読書感想文「スッキリ中国論 スジの日本と量の中国」について。

 

スッキリ中国論 スジの日本、量の中国

スッキリ中国論 スジの日本、量の中国

 

 

評価の難しい本だと思います。

 

スッキリする点は表題に偽りなし。

 

例えば、↓この記事について

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/14926?layout=b

>保釈の日、法廷で手続を待っている間に、弁護士が教

>えてくれました。弁護士事務所に知り合いでもない多

>くの人から、保釈金のために自分の財産を提供したい

>との電話がありました。個人的な知り合いでなくて

>も、彼たちはファーウェイを知っています。ファーウ

>ェイを認めています。だから、彼たちは私を信用して

>くれたのです。

 

Huaweiの孟晩舟CFOが公開したこの文面について僕は猛烈な違和感を感じていました。

現状世界で最も影響力のある企業と言っても過言ではないHuaweiのNo.2にして創業者の娘であればいかに莫大な額を要求されても金銭面で困難が生じるとは考えにくい。その人に対して金銭的援助の申し出をすることに合理性はあるのか?と言う疑問です。

 

本質的に懐疑的で皮肉屋な私が彼女の立場であれば、

「どうせ申し出をしても自力でなんとかできる私が受けるはずがないと思って『言うだけタダ』だから言っているのではないか?」

と考えかねません。

 

極論すれば「善意であるだけメンドクサイ」迷惑行為とも言えます。

 

 

本書を読むと、申し出をした(恐らく多くは本士中国人であろう)彼達の心情がなんとなく理解できます。

 

「筋立てて考えればどこか矛盾があろうとも最も物理的にインパクトのある手段で気持ちをあらわすことが大事」と言うのが本書が提示するこうした場面での中国人の思考と行動の前提、だと僕は考えます。

 

翻って私か感じた違和感を解析してみるとおおまかに以下の3点に分けられそうです。

1  彼女の立掲に立って考えると手段がピント外れに感じる。

2  金銭的な援助の申し出は「生々しすぎる」。

3  売名行為、影響力のある彼女の歓心を(結果的に身銭

  を切らずに)買う行為だと誤解を受けかねない。

 

この3点を「量」の理論で解析してみましょう。

 

1 はどの道このケースで「出来ること」の選択肢は限られていることから生じた問題です。国家指導者クラスでも米中両大国の綱引きの過中にある彼女に実質的な便益を図ることは無理筋です。

同情心や支持の姿勢を言葉であらわすだけならそれこそ口先でも出来ることです。

であれば、唯一可能性のある金銭的援助の申し出をすることが「量的」に分かりやすい手段なのです。

恐らく彼女が受け入れれば申し出をした人達はーも二もなく自分の資産規模に応じて適当と思われる額で私財を投げ打つのでしょうし、そうでなければ申し出自体しないのだろうとも思えます。

 

2 はそれこそ「奥ゆかしさ」を是とする日本人のミーム(本書で言うスジの一つ)に則った解釈です。量的に判断されるあの国の社会では「何もしない」ことで評価されることは無いし、むしろ社会全体に関わる一大事では一定以上の資産を持つ人は「何もしない」では許されないことすらあることが事例を上げて本書では解説されています。

 

3  も2と同根ですが、加えて言えば量的な社会では人に好意や支持、関心の高さを示す際にも「量」が物を言うし、量的な手段以外ではそもそも伝わらない、と考えればより理解しやすいかもしれません。

これは日本人の抱える欠点の一つを表しているようにも思えます。「繊細な機微」で気持ちを伝えることには伝える側にも受け取る側にも高い八一ドルが存在します。いきおい「思ってさえいれば伝わる」とか下手をするといつの間にか「面倒臭い」と努力すらしない状態に陥りかねません。

コミュニケーションにおいて「粋」であることを求めるあまり肝心な分かりやすく伝える努力を放棄するとしたら、それはかなり特殊な志向性と言えなくもありません。

 

以上のことを考えると、受け取った側の孟氏も恐らくはこの申し出を心から喜んで受け入れたのだろうとする理解も成立します。

 

量的に分かりやすい支持や同情の表明は彼女に実利的に有効な支援にはならなかったとしても、自分が申し出を受けるだけの関心を持たれているという実感を持つことはできたでしょうし、「敵地」で孤立無縁状態であればこの上ない心理的な後ろ楯にもなったと思います。

 

 

https://gigazine.net/news/20190226-chinese-horror-game-removed-steam/

↑この事件についても、僕の感じていた違和感をそれなりに整理することができました。

 

為政者の容姿をネタにするぐらいのことは裏では国民の皆さんだって日常茶飯事でやってることじゃないのか。たかがゲーム中の「クリエイターのお遊び」の中で政治的な糾弾、批判ですらない「からかい」に過ぎないものに当の本人ですらない国民がサービス停止に追い込む程に感じた怒りの正体とは何なのか?と言う疑問です。

 

それも台湾と言う「外部」から国の最重要人物を揶揄されることは国の面子として許しがたい、自分達がネタにするのとは訳が違う、という本書でも重視されている「面子」の観点から考えれば理解できなくもない。

 

もっとも、ネットの炎上に関する実態の報告を読むと多くの場合極めて限定的な動きが「ネット世論」として大きな「うねり」を形成するメカニズムを持っているようです。ネットの特性はなにも中国に限った話しではないですが、かの国の政治体制を考えれば「くだらない」ことだけに表立って当局が動けばそれこそ面子に関わると言う判断のもと「工作」が行われた可能性も否定できないとは思ってしますけどね。

