少しだけ自由になれた僕が改めて「生き辛さ」の正体についてまとめてみようとした話し

40代後半になって急に楽に生きられるようになりました。

そうなれてからも浮き沈みはあるんですが、沈んでいる時も以前とは違うなと感じます。

 

克服?したものは具体的になんだったのか。

ADHDと肥満は大きな要素かなと思います。

どちらも克服したとまでは言えないのですが、このニつと向き合ったことで自分に本当に足りていないものが見えてきました。

 

自己肯定感ですね。

 

自尊心は元から高い方だったと思います。今にして思えばそのことが「正解」から自分を遠ざけていました。

 

 

何か特別に役に立っていなくても社会に存在していても良いんだ。

失敗したからといって存在を否定されるわけじゃないんだ。

 

今の僕が考える自己肯定感は、そんなことを信じられる心持ちです。

 

 

自尊心はと言えば。

 

自分は役に立つ人間だ。

失敗したら取り返せば良い。

 

です。真逆ですね。

 

 

時として、あるいは人によっては全く同義と捉えられる二つの概念。

他でもない、一年前までの自分の考え方はそうでした。

ラベルとして適切かどうかは色々な見方があるかもしれません。

ですが、この二つの概念を区別し、整理できたことは僕にとって大きな進捗だったと思います。

 

 

この気付きは万能薬の処方箋になるでしょうか?

 

以前の僕のような「自尊心マインド」の人はたくさんいます。

社会、特に経済活動を通じた結びつきの中では失敗が地位の喪失に繋がることがあります。

「役に立たない」と誰かを認定することで人はどれだけでも残酷になれる生き物です。

 

 

「生き辛さ」を克服する過程の中で、最初に僕に生じたのは「自尊心の回復」でした。

 

それまで望んでも得られなかった「自分であることの誇り」。それを得た僕は二度とそれを手放すまいと必死にしがみつき、結果として同僚を「役に立つ」かどうかで峻別し、自分の足を引っ張った人を苛烈に糾弾しました。

 

 

気付きを得てから感じたことはもちろん後悔でした。

 

同時に僕にはもうその失敗を取り返すことはできないことも悟りました。

 

僕がしたことはもう消えない。

過去を変えることはできない。

どれだけ真摯に謝罪しても、せいぜい僕の気が晴れるぐらいのことです。

嫌な記憶を思い出させ、不本意にも謝罪を受け入れることを強いることになるかもしれません。

 

過ちを繰り返さないと誓うこともできません。

憎しみはいろんな形を取ってそれと気付かぬうちに心に忍びこみます。

 

人としてこれからも新しいステージに進む中で、僕にできることは「忘れない」ことと「考え続ける」こと。

 

まだ結論めいたことは書けません。

このテーマはこれから先大切に扱っていきたいと思います。