

リアルとの絡みは、ユーザーのビジネスに留まらず既存のイベントとの相乗効果を狙ったゲームイベントなんてのも「常套手段」、地元の商店街や自治体とのタイアップも珍しくはない。一関のイベント自体、文化センターとのタイアップ、エージェントでもある市役所職員さんが二つの世界を見事に結びつけた成果だった。

 

地道な話しでは、地元のおばちゃん達にファングッズの製作を依頼したりなんてほほえましい?エピソードも。

 

私個人の経験で言えば東北以外にも長野県上田市や準地元岐阜市のユーザーグループと交流する機会があったが、それも全国レベルで言えば当然氷山の一角。イベントを如何に地元の盛り上げにつなげるか、全国でまるでコンテストでもするかのように競われている状況は、実は今も続いていたりする。

 

 

それでいて、ここが一番印象に残っているのだが、みんな、「いいこと」を頑張ってしているなんて感じさせない、文化祭前日みたいな楽しさと気楽さで取り組んでいた。

 

 

本書で描かれるユートピアの姿を思い描いたとき、私の頭の中ではいい歳した大人達がよってたかって大人げない働きぶりで夢を形にしていったあの光景を思い出さずにはいられなかった。

 

 

一過性のお祭り、しょせんは遊びと言われればそう。

でも、この形態は本書で描かれているユートピアにいたる「中間形態」として有効な形を示しているんじゃないかと私には思える。

 

「遊び」であっても大人が大人げなく力を集めたときどれだけのパワーが発生するのか。そのことを身をもって知ることが出来なかったら、私は本書の描いた未来をただの絵物語と捉えたかもしれない。

 

 

もちろん、ビジネスとボランティアは違う。実際Ingress界隈にも「コンサルタント」「フィクサー」的な動きをする人がかなり初期からいたのだが、実態としてどうかはともかくとして「胡散臭い人」扱いされる場面が少なからずあった。地元の盛り上げとゲームのスポンサーとの利益相反なんていう「大人の事情」が出てきたりすれば、純粋な想いで取り組んでいる人ほどシラケたりもする。

 

 

 実際にその渦中に身を置いてリアルに感じた「問題点」で言えばもう一つ、ボランタリーな共同体は企業体とは比較にならないほど人の出入りが激しいということ。面子もそうだが、組織の体質もあっというまに変わっていく。

 

より自由で柔軟な組織体を指向する本書の描く未来では、そのことが事業の継続性、組織のモチベーションの維持などで脅威になるかもしれない。

 

これからのことということで言えば、あのムーブメントを一つの事例として研究対象にすることで、今後にそのDNAをつなげることと同時に、冷静に利点と問題点を検証することも必要なことだろう。

 

 

本書が私に大きく響いたのは、良くも悪くもあの夢のような日々を与えてくれたコミュニティに属する栄誉に預かることができた経験が大きく影響していることは間違いない。奇しくも原書が刊行されてから私がこの本に出会うまでの間に大きな一つの可能性が花開いていたのだから。