読書感想文「非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か」について

 

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個人的に共感する部分が多すぎてまともに線引いてると線の意味が無くなりそう(全部引いちゃいそう)だった。

ま、実際のところはこの人は私より若いし結婚して息子さんも見える。

ん?じゃあこの人はかつての誰にも相手にされなかった自分を回想しつつこの本を書いていたのか?と思われるかもしれないが、そんなことはない。

 

うん、そこがよく分からないのだ。

渇望があればこそ、少なくとも子をなすまでの一通りのプロセスは経験しているのだから、そのことへの言及があったって良いと思うのだが、少なくとも自ら経験したはずの恋愛のブライトサイドへの言及が一切見当たらない。

 

筆者の私生活として登場するのは体の弱い息子を主夫として育てるところぐらい。

大多数がモテない男性であろう読者に配慮して敢えてそういう構成にしたという訳でもなく、恋愛しても結婚しても拭い去れない自分の男性性への嫌悪が本書の大きなテーマだったりするのだ。

 

ん?それってトランスジェンダーであることのカミングアウトってこと?

 

いや、違う。筆者はヘテロセクシャルであり、日本社会の権勢的マジョリティである男性であることを自覚し、ジェンダー研究家らしく自分の性意識のスペクトラム性については赤裸々に認めてはいるものの、そもそも筆者が嫌悪する自分の男性性というものは、むしろ社会からマジョリティとして恩恵を受けているグループの一員であることも含めてその存在についての嫌悪感だとまで説いているのだ。

 

つまり、モテようが、結婚しようが、父親になろうが、その感情とも衝動ともつかない想いは消えないのだ。むしろ、恐らくそうしたステップを踏む度にその想いは新たになっているのかもしれない。自己免疫不全で自らの免疫機構に日々体を蝕まれているような状況が心理レベルで起こっているとでも言うか。

 

それでいて、この人は私よりずっと「当たり前の男性」としての人生を歩んでいる。

 

そういう筆者に共感している自分がいた。

 

いや、どうだろう。本当にそうなのか、よく分からないのだ。

 

例えば、私は今住んでいる町にたった一人中学時代からの同級生の友人がいたのだが、過去形なのは今彼とは絶縁状態だからだ。

きっかけはある晩一緒に飲んだときに、彼にいかに世界は男性的な暴力で満ちていて、生々しく、そこには本来理想主義的なものは理念でしか存在しない、なんて説教をされたからだ。

そういう説教をするからには、私は現実を見ずに理想ばかりを語り、故に現実を生きる力に乏しい。そう心配されていた、と言うことなのだろう。

 

私は現実を知らないわけではない。

一通りのことを知ることがまず人間として生きる上で必要だと思って、えり好みせずに情報も経験も摂取してきたつもりだ。もちろん、一人の人間として生きる上での限界はあるので、その内容は全てと言うには乏しく、偏ってもいるだろうけど。

ただ、そのかつての友人が語ったレベルのことは既知のことであった。

私が彼の説教に激怒したのは、その内容が私が嫌悪することだったから。その一点に尽きる。

この世に嫌いなことなんて山ほどあるけど、嫌いだからと言って避けて人生通れるわけじゃない。実際苦い物を呑み込むような経験はいくらでもしてきた。

ただ、理想として持ってるものまでその苦い物に合わせなきゃいけないのかと言えば、それは違う。

だから、多分、私はあの晩、その元友人に思想的にレイプされたような気持ちになっていたのだろうと思う。実際、その友人も私と大して変わらない弱虫の善人として生きてきたはずなのだ。嫁さんとは大恋愛の末結婚したようだけど、それこそ棍棒で殴って気絶させた奥さんを髪の毛引っ張って自分の洞窟に攫ってきた訳じゃ無い。むしろ、頭が割れるほど相手のことを考えてそこまで行き着いた、というのが私の見解だ。

 

もしかしたら、あまりの私のモテなさを心配してのことだったのかもしれない。

いや、まあ多分そうだろうと思う。

私はスペックにしてはモテなさすぎだと思う。

 

背は低い。(163cm)

今は標準と言っても嘘じゃ無いレベルにサイズダウンしているが人生の大部分は肥満として過ごしている。

酒癖が悪い。

ADHDだ。それに付随するいろんな欠点がある。人の話を聞かない。片付けられない等々。

うん、まあモテなくても不思議というほどでもないかな。

 

