読書感想文「スッキリ中国論 スジの日本と量の中国」について。

 

スッキリ中国論 スジの日本、量の中国

スッキリ中国論 スジの日本、量の中国

 

 

評価の難しい本だと思います。

 

スッキリする点は表題に偽りなし。

 

例えば、↓この記事について

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/14926?layout=b

>保釈の日、法廷で手続を待っている間に、弁護士が教

>えてくれました。弁護士事務所に知り合いでもない多

>くの人から、保釈金のために自分の財産を提供したい

>との電話がありました。個人的な知り合いでなくて

>も、彼たちはファーウェイを知っています。ファーウ

>ェイを認めています。だから、彼たちは私を信用して

>くれたのです。

 

Huaweiの孟晩舟CFOが公開したこの文面について僕は猛烈な違和感を感じていました。

現状世界で最も影響力のある企業と言っても過言ではないHuaweiのNo.2にして創業者の娘であればいかに莫大な額を要求されても金銭面で困難が生じるとは考えにくい。その人に対して金銭的援助の申し出をすることに合理性はあるのか?と言う疑問です。

 

本質的に懐疑的で皮肉屋な私が彼女の立場であれば、

「どうせ申し出をしても自力でなんとかできる私が受けるはずがないと思って『言うだけタダ』だから言っているのではないか?」

と考えかねません。

 

極論すれば「善意であるだけメンドクサイ」迷惑行為とも言えます。

 

 

本書を読むと、申し出をした(恐らく多くは本士中国人であろう)彼達の心情がなんとなく理解できます。

 

「筋立てて考えればどこか矛盾があろうとも最も物理的にインパクトのある手段で気持ちをあらわすことが大事」と言うのが本書が提示するこうした場面での中国人の思考と行動の前提、だと僕は考えます。

 

翻って私か感じた違和感を解析してみるとおおまかに以下の3点に分けられそうです。

1  彼女の立掲に立って考えると手段がピント外れに感じる。

2  金銭的な援助の申し出は「生々しすぎる」。

3  売名行為、影響力のある彼女の歓心を(結果的に身銭

  を切らずに)買う行為だと誤解を受けかねない。

 

この3点を「量」の理論で解析してみましょう。

 

1 はどの道このケースで「出来ること」の選択肢は限られていることから生じた問題です。国家指導者クラスでも米中両大国の綱引きの過中にある彼女に実質的な便益を図ることは無理筋です。

同情心や支持の姿勢を言葉であらわすだけならそれこそ口先でも出来ることです。

であれば、唯一可能性のある金銭的援助の申し出をすることが「量的」に分かりやすい手段なのです。

恐らく彼女が受け入れれば申し出をした人達はーも二もなく自分の資産規模に応じて適当と思われる額で私財を投げ打つのでしょうし、そうでなければ申し出自体しないのだろうとも思えます。

 

2 はそれこそ「奥ゆかしさ」を是とする日本人のミーム(本書で言うスジの一つ)に則った解釈です。量的に判断されるあの国の社会では「何もしない」ことで評価されることは無いし、むしろ社会全体に関わる一大事では一定以上の資産を持つ人は「何もしない」では許されないことすらあることが事例を上げて本書では解説されています。

 

3  も2と同根ですが、加えて言えば量的な社会では人に好意や支持、関心の高さを示す際にも「量」が物を言うし、量的な手段以外ではそもそも伝わらない、と考えればより理解しやすいかもしれません。

これは日本人の抱える欠点の一つを表しているようにも思えます。「繊細な機微」で気持ちを伝えることには伝える側にも受け取る側にも高い八一ドルが存在します。いきおい「思ってさえいれば伝わる」とか下手をするといつの間にか「面倒臭い」と努力すらしない状態に陥りかねません。

コミュニケーションにおいて「粋」であることを求めるあまり肝心な分かりやすく伝える努力を放棄するとしたら、それはかなり特殊な志向性と言えなくもありません。

 

以上のことを考えると、受け取った側の孟氏も恐らくはこの申し出を心から喜んで受け入れたのだろうとする理解も成立します。

 

量的に分かりやすい支持や同情の表明は彼女に実利的に有効な支援にはならなかったとしても、自分が申し出を受けるだけの関心を持たれているという実感を持つことはできたでしょうし、「敵地」で孤立無縁状態であればこの上ない心理的な後ろ楯にもなったと思います。

 

 

https://gigazine.net/news/20190226-chinese-horror-game-removed-steam/

↑この事件についても、僕の感じていた違和感をそれなりに整理することができました。

 

為政者の容姿をネタにするぐらいのことは裏では国民の皆さんだって日常茶飯事でやってることじゃないのか。たかがゲーム中の「クリエイターのお遊び」の中で政治的な糾弾、批判ですらない「からかい」に過ぎないものに当の本人ですらない国民がサービス停止に追い込む程に感じた怒りの正体とは何なのか?と言う疑問です。

 

それも台湾と言う「外部」から国の最重要人物を揶揄されることは国の面子として許しがたい、自分達がネタにするのとは訳が違う、という本書でも重視されている「面子」の観点から考えれば理解できなくもない。

 

もっとも、ネットの炎上に関する実態の報告を読むと多くの場合極めて限定的な動きが「ネット世論」として大きな「うねり」を形成するメカニズムを持っているようです。ネットの特性はなにも中国に限った話しではないですが、かの国の政治体制を考えれば「くだらない」ことだけに表立って当局が動けばそれこそ面子に関わると言う判断のもと「工作」が行われた可能性も否定できないとは思ってしますけどね。

 

 

本書の難点について言えば、この「スジ」と「量」と言う対比の概念が現状の日中両国の状況をあまりに分かりやすく表現してしまっている点にあると思います。

 

文化論、特に対比文化論において「判りやすさ」は時として思考停止を産み、そこまでいかなくても思考の分解能を下げる可能性は充分あります。

 

例えば今後私が中国人と出会い、人間関係を築いていく機会があれば、本書を読んだ経験は予備知識に成りうると同時に「色眼鏡」の原因にもなるでしょう。

 

本書でも触れられていますが、

「あなたは~人にしては~ですね」

と言うフレーズはある程度心を許し合うようになった異文化人同士で交わされる万国共通どころか時代すら超越した「定番」です。

 

上で僕が試行してみた二つの事象の解釈だって「本当にそうか?」と問われれば心許ないのです。

 