 

 

本書の難点について言えば、この「スジ」と「量」と言う対比の概念が現状の日中両国の状況をあまりに分かりやすく表現してしまっている点にあると思います。

 

文化論、特に対比文化論において「判りやすさ」は時として思考停止を産み、そこまでいかなくても思考の分解能を下げる可能性は充分あります。

 

例えば今後私が中国人と出会い、人間関係を築いていく機会があれば、本書を読んだ経験は予備知識に成りうると同時に「色眼鏡」の原因にもなるでしょう。

 

本書でも触れられていますが、

「あなたは~人にしては~ですね」

と言うフレーズはある程度心を許し合うようになった異文化人同士で交わされる万国共通どころか時代すら超越した「定番」です。

 

上で僕が試行してみた二つの事象の解釈だって「本当にそうか?」と問われれば心許ないのです。

 

更に言えば、中国が日本の高度成長時代を凌ぐ程の急激な経済成長をを遂げている、しかもその成長は日本のような斬新的なものと言うより破壊的イノベーションを繰り返すことで生じているとすれば、本書で切り出された中国のー面がその時点ではある程度妥当性のある分析であっても陳腐化は想像以上に早いかもしれません。

人口ピラミッドと言う不可避な要因を起点とする歴史的かつ構造的な変動期を迎えている日本についても同じことが言えるかもしれません。

 

また、僕にはほとんど分からない中国のことについて論ずる足掛かりすらないのですが、「スジ」論で分析される本書の日本観には「物足りない」と思う点があり、そうであれば中国についても同じぐらいのクオリティなのかもしれないと言う「邪推」をしてしまいました。

 

それも「分かりやすさ」とのトレードオフと考えればあげつらうことは不適切なのかもしれません。

「そういうもの」として扱えなかったとしたら読む側のリテラシーの問題なんでしょうね。

 

 

色々難癖をつけましたが、僕自身は本書と出会えて良かったと思っています。

 

実のところ、ここ10年ぐらいはアレルギーと言っても良いほどの恐怖感を中国に感じていました。

かの国については人によって前提とする事実まで含めて語られる内容が全然違うことは珍しいことではありません

 

実は僕は20年程前に一度仕事で訪中したこともあるのですが、当時ですら既に過剰に進められていた無秩序な不動産開発ーつ取っても僕にはこんな状況では遠からず実儒との乖離を吸収しきれなくなって破綻するしか無いように思えました。

その実感に従いそれから10年間程は中国本土への投資はあり得ないと思い続けましたが、そんなことはお構い無しに中国経済は伸び続けていると報じられ、僕よりはるかに高い理性を持っているはずの各国の政治的リーダーも、よりシピアに実利を追求するはずの経済人の皆さんも中国経済の成長力を認めている状況に大きな変化は見られません。

会ったのは「役人」ばかりと言うこともあってか、本音で話しをできた感触も無く、結局一次情報として僕の中に残ったのは、「政治上の建前がそのまま真実になってしまう不思議の国」と言うレッテルでした。

 

もっと客観的に見直してみようと思っても統計さえ実態との乖離があることが前提で専門家同士であってもどの程度の乖離があるか意見の相違があるとなれば、もう笑い話と言っても良い話です。

 

影響力のある隣国だけに大量のニュースや個人の体験が日々入ってきますが、人によって前提とする事実まで含めて語られる内容が全然違うことが応々にしてあり、調べる程に「分からない感」は深まるばかりでした。

 

 

当然本書で「わからなさ」を解消することはできません。事情が変わらなければ、これから先も当面その点は解消されないかもしれません。

 

ですが、もっと違う視点から恐怖そのものはある程度解消されました。

 

本書で活写される一人一人の著者と交流のあった中国人には明快な行動原理も少し我々と体系は違えど倫理感もあり、私達と同様に激動する社会に揉まれて苦悩する「人間」です。

 

僕にも少ないながら日本人以外の友人、知人がいます。個人的な経験であり、国を論じるにはあまり少ないサンプルであり、本書を比判した論拠からすればそれこそ色眼鏡に過ぎないのですが、「陽気で合理的で親しみ深い」韓国人の彼や、「引っ込み思案で根暗に見えたけど慣れてくると人懐こい」アメリカ人の彼、「おばあちゃん子で古風な日本人みたいだけど同国人に対しては頑張って陽気に振る舞っている」ブラジル人の彼女の顔を思い出すと、日本の中にも一人として同じ人間がいないんだからというごく当たり前の事実を踏まえてそれぞれの国のことを考えることができている、とまで言い切る自信はないですが、偏った報道や社会の空気の流れで「敵認定」してしまうような暴走は食い止められているし、「瀬戸際」になったとしても僕の内面のその部分は変わらないだろうとも思えています。

 

知らない、判らないことから目を背けることは恐怖を産む過程の第一歩だと僕は考えています。

 

「本を通して知った他人の経験」は充分とは言えないまでも「足掛かり」にはなったのでしょう。

 

僕の「中国恐怖症」は幾分かは和らぎ、同時に無視できない距離感の隣国である以上、より確かな認識を持つ必要性を感じる余裕も持てた気がします。

 

そう考えると、僕にとってのこの本の真価は「一見して判りやすいスッキリさせるための概念」の提示よりも「著者が地道に積み上げた経験と丹念な事例の描写」にこそあったのかもしれません。