一応正職員として働いているし、勤務先は地元の中では良い評価を受けていると思う。

顔は自分で言うのもなんだけど、平均を大きく下回っているわけではないだろう。ここは個人の趣味が大きく反映されるし、だとしても万人受けするとは言わないけど。

 

ただ、モテないのはそれが原因なのかとか、そこをどうにかしたらモテるのかと言えば、そんなこともない、と思う。今「そんなこともない」と書いた瞬間、それは本当はどうなのだろうと考えた。もしかして、世界は私に何かを隠しているのかもしれない。

自分は知らないだけで、自分が抱えている恋愛に対するビジョンなんて童貞の空想ぐらいにしか存在しない物なのかもしれない。

 

 なんて、人(著者)のことは散々言ってるのに自分についてはこんな思考しかできないからダメなんだよね、、、

 

というわけで、あるべくしてモテないだけなんだなーと気付けたことが本書を読んだ収穫、、、なんて話になってしまいましたorz

 

モヤッとしたけど大事なことはそこじゃないかもしれないと思った話し。

こんな幟は東濃地域にしかないかもしれなくて例えば岐阜辺りの人は、「え、連中そんな不届きなこと考えているの!?」的にビックリするかもしれないのですが、どういうわけか昨年末辺りから割と頻繁に見かけるようになりました。

多治見の辺りだとどうなんだろう。最近ご無沙汰なのでその辺よく分かりませんが、少なくとも瑞浪辺りぐらいまでは結構みかけますね。



何を隠そう、私は東濃独立主義者です。

 

県都岐阜市の人達はヘタすると東濃のことを飛騨より遠い存在だと思っている節があります。私の感覚では行政資源の割り振りという点で東濃は割を喰っている可能性すらあるんじゃないかと思っていたり。

 

なんでそうなっちゃったのかと言えば、一番大きいのは近代化の過程で「大動脈」が美濃に向かう中山道から国道19号、中央道、中央線と名古屋に向かうものに切り替わっちゃったことでしょうね。まあ、そうなったのは中山道華やかなりし江戸時代から尾張との縁が強かったからなのでしょうけど。

 

東濃は尾張と木曽を結ぶ線上に位置します。木曽は木材供給地であり、木曽川の上流地としても尾張にとっては生命線と言ったらオオゲサかもしれないですけど、かなり重要な「植民地」でした。

 

当然、当時から下街道である中馬街道、木曽川の水運と言った尾張と木曽を結ぶ交通網も中山道と並列して栄えていたようです。中山道が幕府お抱えの官営街道として手厚い制度的財政的庇護を受けていたことを考えれば尾張との結びつきはより経済面での繋がりに依っていて、その分根強いものだったのでしょう。

 

一筋縄じゃいかないのは、じゃあ東濃は尾張の一部だったのかと言えばそうでもなかったと言うこと。江戸幕府の基本方針と言えば特定の藩のパワーが突出しないように「出る杭は打つ」。御三家の一角でありながら宗治の幕府との対立や、御一新の際には実質的に幕府に引導を渡す役割を演じたことから考えると、幕府にとっての尾張藩はある意味加賀藩等と並んで、或いはその血筋への遠慮からより「難しい」存在だったことは想像に難くありません。と言うことで、東濃地域と言う江戸と京の間を結ぶ中山道の要衝地でこの「難物」が突出しないように慎重に「モザイク」状に天領岩村藩、苗木藩や旗本領と雑多な勢力が配置されました。かの島崎藤村の長編小説「夜明け前」にも、幕末当時の馬籠宿が木曽福島の代官(幕府役人)と尾張藩主という二つの主をいただく複雑な立場だったことが描かれます(つまり佐幕派倒幕派の筆頭格の股裂状態)。

 

明治以降も名古屋県配下だった時期があったりと腰の据わらない状況が続いたこともあり、元々同じアイデンティティを共有していたわけではない東濃地域の人々は自分達は何者かと問われれば、今の市単位よりも小さな町村単位で地域的なアイデンティティを主張する傾向にあるのではないかと思います。

 

結果として東濃の住民の「岐阜県民」と言う自覚は恐らく岐阜県の中で一番薄いのではないでしょうか。この点、より地理的な隔絶感の高い飛騨地域の人達がむしろ岐阜県の行政資産に対する意識が強いことと対照的な気がします。

 

 

さて、話題をご当地ナンバーに戻します。

 