更に言えば、中国が日本の高度成長時代を凌ぐ程の急激な経済成長をを遂げている、しかもその成長は日本のような斬新的なものと言うより破壊的イノベーションを繰り返すことで生じているとすれば、本書で切り出された中国のー面がその時点ではある程度妥当性のある分析であっても陳腐化は想像以上に早いかもしれません。

人口ピラミッドと言う不可避な要因を起点とする歴史的かつ構造的な変動期を迎えている日本についても同じことが言えるかもしれません。

 

また、僕にはほとんど分からない中国のことについて論ずる足掛かりすらないのですが、「スジ」論で分析される本書の日本観には「物足りない」と思う点があり、そうであれば中国についても同じぐらいのクオリティなのかもしれないと言う「邪推」をしてしまいました。

 

それも「分かりやすさ」とのトレードオフと考えればあげつらうことは不適切なのかもしれません。

「そういうもの」として扱えなかったとしたら読む側のリテラシーの問題なんでしょうね。

 

 

色々難癖をつけましたが、僕自身は本書と出会えて良かったと思っています。

 

実のところ、ここ10年ぐらいはアレルギーと言っても良いほどの恐怖感を中国に感じていました。

かの国については人によって前提とする事実まで含めて語られる内容が全然違うことは珍しいことではありません

 

実は僕は20年程前に一度仕事で訪中したこともあるのですが、当時ですら既に過剰に進められていた無秩序な不動産開発ーつ取っても僕にはこんな状況では遠からず実儒との乖離を吸収しきれなくなって破綻するしか無いように思えました。

その実感に従いそれから10年間程は中国本土への投資はあり得ないと思い続けましたが、そんなことはお構い無しに中国経済は伸び続けていると報じられ、僕よりはるかに高い理性を持っているはずの各国の政治的リーダーも、よりシピアに実利を追求するはずの経済人の皆さんも中国経済の成長力を認めている状況に大きな変化は見られません。

会ったのは「役人」ばかりと言うこともあってか、本音で話しをできた感触も無く、結局一次情報として僕の中に残ったのは、「政治上の建前がそのまま真実になってしまう不思議の国」と言うレッテルでした。

 

もっと客観的に見直してみようと思っても統計さえ実態との乖離があることが前提で専門家同士であってもどの程度の乖離があるか意見の相違があるとなれば、もう笑い話と言っても良い話です。

 

影響力のある隣国だけに大量のニュースや個人の体験が日々入ってきますが、人によって前提とする事実まで含めて語られる内容が全然違うことが応々にしてあり、調べる程に「分からない感」は深まるばかりでした。

 

 

当然本書で「わからなさ」を解消することはできません。事情が変わらなければ、これから先も当面その点は解消されないかもしれません。

 

ですが、もっと違う視点から恐怖そのものはある程度解消されました。

 

本書で活写される一人一人の著者と交流のあった中国人には明快な行動原理も少し我々と体系は違えど倫理感もあり、私達と同様に激動する社会に揉まれて苦悩する「人間」です。

 

僕にも少ないながら日本人以外の友人、知人がいます。個人的な経験であり、国を論じるにはあまり少ないサンプルであり、本書を比判した論拠からすればそれこそ色眼鏡に過ぎないのですが、「陽気で合理的で親しみ深い」韓国人の彼や、「引っ込み思案で根暗に見えたけど慣れてくると人懐こい」アメリカ人の彼、「おばあちゃん子で古風な日本人みたいだけど同国人に対しては頑張って陽気に振る舞っている」ブラジル人の彼女の顔を思い出すと、日本の中にも一人として同じ人間がいないんだからというごく当たり前の事実を踏まえてそれぞれの国のことを考えることができている、とまで言い切る自信はないですが、偏った報道や社会の空気の流れで「敵認定」してしまうような暴走は食い止められているし、「瀬戸際」になったとしても僕の内面のその部分は変わらないだろうとも思えています。

 

知らない、判らないことから目を背けることは恐怖を産む過程の第一歩だと僕は考えています。

 

「本を通して知った他人の経験」は充分とは言えないまでも「足掛かり」にはなったのでしょう。

 

僕の「中国恐怖症」は幾分かは和らぎ、同時に無視できない距離感の隣国である以上、より確かな認識を持つ必要性を感じる余裕も持てた気がします。

 

そう考えると、僕にとってのこの本の真価は「一見して判りやすいスッキリさせるための概念」の提示よりも「著者が地道に積み上げた経験と丹念な事例の描写」にこそあったのかもしれません。

見失っていた「己の山道」がチラッと見えた夜の話し。

2019年5月2日。
岐阜市の小さなライブハウス、ClubG。
NakamuraEmiさんのアルバムリリースツアー。
ボーカル、ギター、ヒューマンビートボックスのミニマム編成。

編成やセットリストが同じでもどれ一つとして同じにはならないライブ。もうあの同じ空気を吸うことはできないと思うと少し悲しくなってしまうほど、素敵な夜でした。

https://https://twitter.com/nakamura_emi/status/1123927807665561600.com/nakamura_emi/status/1123927807665561600
http://twitter.com/nakamura_emi/status/1123927807665561600
 
2018年5月22日に同じライブハウスで同じ位置付けのツアーライブに参加したのが彼女が歌う姿を見た初めての瞬間でした。
 
まだ一年経っていないんですね。
 
その時は半分埋まったぐらい。火曜日の夕方と言うこともあって、「こんなもんなんだろうな」と思いつつ、内向的な詞を書く、恐らくは繊細であろう彼女が傷つくんじゃないかと勝手な妄想をしてハラハラしていたことを思い出しました。
 
 
今年に返りましょう。
当日券の販売もあったようなので、「満員御礼」だったのかは判りません。
ですが、その晩の熱気は彼女とスタッフのこの一年の努力がより多くの人に彼女の歌を届けたことを何よりも確かに示していました。
 
客席の変化も大きかったのですが、彼女にも変化が感じられました。
これまであまりなかったコール&レスポンスのリクエスト。MCで客席と対話することで場を暖める手際はこれまでも彼女のストロングポイントでしたが、多分「要求」することが苦手なのかレスポンスをリクエストすることはほとんどなかったように思います。
ラストナンバー「YAMABIKO」ではフロアーに降りての熱唱。ブルーノート名古屋で客席に降りる姿は見ていたのですが、その時は完全着座の「ディナーショー」に近い状況です。実際間近で見ても小柄な彼女がライブハウスの立ち客の中に入るのは勇気の必要なことではないかなと思います。
準地元でGW中と言うこともあって関東圏から遠征してきた「常連さん」もみえたようです。客層に対する信頼感がそうさせたのかもしれません。
 
僕は新アルバム収録曲を製作する過程で彼女自身が強く意識するに至った「自分であることを認め、自分であることを誇りたい」と願う気持ちが背中を押していたんじゃなかろうか、なんて想像もしました。
 
「私がお母さんになったら」
「甘っちょろい私が目に染みて」
「痛ぇ」
中盤に入って新アルバム収録曲が三曲並べられました。どれも彼女の「変化」に対峙する決意が感じられる曲です。
歌い終え、給水インターバルから振り返った彼女の表情は曲から背中を押されたような強い決意を感じるものでしたから。
 
 
カワムラヒロシ氏との出会いはMCの十八番ネタではありますが、この日はいつもより踏み込んでその時の様子が語られました。
 
「私、そういうの騙されませんから」
と氏からの誘いを当初断った様がコミカルに、でもリアルに。
 
それから、現マネージャー氏と出会い、「痛ぇ」で描かれている竹原ピストル氏のテイブに衝撃を受けてメジャーデビューを決意。
 
人に導かれ、決意は後から付いてくる。
野心が無いと言えばそう。
運が良いと言っても良いのかもしれません。
 
人と出会い次のステージに進むことは彼女の内面に変化をもたらしただろうと思います。

でも、変化の前後に書かれた曲を比較しても自分の身の丈のうちにあることしか語らない彼女の姿勢には変化がないように見えます。
 
 
以前の上司がアーティストのライフサイクルについて興味深い自論を語ってみえまして。
自己承認を求めて曲を作り、その飢餓感が共感され、いずれ認められるに従い歌うべきなにかを失って埋没していく。
そうならなかった事例も多くありますが、自分とNakamuraEmiさんを重ね合わせていた当時の僕は、そうなったら彼女はどうなるだろうと思ったことを覚えています。
 
望外な成功が、あるいは理不尽な凋落が訪れたとしても、そしていつか彼女の渇望する何かが満たされたとしても、彼女は自分の身から零れた言葉を拾い、歌い続ける気がします。
 
 
この一年僕は頑張りが認めてもらえなかったり、良くも悪くも誤解されたり、他人から見える自分の像に惑い、気付けば折角掴んだものをいくつも見失っていました。

 

一時期は念仏のように日々唱えていた

「過去と未来と他人は変えられない。

どうにかできるのは自分と今この瞬間だけ」

あれだけ大事にしていた、こんなにシンプルなことでさえも綺麗に頭から消えていました。
 
この日のアンコールナンバーは「モチベーション」。
探し物のヒントをもらった上、背中まで押してもらいました。


手に入れたと思っていたのに失くしてしまったものをもう一度探すのはしんどい作業です。

たどり着けるかどうか、自信はありませんが、とりあえずまた一歩ずつ登ってみたいと思っています。

少しだけ自由になれた僕が改めて「生き辛さ」の正体についてまとめてみようとした話し

40代後半になって急に楽に生きられるようになりました。

そうなれてからも浮き沈みはあるんですが、沈んでいる時も以前とは違うなと感じます。

 

克服?したものは具体的になんだったのか。

ADHDと肥満は大きな要素かなと思います。

どちらも克服したとまでは言えないのですが、このニつと向き合ったことで自分に本当に足りていないものが見えてきました。

 

自己肯定感ですね。

 

自尊心は元から高い方だったと思います。今にして思えばそのことが「正解」から自分を遠ざけていました。

 

 

何か特別に役に立っていなくても社会に存在していても良いんだ。

失敗したからといって存在を否定されるわけじゃないんだ。

 

今の僕が考える自己肯定感は、そんなことを信じられる心持ちです。

 

 

自尊心はと言えば。

 

自分は役に立つ人間だ。

失敗したら取り返せば良い。

 

です。真逆ですね。

 

 

時として、あるいは人によっては全く同義と捉えられる二つの概念。

他でもない、一年前までの自分の考え方はそうでした。

ラベルとして適切かどうかは色々な見方があるかもしれません。

ですが、この二つの概念を区別し、整理できたことは僕にとって大きな進捗だったと思います。

 

 

この気付きは万能薬の処方箋になるでしょうか?

 

以前の僕のような「自尊心マインド」の人はたくさんいます。

社会、特に経済活動を通じた結びつきの中では失敗が地位の喪失に繋がることがあります。

「役に立たない」と誰かを認定することで人はどれだけでも残酷になれる生き物です。

 

 

「生き辛さ」を克服する過程の中で、最初に僕に生じたのは「自尊心の回復」でした。

 

それまで望んでも得られなかった「自分であることの誇り」。それを得た僕は二度とそれを手放すまいと必死にしがみつき、結果として同僚を「役に立つ」かどうかで峻別し、自分の足を引っ張った人を苛烈に糾弾しました。

 

 

気付きを得てから感じたことはもちろん後悔でした。

 

同時に僕にはもうその失敗を取り返すことはできないことも悟りました。

 

僕がしたことはもう消えない。

過去を変えることはできない。

どれだけ真摯に謝罪しても、せいぜい僕の気が晴れるぐらいのことです。

嫌な記憶を思い出させ、不本意にも謝罪を受け入れることを強いることになるかもしれません。

 

過ちを繰り返さないと誓うこともできません。

憎しみはいろんな形を取ってそれと気付かぬうちに心に忍びこみます。

 

人としてこれからも新しいステージに進む中で、僕にできることは「忘れない」ことと「考え続ける」こと。

 

まだ結論めいたことは書けません。

このテーマはこれから先大切に扱っていきたいと思います。

 

 

 

 

追いかけ始めて半年ほど、NakamuraEmiと言う人にまつわることをまとめて書いてみた話し

 
ここのところ嵌まっている者が二つ、ライブ観戦と映画鑑賞。
 
中でもライブは去年までは40年以上生きてきて4回だったのが、今年に入ってまだこれからだけどチケットを確保したものを含めて6回とそれまでの回数を既に凌駕しています。
 
填めてくれたのはNakamuraEmiさん。
 
2月3月、上司が病休、同僚は頼りにならず、苦しい状況を乗り切った時期に彼女の歌に出会い、励まされました。
 
忙しさがピークになったぐらいの時期に、半ばやけっぱちで、その当時の状況では行けるかどうかも判らない中、5月の岐阜ライブのチケットを確保したのがその流れのスタートでした。
 