 やっと時代が私に追いついてきたか、と思っていると思いきや、実はこの流れにはちょっと当惑気味だったりします。

そもそも「東美濃」とはなんぞや。

ってヤツです。

飛騨川の東側はもう美濃じゃない。むしろ今中濃って言われている辺りが東濃でいいんじゃない?なんて思っていたり。

それ以東はじゃあなに?と言えば、立派な歴史的アイデンティティを表す地名があるじゃないですか。

「土岐」です。最盛期には美濃、尾張、伊勢の三か国の守護大名を努めた土岐源氏縁の地名(実際は土岐氏が所領である土岐の名をいただいたのですが)であり、現在でも多治見市の市章に桔梗の紋があしらわれ、土岐市はモロに地名に土岐を冠し、瑞浪市はそもそも土岐氏の本拠地一日市場が所在するホームタウンです。

 


が、そうは言っても「土岐」の名が弱いのは恵那以東は「恵奈郡」というまた別の由緒ある地名を与えられているからです。

ちなみに恵奈郡は平安期以降に分離するまでは木曽を含んだ広大な地域を表す地名だったようです。恵那と伊那は兄弟地名って言う説はこの近辺の地方史を当たるとまず最初の数章の中に見つけることができます。


というわけで、些かモヤッとする部分は残るのですが、現在の状況を考えると、土岐と恵奈を別々に考えてしまうと地域アイデンティティを主張するには規模の点で些か弱くなってしまい、比較優位な土岐の地名を持ち出すのはこれも由緒ある恵奈の地名への配慮を欠くと考えると、他に適当にこの地域を言い表す言葉が無い以上、「東美濃」という旗印を受け入れざるを得ないのかな、、、等と思ったり。


いずれにせよ、この地域は、いわゆる「美濃」とはまた異なる道筋の中で育まれた風土を持っており、地理的、文化的、交通網的に「隔絶」されているが故に岐阜県にあっては冷遇されているこの地域が、地域アイデンティティの醸成を模索し始めたことはやっと始まった必然的な流れであり、東美濃という名称には「なんじゃそりゃ?」と思いながらも、そこで立ち止まって名前争いをするよりは取りあえず結集することが大事なんじゃないかと思ったりするのでした。

君子じゃないので危うきについて嗅ぎまくってみた話し。

 

アフター・ビットコイン: 仮想通貨とブロックチェーンの次なる覇者

アフター・ビットコイン: 仮想通貨とブロックチェーンの次なる覇者

 

とても参考になりました。

 

ビットコイン投資をするために読み始めたと言う訳ではなくて、多分否が応でもこれからも存在を意識しなきゃいけないものについては一応自分なりの立場を固めておかないと不安になる、という自分の「ビビりな習性」を満たしたしてやるために、ですね。

 

もちろん読んで「これはいける」と思ったら投資自体には抵抗感が全くと言って良いほど無いので行っていたと思いますけど。

 

私は本書を読んで「いかない」ことを選択しました。

ま、今の時点で参入しようと思う人は、、、いるかな、、、、いるかもしれないですね。

 

当初は「未来のお金」という響きそのものが魅力だったと思います。それこそビットコインで個人がPCの空き時間にマイニング出来ていた時代にその存在について認識はあったし、マイニングという行為そのものについても一応調べたりしたんですよね。

 

それでも私が知った時点ではもうアーリーアダプター達が通り過ぎた後というか、空き時間にマイニングする程度だと電力消費に見合わないと言う話になっていて、ならいいかとスルーしちゃったんですよね、、、

 

と言うわけで、ここ最近衆人の目にも入るようなメジャーイシューになって当時採算度外視で手を出していれば、、、と歯噛みした、というのも本書に手を伸ばした理由だったりします。

 

 

現状を考えると、、、奇妙な展開ですよね。

 

今となっては本質について理解していない人でもとりあえず「バブル」であることは理解した上で、そこにのっかるかどうかをベットしている状態、でしょうか。

 

タイミングが合えば確かに勝ち抜けできるんでしょうけど、サスガに今からだとかなり分の悪い勝負になると思います。

 

その理由についてはクドクド述べるよりも本書を読んでいただいた方が早いんですけど、僕なりの理解をサラッと述べれば、

決済手段が存在意義なのに現状では金のような「代替資産」になってしまっていてそこから抜け出せない状況に陥っている(価格の乱高下と大部分を極めて少数者が保持してしまっている状況などから)