3月にリリースされたニューアルバム「NAUV」のお披露目ツアーだったわけですが、その後7月に同ツアーの千秋楽である名古屋にも行き、飽き足らずに子どもの頃に連れて行かれた明宝フォークジャンボリー以来のフェスとなる中津川ソーラー武道館にも参戦、10月の3日には名古屋でSalyuさんとのタイバンライブ、そして今日はライブと言えるかは微妙だけどZIP-FMのイベント。20日には独りで行くのはどうかとさすがに迷いながらもブルーノート名古屋の会食付きライブも取ってしまいました。
 
5月以降、岐阜と愛知で彼女が参加したイベントはほぼほぼ制覇している嵌まりっぷりです。
 
 
良い歳してなにやってるの、と言う感想をお持ちの方もお見えのことと思います。
 
なんでか、自分なりに分析してみたら、「ギャップ萌え」ってヤツだったような気がします。
 
 
ライブに行く前の僕が彼女のどこに惹かれたかと言えば、「詩」です。「詞」と言った方が正確なのかもしれませんが、彼女の場合は「詩」がしっくり来ます。
 
特に、今から考えてみると、比較的初期に書かれた内省的な詩の世界に惹かれていました。
 
最初の岐阜ライブ後に書いた文章では大変失礼なことに彼女のことを「自分語りの天才」とまで評しています(^_^;)
 
 
昨年、今年にリリースされた2枚のアルバムでも自分語りの歌はありますが、そこだけに留まりません。
 
最近の彼女のライブでヘビーローテされている曲で言うと、彼女の最初のブレークソングである「YAMABIKO」は実際に出会い取材した年齢、性別も様々な「群像」がそれぞれの夢を目指す様を歌っていますし、「スケボーマン」では夢を諦めて一人前の大人を目指す男の心情を歌い、「波を待つのさ」ではプロデューサー氏でありサーファーでもあるカワムラヒロシ氏の世界であるサーファー目線で詩が展開します。「モチベーション」では仕事への向き合い方という、誰しもが突き当たる問題を軽快に「解決」してみせました。
 
「自分語りの天才」として僕から共感を引き出したのは生きるために社会に揉まれながらも自分の道を頑なに歩む姿を描いた「使命」であったり、独りで生きることの気楽さ、喜びを歌いながら寂しさを吐露する「ボブ・ディラン」であったり、どうしようもなく沈んでいく失恋した自分をいっそ客観的に歌い上げた「台風18号」だったり。
 
最近の彼女が自分を歌った曲の代表格は「教室」だと思います。彼女は、かつて狭い世界の中で萎縮していた自分から身をそらさず、それでいて今の自分が獲得した「自由」を誇らしげに掲げたこの曲をライブのMCでは「みんなのために書いた歌」と表現しました。
 
 
ある意味皮肉というか、僕が足を運んだ岐阜以降のライブでは、一番僕を引きつけた歌はもはやその役割を追えていたのです。
 
辛うじて、ツアーの千秋楽と言うことで全国から集結するであろう、忠誠心の厚い古くからのファンを気遣ってか、名古屋では「使命」を謳ってくれたことが、今考えると僕のような「遅れてきた」ファンに取っては「望外なご褒美」だったかもしれません。
 
 
恐らく、かつて自分の中に閉じこもってひたすら自分を見つめることでその才能を磨いてきた彼女は、その自分の内面を臆せず見つめたその目を他人に、社会に向けるようになっていた。その変化は遅くてとも昨年のアルバムからのヒットナンバー、「メジャーデビュー」を書いた時点では起こっていたと思われます。
 
最初に岐阜のライブに行ったとき、勝手に「内省的」な彼女と、そんな彼女を理解する観衆という図式を思い描き、ライブという内省的な人間には過酷な場所に臨む彼女に勝手に同情し、余計な心配をしていた僕は、「盛大な肩すかし」を喰らったわけです。
 
 
それでもまだ、岐阜はプロデューサーカワムラヒロシ氏の地元で、会場には終始温かな「お帰りなさい」的な空気が流れていたので、ホームグラウンドで羽根を伸ばせたのかな?ぐらいの感想を持っていたのです。今考えると、思い込みと言うヤツは怖いもんだなと思うばかりですが。
 
 
さすがに名古屋クラブクワトロでの堂々たるMCぶりを見せつけられて、僕は自分が勘違いしていたことにようよう気がつきます。
 
 
彼女は、既に次のステップに進んでいた。
 
ライブで僕が出会ったのは、自己実現を果たし、気配りと持ち前の歌唱力でライブという場を支配する力量を手に入れたマスターオブセレモニーとして、観客を鼓舞し、翌日からの現実に立ち向かえるだけのエネルギーをお土産に持たせて送り出す彼女の姿でした。
 
 
そのギャップに気がついたときには、僕はもう彼女の起こす「奇跡の瞬間」に魅了されていました。
 
 
確かな力量を持つカワムラヒロシ氏やサポートメンバーにもり立てられ、毎回彼女は僕の予想を、期待を超え続けています。
 
 
フェスやイベントではリハーサルでも「今夜はブギーバック」から始まる名曲メドレーで少しでも彼女の歌声に触れたいと願う「待ち客」の渇きを癒やします。
 
そこには単なるサービスを超えた、かつて自分を見つめる以外のなにも持たなかった(失礼)人間の純粋な「与えることの喜び」すら感じられます。
 
 
自分の技量でギリギリ、謳いこなせるレベルの楽曲の全てが「ミス」なく演じられる訳ではありません。時としてコンディションが整っていないのかな、と心配する場面もあります。
 
不思議なのは、そんな時でも必ず、「この曲、こんな良い曲だったっけ?」と思う瞬間が毎回あるのです。
 
 
図らずも、「Rebirth」と言う自己紹介ソングの中で彼女自身が「小柄で愛想いい、ベビーフェイス、お陰で優しそう、裏ありそう」と語っているように、彼女の不器用なりの精一杯の気配りは、僕のような皮肉屋の擦れっ枯らしから見ると時として「偽善」の臭いがしたりするものです。
 
結果的に僕が彼女から学んだのは、どこまでも突き抜けていれば、そんな優しさもホンモノになるのかもしれないと言うことかもしれません。
 
 
 
さて、今日のイベントは麻から各アーティストが15分の持ち時間でリレーで演奏する形式です。オープンな客席で、演奏が終わる度に舞台セッティングがあり、彼女自身も企画していたように演奏後は物販を絡めたイベントが組まれていたりするので、「お目当て」のある客は割と頻繁に「入れ替わる」形です。
 