・かと言って金のようにそれ自体に価値があるわけでもないし、法定通貨のように裏書きしてくれる後ろ盾があるわけでもない。

 

と言うわけで、土地や株のバブルよりも遙かに判りやすくダメな子だと思います。もちろんタイミング次第であぶく銭を掴む可能性は十二分にありますが、もろギャンブルですね。

 

 

本書の優れている点は、ビットコインアルターコインの動きとは切り離してブロックチェーンという技術そのものを現状を踏まえた上で冷静に評価しているところですね。

 

決済手段としてのブロックチェーンは確かに未来を切り開く可能性を持っている。だけど、その点ではビットコインも大部分のアルターコインも「失敗作」であり、未来の通貨を担う種子はもっと面白みの無い各国の中央銀行や既存の銀行間ネットの中で粛々と育まれていていずれ芽をふいて我々の生活を潤してくれますよーというところまで語ってくれます。

 

ま、ビットコインに纏わる夢やロマンの破壊者という評価も出来る訳で、この本を読んだら不快に感じる人は多いだろうとも思いますけどね。

群れを作れない家族は電気犬の夢を見るかどうか検討してみた話し。

www.itmedia.co.jp

去年飼っていた犬が逝ってしまい、1年あまりその犬の世話で拘束され続けた私としてはホッとする面もあったのだけど、それこそ猫かわいがりしてその犬をスポイルしていた父なんぞはかなり心に痛手を負っていて、時折母との会話の中で「次の犬」の話が出たりする。

ま、次の犬は飼った瞬間から実質私が世話をすることになるので実現可能かどうかは置いておいて話をすることで寂しさを紛らわすという面があるのだと思うが、「毛が抜けないからトイプードルが良い」なんてやけにリアルな話がでたりして(ヲイヲイ、その話を私抜きでするのかよ)と思ったりしてドキドキするのだけど、そもそも私を交えずに話をするのは交えた時点で話があまり楽しくなくなってしまうことが判っているからなのだろう。

私も犬自体はもちろん嫌いじゃ無い。個人的には猫でもいいんじゃないかなーと思うぐらいでそれほど犬そのものに拘りがあるわけじゃないのだけど、動物が身近にいる生活は良いだろうなとは思う。

ただ、父がすっかりスポイルしてしまった犬をそれなりに叩き直した経験から、犬は猫かわいがりして良い存在じゃ無いことは学んだし、どれだけ人間ライクに生きるように進化しても犬はやはり犬で人間とは違う倫理、命題、ロジックの中で生きていることも嫌と言うほど認識できてしまった。つまりは、犬と暮らすことは楽しいことばかりじゃ無いってことだ。

 

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↑どれほどの頻度で起こっているのか、起こっても積極的には報道されないだろう、こんな事件が起こったりする、なんてこともあり得ることだなと思う。

 

 

愛犬を人間世界のコードに沿った存在でいさせることは、愛犬そのものに期待するべきことでは無くて、飼い主の責務なんだと思う。

 

人類の中でも深く犬と関わって暮らしていると思われるイヌイットの人達が過酷な環境の中橇を引かせる犬を弱ったものから食べるとか、ペットのように可愛がったりしない(70年代近辺の知識なので現在のイヌイットの人達の事情とは違うかもしれないけど)なんて話を聞いても、深く繋がれば繋がるほど、人間とは異質な存在であることを意識しなければならない、と思ったりもする。

まー、そこまで深刻に捉えなければならない事態というのは滅多に無いだろうし、私特有の「深刻に考える癖」故の考えすぎな部分もあるとは思うけど。


要は、aiboなんて丁度良いんじゃ無い?なんて思ったりもした、ということに繋がる話。

でも調べるほどaiboではどうかな?とも思ったりも。

・屋外に持ち出せない=飼っていても親の運動のモチベには繋がらない。

・イニシャルコストだけじゃなくて維持コストもそれなりにかかりそう。

ソニーには前科がある。


そしてうちの場合、やはり「前の犬」の面影を追ってしまうと思う。

やんちゃで、バカみたいに運動能力が高くて、ビビりで性格が悪い。

良く言えば「野生」を飼っているような感覚。

そんな存在をもう二度と飼いたいとは思わない、次に飼うときには少なくとも私が最初からキッチリしつけるとしても、どこかにその片鱗を残していなければ多分うちの家族が満足することはないような気がするのだ。

aiboはある意味では犬の理想的な部分の抽出だ。敢えてテイストとしてツンデレったりもするのだろうけど、噛む牙も無いし、多分無駄吠えすることもないし、本気で喧嘩することもできない。(私が親から世話の引き継ぎを受けた当初は「主導権争い」をする必要を感じてかなり本気でやり合ったりもした。)