時間が短く、客層も「冷やかし」が多いことを考えると、難しいライブだと思いますが、そんなハンディをものともせず、むしろ地元出身のアーティストよりもホーム感が漂う舞台となりました。
 
それこそ、「良い子」キャラは聞く人を選ぶ面もあるよな、と自分が彼女を評価する気持ちは置いておいて、果たして「一般受け」はどうなのだろうと思ったりもしたのですが、もしかしたら、もう僕のそんな勝手な予想すら彼女は超えようとしているのかもしれません。
 
そもそも、それほどディープに音楽に漬かっているわけではない自分が「気付いた」ぐらいですしね。
 
よく聞く、応援しているアーティストの成長を素直に喜んでばかりいられない微妙なファン心理が、もしかしたら身を持って体験できるかもしれない、なんて思ったりしました。
 
 
で、本日はライブ後にサイン会の権利付きCDの販売というイベントがありまして。
 
天邪鬼な僕としては少々抵抗感はあったんですが、こんな絶好な機会からは目を逸らすことが出来ず、参加して参りました。
 
他のアーティストも楽しめましたが、15分のために雨が降りそうな中名古屋まで行くのかと若干思わなくもなかったのですが、結果として行っただけの甲斐はありました。
 
 
そんな、本日のNakamuraEmiさんとの会話のログですが。
 
サインなんてあっという間だし、当然こちらは「ワンオブゼム」
 
いや、それでなんの問題も無いわけですが、矢張りそれなりに感謝の気持ちとか伝えたいわけですし、「爪痕」を残せたらなーなんて不遜なことも考えるわけです。
 
 
ところで今日の僕は栄のど真ん中とは言え屋外イベントと言うことでmont-bell固めの不必要なまでの重装備。水分難民になることに恐怖心があるので背中にはハイドレーションまで背負っていたりしまして、おまけに隣に座ったお子様から「笠地蔵みたい!」とご好評いただく実際会ったことのある方にはお馴染みのいつものスタイル。
 
 
短い一言二言でも、印象に残る言葉を伝えられたらと色気をだしてそれなりに準備していたのですが、、、僕を見たNakamuraEmiさんが、開口一番
 
「山登りからそのまま来てくれたんですか?」
 
、、、ある意味インパクトは充分でした、、、
 
その展開は予想していなかった僕はしどろもどろになってしまい、
 
「Emiさんの歌には苦しいときに励ましてもらいました。ありがとうございます。」
 
と、恐らくもう何万回と言われていたであろう言葉がやっとで出てくる始末。ショックの余り、
 
「ありがとうございます!」
 
とニッコリ笑顔でサインを書き終えたEmiさんとの握手の感触もロクに覚えては居ないのですが、、、
 
 
最後の最後、これだけはどうしてもと思って、
 
「この前の『Valon1』、とても良かったです」
 
と、ロスタイムに放った一言に、少し驚いたような顔で、
 
「また3人で来れるように頑張ります!」
 
と応えてくれました。
 
 
『Valon1』とは10月3日のSalyuさんとのツーマンライブのアンコールナンバー、Salyuさんのソロデビュー曲です。
 
全く方向性の違う二人、タイバンライブなので共演もあるのかなと思いつつ、どんな形になるか想像も着かなかったのですが、蓋を開けてみれば、この曲本来の歌唱パートの前、イントロからNakamuraEmiさんのヒップホップパートが入り、それがビックリするほどの完成度で、鳥肌ものだったのです。
 
実際、終演後にSalyuさんのファンと思しき二人組が「あの3人(オープニングアクトの桐島のどかさん含めての3人の意)で歌ったの、アレが本来のあの歌なんじゃね?って思うぐらいだった」なんて話しをしていたほどでした。(それを聞いてなぜか鼻高々だった僕、、、
 
 
9月のソーラー武道館のMCの中で、Salyuさんへの思い入れを「初めて聞いたとき涙が止まらなかった」と語ってたEmiさんですが、歳は同じくらいとしても芸歴は3年のEmiさんに対してSalyuさんは10年以上。小林武史氏のプロデュースで華々しくデビューしたSalyuさんと30越えてからのキャリアをジャズ喫茶回りの下積みからスタートしたEmiさん。出身地はEmiさんの厚木に対してSalyuさんの横浜、、、はあまり関係無いか(^_^;)
 
ここまで対照的な組み合わせは珍しいんじゃないか?とも思えるぐらいの異色な組み合わせ。
 
方向性の違いもあって、特にEmiさんにとってはそうは言っても仕事相手としては「やりにくい」んじゃないかな?と勘ぐったりしていたのです。
 
いつものペースと言えばそうなんですが、Emiさん、自分のパートでもオープニングアクトの桐島のどかさん含めて共演者を気遣う発言に終始していましたし。
 
その桐島のどかさん含めて全く同じ面子で2年連続のライブを東名阪の3箇所で、とのことでしたが、今年からのにわかファンな僕としては当時の事情は良く知らないのですが、MCから察するに去年の名古屋ではSalyuさんの調子が思わしくなったとのことで、そのリベンジマッチと言う思いがあったとしたら、モチベーションはSalyuさんの方が高かったのかな?なんてことも思っていたんですが、、、
 
 
あの一言で、Emiさんのあのライブ、共演者に対する思いが伝わってきたような気がしました。
 
考えてみれば、思いが無ければあのバージョンの「Valon1」はあそこまでの出来にはならなかったでしょうし。
 
 
それぞれの立場も、荒波のようなショービズの世界では一年もすれば大きく変わる可能性があります。
 
もしかしたらあの夜のあの「Valon1」は幻としてあの場に居合わせたそう多くは無い観衆の間で共有される奇跡として幻となってしまうかもしれません。
 
 
でも、もしまたあの組み合わせが実現したら、僕はきっと万難を排して奇跡の再来を目撃しに行くと思います。
 
そして、Emiさんにとっては「爪痕」と言えるほどのことはまー無かったでしょうが、僕にとってはあの一言を引き出せたことはサイン以上の宝物になったと思います。
 
 
NakamuraEmiさんが口癖のように言っていることですが、人との関わり以上に素敵なものなんて存在しないと思った一日でした。

認めたくないものを認めた話し

ここ2ヶ月ほどで急激に近くのものに焦点が合わなくなっておりまして。

視力で苦労した経験が無いこともあって、これがかなり応えておりました。

折角回せるようになった仕事も、能率が落ちてしまっている感がありますし、なにより書き物が捗らなくなってきたり。

 