犬種にもよるだろうけど、犬はポテンシャルとしては人を殺すこともできる動物だ。

「狼との血の近さ」というものを基準に飼い犬を選ぶ人間が少なからず存在することは、「野生を馴らす」ことこそ犬を飼う意味と感じる人間が存在することを表していると思う。

高齢者の体力でも擬似的に犬との暮らしを味わえるとか、そもそも犬に野生を求めないという層もあるとは思うが、本当の犬好きが満足するaibo的な存在というのは、ある意味自動運転車並みに技術だけじゃ無くて倫理命題を乗り越えた先にある存在なのかもしれないなと思ったりもする。


が、色々調べる中、この記事に突き当たった時に思ったことは、aiboの役割として「飼い犬のコンパニオン」というポジションはかなりありなんじゃないかと言うこと。

犬を飼いたくても飼えない人の多くは、
「結局飼っても寂しい思いをさせるだけだから」
という理由で躊躇っているんじゃないだろうか。

元来犬は群れで生きる動物だ。そして存在そのものが「かまってちゃん」だ。犬に与えるご褒美は餌よりも「関心」がもっとも効果的で罰は手をあげるより「無関心」の方が効果的だったりする。可能であれば「多頭飼い」することはストレスを緩和する良策になるだろう。

単に愛犬の相棒と言うことを超えて、躾に難のある家庭では擬似的にリーダー格を演じさせたり、「我が家の掟」を教授するチューター役としてとか、理想を言えば時間が取れないときは散歩をしてくれたりしたら。

そうした犬を飼うためのアシスタント役というのは、あるべきaiboの将来的な理想像の一つなのかもしれない。(方向性として人間を満足させることとは全く異なるアプローチが必要になる=aiboというよりalter aiboとも言うべき存在になるかもしれないけど。)


じゃあ、今のうちにそれを当てはめたらと考えると、、、

犬を飼って更にaiboまでというのは財政的に難しいような気がするし、現状ではaiboが散歩してくれるわけじゃないしな、、、

 

今後に期待する、と言うことで。

 

ぐうの音も出ないのにぐうと言ってみた話し。

 

www.youtube.com

トレーニングを習慣化するようになって一年以上が経過したんですが、読書する暇がなくなった代わりにと言うか、音楽は聴くようになりました。
 
もちろん「ながら」でなんですけど。
 
私、読み書きと音声コミュニケーションの能力の間に大きな開きがあるようで、ADHDの治療の過程で受けたIQテストで両者の間に30ぐらいの開きがあったんですよ。
 
つまり、元から「人の話聞いてねー」系というか、むしろ聞こうと思っても聞く能力が無い可能性すらあったりして。
 
Jポップなんかを聞いていると延々と同じ曲を聞いていても集中して聞ける瞬間が来るまで実は全く歌詞が頭に入っていなかった、なんてことがあるのもそのせいかもしれません。
 
 
NakamuraEmiさんもそんな私に冷遇されていた一人だったのですが、最近漸く耳を傾ける機会がありまして。
 
 
不器用に魂削っている、ように聞こえます。
 
まるっきりノリとはほど遠い生真面目なヒップホップ。
 
多分、必要に迫られて「優等生が頑張ってものにした技術」で表現している。
 
最大の武器であるまっすぐなリリックも、そこに至るまでの道筋はまっすぐなものでは無かったようで、自分の属性に合っていると信じてガールズポップに向かっていた時期もあったとか。
 
 
そんな彼女の作品の中でも一番響いたのはこの曲の歌詞です。
 
 
 
「大人の言うことを聞け 
 
けっして言う通りにしろじゃない」
 
 
 
私には「言霊」の力を過剰に信じているところがあります。
 
「論理的に整合性のある正しいことを言っているのに、なぜ聞いてもらえないのか」
 
これは、もちろん「大人」のスタンスじゃないんです。
 
受け取ってもらえなくて、「不当さ」に腹を立てる。
 
ワガママな子どもそのものです。
 
 
 