年齢考えてもコレは例のアレかなーと思ったりもしていたのですが、いや、こんなに体鍛えて血流アップにも努めているし、そんなことに負けるわけにはいかない、なんて思い直したりで。

 

7月に入ってからは毎晩冷凍ブルーベリーを食したり、「最後の抵抗」をしていたのですが、意地っ張りな僕も心が折れてきました。

 

焦点が合わないのでしかめっ面が多くなってただでさえ悪い人相が更に、、、

 

なにより、活字を読むことが一番のストレス解消、その次が自分で書くことなのに、どっちも封じられてしまって、これは自分でも自覚できないほどのストレス要因になっていたのかなと今振り返ってみて思ったり。

 

さらに言えば、アレだって思っているけど、実際こんなに見えなくなるものなのか?もっと網膜剥離とか、今年は仕事も含めて外に出ることが多かったし、紫外線対策はしていたつもりだけど防ぎ切れていないから結構な頻度で「雪目」に悩まされていたし、なんて余計な心配までするようになってしまって。

 

認めてQOLが上がるなら認めた方が合理的じゃない?ってやっとそんな結論にたどり着いた訳です(^_^;)

 

で、本日職場の誕生日休暇なんて制度を利用して、恵那市内で多分唯一の眼科専門医に行ってきたわけです。ちなみに誕生日休暇は通称で、正式には「健康管理の日」という制度だそうで、まさに理念通りの使い方と言えるでしょうか。

 

閑話休題

 

平日の朝一に受付したんですが、たいした斑状具合で、それでも1時間弱の待ち時間で診てもらえたのですが、

 

結論はアッサリ「老眼」で確定。

 


想定通りの答えが返ってくるだろうなと思いつつ、

 

「眼鏡かけると進行しませんか?」

 

「それはないです」

 

とお約束?な会話を眼科医さんとした後、実際に眼鏡の処方用の調整は医師では無さそうなどんな立場かよく分からないけどワラワラと沢山見えるスタッフさんの一人と。


「あまりきっちり合わせた眼鏡作ると進行したときにすぐに合わなくなります。

四十代後半なら自分である程度焦点を合わせることも出来るのであまり近めを基準にしない方が良いですよ」

 

なんて説明を聞くとナルホドとは思うんですけど、さっきのお医者さんのきっぱりした断言とは微妙に矛盾があるんじゃない?と感じたりもしましたが、、、

 


その後、お休みを最大限有効利用するべく、眼科医院と棟続きの眼鏡屋さんで結局都合二時間ほど居座り商品知識を根掘り葉掘り聞きまくり、フレームのフィッティングを20本ほどあーでもないこーでもないとしまくって結局少しお高めのを買ってしまいました。

 

量販店で買った方が確実に安くはあがるのだろうけど、ちょっと説明の過剰な、僕のしつこい根掘り葉掘りに喜んで反応してくれた「眼鏡愛」の感じられる店員さんがいたので信用代としては妥当かな、と。

 

これからは「仕事道具」と言っても過言じゃ無い、自分の生産性に直接関わるパーツになるわけですしね。

 

実際眼鏡屋さんで色々聞いたり見たりする前は、描けたり外したりが多くなることを見越して付け外しのスムースさを第一基準にしようかとボンヤリ思っていたんですけど、結局ちょっとカッチリ目の付けているときの安定感を重視した選択になりました。

 

その眼鏡屋さんの品揃えがたまらまそうだったのかもしれないけど、眼鏡のフレームって商品の価格帯で似たような付加価値が着いていくものかな?と想像していたんですが、実際はメーカーごとの思想の違いが大きくて面白かったです。

 

無駄に?眼鏡を沢山持っている人を見かけますが、その気持ちがちょっと分かる気もしました。

 

ちなみに私が選んだのはマルマンのDarwiinというブランドです。

 


出来上がりは1週間後になるそうです。

 

正直、納得ずくで選んだのですが、実は「商談成立」後に機構的に折りたたんでも割と嵩張る、つまりケースが大きくなることが判明してしまい、折角ここ最近で普段持ち歩いて無くしそうなものの定位置が整理できたところなのに組み直しを迫られそうなのが頭の痛いところですが、掛け心地を重視した結果なのでそこは目をつぶることにしました。

 

またストレス無く読んで書けるようになるかもしれないと思うと、届くのが待ち遠しいような、ちょっとしたワクワク感があります。

 

願わくば、この出会いが末永いお付き合いにならんことを!(^_^;)

思わぬところで熱い人に出会った話し

6月の下旬頃の話になるので、もうそろそろ二月も前の話なんですけど。

 

隣町との間にある細い道を車で走っていたらちょうどタイヤがはまり込むぐらいのサイズの陥没がありまして。

 

ヤバイと思ったんですけど、細い道が更に細くなっていて、割と道の真ん中にあったり、日も陰ってきていて気付くのが遅かったりして除け切れずに嵌まったらタイヤがパンクしましてorz

 

で、翌日に中津スバルでタイヤを買うことになったわけです。

 

 

僕が乗っているR1はサイズも特殊なんで取り寄せになるかなと思ったんですけど、その日のうちに換えてくれることになったのは良かったんですが、結構時間がかかりまして。

 

その日はフェアみたいなことをやっていて整備部が忙しかったのかもしれません。

お昼の0時半ぐらいから作業終わったと連絡頂いたのが多分2時半過ぎくらいかな。

 

ただまあ、色々催し物もありまして、勿体なくも社長さんに運転席に座って頂いて直々に解説していただきながらのeye-sightの体験とかもさせてもらったり。

 

その催し物の一環で「望遠鏡の使い方講座」なんてのもありまして。

 

なんでディーラーで望遠鏡?社長も個性的な人だし、お友達なんだろうか?なんてちょっと遠巻きにしていたのですが、催し物も一巡してしまって、ちょっと時間潰すのが辛いぜ、隣のファミマで立ち読みでもしていようか、なんて思っていたときでしたから、居場所があるだけでも良いかなと思って話しを聞き始めたわけです。

 

で、聞いてみたら小さな望遠鏡メーカーの社長さんで、内容は自社製品の使い方なんですよ。SUBARUが自社ブランドイメージ構築の一環としてアウトドア系グッズのメーカーとタイアップしてSUBARUブランド付けた商品を出したりしている、マウンテンバイクとかその一環として、共同開発製品だしているみたいななんですね。その縁でってことらしいです。

なんで中津スバルで望遠鏡?の理由は判ったものの、天体観察に興味があるわけじゃなし、その上自社製品のCMかーと、

「ヤラレタカ?」

なんて一瞬思ったんですけど。

 

さすがにその場で売りつけられることもあるまいし、どうせ時間つぶしなんで内容はどうでも良いかなーと思って大人しく聞いていました。

 

 

望遠鏡の使い方といってもそうそう時間を使えるほど複雑なことがあるわけでもなく、特にその人が説明に使っていたのは1万円台の自社製品の中でも一番シンプルな子ども向けのモデルでしたし。

 

メッチャシンプルで、これ、実際見たいものが見えるのかな?と思ったりもしたんですけど、その本筋の部分だけで言うと、

 

1 スマホのアプリに良いのがあるので目的の天体物がどこにあるのかアプリで探します。

2 おおよそ位置が掴めたら銃眼のような肉眼で位置合わせする機構があるのでそれ使って合わせます。

3 台座は割と安定しているので肉眼で合わせたそのままずれないようにレンズを覗き込みます。

 

と、手順もシンプルで、当然本筋部分だけだとすぐに終わってしまう。

 

参加者全員、昼間なので天体とはいきませんがちょっと遠目の目標物に照準を合わせるところまでやっても20分ぐらいのものでしょうか。

 

で、なんとなく場は暖まってるけどもう終わり?みたいな感じになってしまって、そこから社長さんはパソコンの中に蓄えている写真ネタにしたり、自分の持ちネタ持ち出したりしてそれこそ場つなぎというか、時間つぶしを始めたわけです。

 

 

そしたら、まあそっちの方が面白くて。

 

小さな会社の社長さんが自分の仕事に熱を持っているって言うのは当たり前のことではあるんでしょうけど、望遠鏡に対する哲学まず熱い。

 

子ども向け製品だからこそ、子どもが使えるシンプルなもので、可能な限り安く、でも本質的な部分にはしっかりお金をかけて、安くても「ちゃんと見える」ことを大事にしている。

 

本質的な部分というのは、例えばレンズの光学性能だったり、筒内部の処理をしっかりして内部で光が乱反射しないようにしたり、シンプルで子どもが持てるほど軽いけど、一度合わせたら微妙にズレたりしない台座だったり。

 

ホームセンターには下手すると1万円を切る、もうちょっと外観がカッコイイ製品もあったりするし、例えば判りやすい「倍率」みたいな数字でアピールしていたりするけど、望遠鏡には性能のバランスの良し悪しがあって、倍率が高くてもレンズの性能が伴っていなかったり、筒内部の処理がしていなくて見たい天体の発する光以外の光が乱反射してしまってハレーション起こして見えにくくなってしまったり、台座の固定がお粗末だと目的にたどり着いて観察するところまでの手順が実用的と言うか現実的じゃ無くなってしまったりなんてことも。

 

と言うような話しから

 

そもそも子ども用に拘っているのは小学生時代に学校の近くに望遠鏡メーカーがあって、生徒に本格的な望遠鏡の貸し出しをしてくれたことや、その経験から同級生の中から色んな道で宇宙に関わる人材がでてきたことがあって、そういう環境を作りたかったから、とか。

 

長野県の天文台から処分を依頼された古い望遠鏡が「伝説の名人」が磨いたレンズと、戦後に航空産業が禁止されたことでダブついて出回ったジュラルミン素材を使った「逸品」であることを見抜いて、レンズだけ転売しても結構な利益が出るはずだったところ、利益度外視でその望遠鏡を「再生」したエピソードなんてのも。

 

連載(2)【1万円で買える天体望遠鏡】比較レビュー | 天リフOriginal

 

長々書いてきましたけど、その人、↑ この記事で一番良いよってお薦めされている製品のメーカーの社長さんでした。

 

「火星の接近」なんて天文イベントがあった影響でここしばらくは転売屋の皆さんしか取り扱っていなくて10倍以上の値段で出品されていたりもしたらしいです。

 

実は話しを聞いてからああいう話しだったけど、実際の望遠鏡界隈の状況はどうなん?と思って自分なりにチョロッと調べたりしたんですが、結構低価格でも日本のメーカーもあって、中にはスマホで見たい星をスマホで制御してくれる、なんて製品もあったりするみたいです。

 

そんな市場環境の中、例えばAmazonに掲載される商品スペックとしては特に「これが売り」と思える表記もない商品が天文界隈の実際使っているユーザーに支持されて、イベントが発生したときには鼻が利く転売屋の餌食にもなるのも、ある意味価値を認められている証拠かな、と。

 

ぶっちゃけ、こういう製品の価値は実際自分が「外れ」を引いた経験が無いとなかなか計れないものかもしれません。言うても低価格な子ども向け製品ですから、「見える」ことが当たり前だと思えば、他の製品を見たときに「ちょっと足せばあんな機能もついているんだな」なんて思ったりもするかも。

 

なんて、色んなことを考えつつ、私も正直「買ってみたいと思うけど、実際使うのかなー」なんてことも思ったりして躊躇っていたんですが、一度在庫が捌けてしまうと「買っとけばよかったorz」感に苛まれているところです(^_^;)

 

シンプルな商品でもスマホのカメラを繋げるアダプター(別売りオプション)もあって、お手軽に月の写真なんか撮れるそうです。届いたらその辺までは試してみたいなーと。

 

 

そろそろ小学生になる姪もいるので、今のところは自分含めて周囲の大人から無尽蔵に買い与えられたオモチャでチョコッと遊んですぐ飽きちゃうみたいなことを繰り返している彼女に、リアルな経験をすることやホンモノに触れることの楽しさを味わう一つの機会を提供できればなーなんて夢想したりもします。

 

まだ早いかもしれないですけど、いずれそういう興味が湧いたときに「安いけどちゃんとつかえるのもあるし、使い方も教えてあげるよー」と言えるぐらいにはなっておきたい、なんて(^_^;)

 

と言う訳で、早く在庫が復活してくれないかなーと指をくわえていたりするのでした。

 

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「万引き家族」を肴につらつらと書いてみた話し

友人に勧められまして。

もちろんパルムドールを受賞したことは知っていたんですけど、普段あまり「地味な邦画」は見ない上に、受賞作とか話題作もスルーする方なので、そんなことでも無かったら見なかった可能性はあります。