そして、受け取る側としても。
 
人の話を最後まで聞けない。
 
物理的に相手の発話が終わるまで我慢できたとしても、「聞いている」のではなく、聞き取りながら自分の発言を組み立てている。
 
 
 
他人からの言葉をどう「処理」しているか。
 
多分、私は功利主義的に、それが「役に立つか」「無駄か」でかなり瞬間的に判断している。
 
もちろん常にそうではないんですけど、そういう自分の思考を自覚をすることがあります。
 
無駄と判断したら?ひとまず受け取って、それを熟すということがない。
 
 
 
言葉って命令ではない。武器でもない。事実でもない。
 
それはただの「言葉」というものであって、取り扱いのルールはただ一つしか無い。
 
「ちゃんと受け取れ」
 
 
それをどう熟すか、解釈するか、受け取ってどう反応するか。
 
そこから先は、逆に受け取った側次第。
 
発した側が立ち入ることは決して出来ない。
 
 
でも、取りあえずは受け止めよう。
 
出来れば、可能な限り誠実に。
 
「話はそこからだ」
 
 
大人と子ども、という関係性の中で歌われているこの曲への反応として、これはまさに「聞いてない」感想なんですけどね。
 
男と女であっても、上司と部下であっても、人と人であれば多かれ少なかれどこにでも当てはまる真理、なのかもしれないなーと思った、そんな話でした。

いまさら「逃げ恥」を真っ正面から論じてみた話し。(ネタバレ注意)

いまさらですけど、「逃げ恥」を見ました。

www.tbs.co.jp

 

 

まず原作から出会えた幸運について

 

Koboのセールスでたたき売りになっていた原作を購入したまま積ん読しておいたのを先日ぽっかり時間が空いた際に読んだことから火がつきまして。

 

 

 

ここのところ私が読んだ本の中でも特に印象に残っている本が3冊あるのですが、

 

 

 

 

 

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

 

 

この三冊が提起している問題にそれぞれそれなりの回答を示していると言いきってしまっても言いすぎではないと思います。現代日本の闇に差した一筋の光に思えました。おおげさですけど本音です。

 

 

良作ドラマに原作者の悲哀を見る

 

漫画を先に読んでダバダバ涙を流したのでこのままドラマを見ると「見なきゃ良かった」と思うパターンかなとも思いましたが、あれだけブームになったのだから見るべき点はあるのだろうと怖々見てみた結果思ったことは

 

  • どちらも見るつもりならまず漫画から
  • これだけ原作を絞り尽くしたドラマは初めて見た
  • 恋ダンスとか割と「刺身のツマ」だった

 

の3点。

 

実のところ、ドラマを見た後に漫画を読み直すとかなり冗長なストーリーだなと思ってしまいます。が、漫画を読まずにドラマだけ見ては物語が示すテーマの全てを吸収することは難しいと思います。

 

これは漫画の作者である海野つなみ氏が連載期間だけで4年半の歳月を費やし、恐らく連載開始以前から渾身の力を振り絞って構想し、取材して得た物を詰め込んで構成したものを印象に残る部分をチョイスして11話の連続ドラマに再構成した結果と考えれば当然です。

 

結局商業的二次創作って言うのは原作者が監督でもしない限りは下手に料理されても上手にされても原作者としてはある程度の悲哀を味わうことになるのかなーと思わざるをえない残酷な現実もみえました。

 

が、端書きなんかを読むと原作のラスト近辺はドラマの脚本と原作が相互にフィードバックしあったことがどちらの展開にも活かされていたみたいですね。漫画が終盤にさしかかった時期のドラマ化というのも、たまたまそのタイミングになったのかもしれませんが、大事に育ててきた作品のいわゆる「龍の目」の部分で外部からの口出しを受け入れて完成度を高めると言う作業があったのは海野つなみ氏の度量の広さをしめすエピソードのような気がします。*1

 

 

「逃げ恥」が示したものとは(ココからネタバレ)

 

ところでドラマを見終わってさらに欲張って余韻に浸りたいとググってたら

top.tsite.jp

こんな声もあったようで。

 

この物語がここまで受け入れられたのもやはり新垣結衣さんの人気や恋ダンスと言った「大向こう受け」を担った要素が働いていたからという点は間違い無くあり、原作が構築し、ドラマが啓発した「未来を先取りした思想」自体が受け入れられている訳じゃない、いや、むしろ読み解かれてすらいない可能性がある、ということを物語っているのかなと。*2

 

ドラマにはいくつかのオリジナル要素があって、どれも原作に欠け気味な「ヤマ」や「オチ」、つまりメリハリをつけるために効果的に機能しています。

 

中でもラス前の10話で描かれた高級フレンチでのプロポーズシーンは最終の11話での「小賢しいみくりさん無双」な展開とともに漫画とドラマに共通する背骨とも言える思想、アイデアを鮮明に描き出すことに成功している箇所ではないかと思います。

 

平匡さんらしからぬ用意周到な舞台設定のプロポーズは、「旧世界の遺物」そのものです。

 

「空気」を読むことで進行する儀式化された一連の婚活プロセス。

夫婦の間のことは理屈でも理論でもないから言語化出来ないという「信仰」。

関係性の言語化、システムの構成に長けた平匡さんですら論理破綻に導く「常識」の落とし穴。

 

みくりさんが感じた「モヤモヤ」は今の日本に欠けている何かを鮮明に浮かび上がらせます。

 

「恥をかいてでも逃げた」みくりさんはあの瞬間、誰よりも闘っていたんですよね。

 

どんな未来を選択するかと言うことについては二人は絶対的な解を示してはいないです。が、システムを固定せずに常に状況に合わせて変更し続ける姿勢、それを大人げないまでに言語化し、システム化する努力こそ、この物語の真骨頂であり、「二人の愛の形」ですよね。

 

だからこそ、二人はどんな未来でも怖がらずに受け入れられる自信を手に入れることが出来た。

 

それこそがドラマのエンディング「恋」でフューチャーされたドラマのサブテーマ、「夫婦を超えてゆけ」の示す物、言ってみれば「超夫婦」という思想の結実なんだと思います。

 

引用した記事の時点ではオチを見ていない段階だったとは言え、「面倒くさいことから逃げずに答えを探すことがテーマのドラマのヒロイン」に対して「クソめんどくさい」「上から目線のクソ」という批判があったこと自体が漫画じみているなーと思ってしまいます。

 

まあ、むしろ、「ガッキーオーラを超えるウザさ」を認めてしまったこう言った視聴者からの反応という「前振り」があったからこそ平匡さんの「僕はみくりさんを下に見たことはないし、小賢しいなんて思ったこと、一度もありません。」という台詞は暁闇の中でより一層の輝きを放ったのかもしれないし、公衆面前のハグという使い古された演出に感動を呼び起こされてしまう「説得力」が宿ったのだとしたら、ドラマ制作陣としてはまさにしてやったりだったかもしれんですけど(^_^;)*3

 

 

完全に蛇足な話し

  

ところで「プロの独身」と言う生き方が認知を得たと思い込んでうっかり自称してしまったらそれは「自爆行為」でしかないんで「ご同輩の皆さん」は注意しましょうね(^_^;)

*1:いや、当然のことながら海野つなみ氏の人となりとかシランのですけどね(^_^;

*2:まあ、Twitterの感想の抜き書きがどこまで世相を反映しているかと問われるとかなり微妙ではあるんですが、、、

*3:ドラマでは原作者の意図を超えて「小賢しい」がフューチャーされていたことに違和感を感じていた旨の記述が原作の端書きにあったりします。

ひねりもなくただ反省した話し。

いったん公開したものはよほどのことがない限り引っ込めないようにしています。修正は公開後でもバシバシしますけど(^_^;)

 

40代後半の独身男性ということであまり「リスク」に頓着しなくて良いせいもあるんんでしょうね。

一度出しちゃった物は間違っていようと後悔しようと引っ込めてもどこかに痕跡が残っている可能性もあるし、そこも含めて自分だよなという想いもあります。

 

なんですけど、今回このブログへの投稿を2件取り下げさせていただきました。

 

1件については書評なんですが、言及した内容に事実誤認が見つかりその内容が投稿の趣意に影響する部分だったためです。嘘を嘘と知りながら公開し続けることは問題がありますし、修正するなら根本的に書き換える必要があります。本自体は面白いと思っていることに変わりは無いので、いずれ切り口を変えて投稿できたらと思っています。

 

もう1件は日記物なんですけど、「自分以外の人の不幸」をネタにしておりまして、自分なりの考えでこのまま公開し続けることが忍びなくなりました。

 

いずれにせよ、公開してしまったこと自体が私の浅はかさの記です。読んでくださった皆さんにも申しわけありませんでした<(_ _)>