で、勧められた時点で土曜日の夕方過ぎで、ここのところ映画を一緒に見に行くことが多い人を誘うには遅い時間だったので一人で行くことにしました。

来週にしても良かったんですけど、自分の中で「宿題」になってしまいそうで積み残ししたくなかったんです。

結果的に独りで見て良かったと思います。

 

見終わってから独りで熟す必要のある映画だと思います。

まだ見ていない人、これから見る人はこれ以上読まないでください。

自分なりに考えて納得がいったら振り返ってこの文章を読む必要は無いと思います。

そんな映画でした。

 

少なくとも、僕にとっては感動する映画でも、答えが見つかる映画でもありませんでした。

数カ所で泣きそうにはなりましたが、それは特定のシーンや台詞が「記憶」に触れたからです。

 

見終わった後は、不思議な感覚に襲われました。

映画を見終わって、これほど心が静かだったことはなかったかもしれません。

お題を出されたような、自分なりの答えをここから導き出したいという思いだけがありました。

不思議な映画です。

 

実験、シミュレーションという言葉が一番ピッタリくるかもしれません。

家族を語ると言うことは、必ずそこにまつわる前提条件がつきまといます。

どんな家族を語ろうが、必ずそれは「特殊事例」を語ることになります。

では、一般論を語ることが困難な、そんな家族というものを「構造解析」するにはどうしたら良いか。

赤の他人同士を家族という枠組みに「仮組み」してみたら?

そんなシミュレーションです。

 

自分では家族を作ることが能わない、「傷物」達が、自分の願望を叶えるという自己中心的な動機で「必要なピース」を取り込んでいきます。

取り込まれた側も、「足りない」存在です。お互いを埋め合う、そのためだけに作られた人工的な関係性は、、、

 

結果として、「優しさ」と「思いやり」が充満する家族を作り出しました。

「自分もこの絆の中にいることができたら」、「この夢が終わらないでいてくれたら」、と思う瞬間がありました。

 

でも、その仮組みは成り立ちから壊れることが織り込み済みでした。

綻びはそこかしこに見られ、シナリオのような「偶然」がトリガーにならなくてもいずれ崩壊していたことは明らかでした。

実際、映画を見ながら「最悪の後味」を想像してショックに備える癖のある僕は鑑賞しながらいくつもの「伏線」を想定してもっと後味の悪い崩壊のシナリオをいくつも考えついていました。

 

「優しさ」と「思いやり」で充満した、と表現しました。

逆に言えばそこにはそれしかありませんでした。

 

「正しさ」も「前向きさ」も、なにより「未来」が、そこにはありません。

「家族」の構成員はまるで家族を維持することが全てに対しての免罪符になるかのように、「悪行」を社会に振りまきます。

なんの罪も無い、或いは、時としてそんな家族にすら善意を示す人達にまで。

 

悪行は外に向けてだけには留まりません。

「群れ」から脱落した家族は、躊躇いなく、とまでは言わないまでも、切り捨てられます。

最初から居なかったかのように忘れる。そうする以外に、この脆弱な「仮組み」は維持することすら出来なかったのです。

 

では、この泡沫の夢はただの気休めだったのか。

現実逃避の器でしか無かったのか。

そうではないと思います。

 

死ぬことで破綻の端緒となった「祖母」は「孫娘」に添い寝されながらこの世を去る、と言う望外な望みを果たします。

 

他のメンバーも、この「巣」の中で傷を癒やし、未来に目を向けます。

 

幼い身で虐待癖のある両親の元に戻されると言う絶望的な状況に取り残されたように見える「末娘」ですら、洋服を買ってもらうこととバーターで「飼い慣らされていた」母親との関係性を組み直し、自分の人生を歩み出した様子が暗示されます。

 

ただ一人、「父親」は、恐らくはこの家族が続くことを望み、果たせないことが判ってもその思いから離れられないでいるように思われます。

僕は「父親」はそうであることで一定の役割を果たしていると思います。

 

「父親」の心の中に「家族の絆」が生きていることで他の家族は安心してそこから離れることが出来ます。

 

罪を被り獄中につながれた「母親」はためらいなく夫に負っていた「債務」を完済し、次の一歩を歩む準備を整えました。

 

最も未来に近い存在でありながら絆の深さから離れがたくなりえた「長男」もまた、絆を預けて前を向くことが出来たのだと思います。

 

そして、当の父親も恐らくは「浸り」ながらものらりくらりと彼なりの現実を生きていくような気がします。

 

そうか、ここまで語ってようやくあの謎の後味の正体が判りました。

一見悲劇であるこの物語で、実は不幸になった人は一人もいない。

少なくとも、僕に取ってはこの物語は「ハッピーエンド」だったんですね。

 

さて、ではこの映画が語りたかったものは一体何だったのでしょうか。

見る人間が誰一人として同じ家庭観を共有していない現実を考えれば、ただ「考える材料を提供する」ことが目的だったのかもしれません。

是枝監督のことはよく知りませんが、受賞に際しての各所でのインタビュー等からそう考えてもおかしくない謙虚さと思慮深さを感じました。

 

それでは、他ならぬ僕はどう考えたか。

僕は、この映画がパルムドールを獲ったことこそが救いだと感じました。

多くの人がこの映画の提示した枠組みを理解したのです。

家族というものが、本質としていかに理不尽で、不完全な存在であるのか。

多くの人がそのことを認め、あるいはこの映画を観て気付いたわけです。

僕は一人ではなかった。それどころか、少数派ですらなかった。

そして恐らく、僕が「加害者」と目していた人も、人間が背負った家族という業から逃れることができなかった被害者の一人に過ぎず、僕自身立派に加害者であった。

その気付きは、僕に取っては一つの救いになりました。

宿業である家族という絆を、多かれ少なかれ人は背負っています。

僕は、どこかでその業を「再生産」してしまうことを恐れていました。

ですが、同時に、人間はどれだけ強がっていても独りでは幸せになれないことも学びました。

それこそ、この映画が示してくれた物の一つは、優しさ、思いやり、の持つ「凄味」です。

ただ認められ居場所を与えられることで、どれだけ人はたくましく、力強く再生するものなのか。

フィクションの中で描かれたその姿に共感できたのは、それが自分のこの数年の経験とも重なったからでもあります。

試してみても良いのかな、と。

その答えは短絡的に出せるものではありません。

ですけど、そうする価値はあるのかもしれないと、今はそう思うようになっている自分がいるような気がします。