友人に勧められまして。
もちろんパルムドールを受賞したことは知っていたんですけど、普段あまり「地味な邦画」は見ない上に、受賞作とか話題作もスルーする方なので、そんなことでも無かったら見なかった可能性はあります。
で、勧められた時点で土曜日の夕方過ぎで、ここのところ映画を一緒に見に行くことが多い人を誘うには遅い時間だったので一人で行くことにしました。
来週にしても良かったんですけど、自分の中で「宿題」になってしまいそうで積み残ししたくなかったんです。
結果的に独りで見て良かったと思います。
見終わってから独りで熟す必要のある映画だと思います。
まだ見ていない人、これから見る人はこれ以上読まないでください。
自分なりに考えて納得がいったら振り返ってこの文章を読む必要は無いと思います。
そんな映画でした。
少なくとも、僕にとっては感動する映画でも、答えが見つかる映画でもありませんでした。
数カ所で泣きそうにはなりましたが、それは特定のシーンや台詞が「記憶」に触れたからです。
見終わった後は、不思議な感覚に襲われました。
映画を見終わって、これほど心が静かだったことはなかったかもしれません。
お題を出されたような、自分なりの答えをここから導き出したいという思いだけがありました。
不思議な映画です。
実験、シミュレーションという言葉が一番ピッタリくるかもしれません。
家族を語ると言うことは、必ずそこにまつわる前提条件がつきまといます。
どんな家族を語ろうが、必ずそれは「特殊事例」を語ることになります。
では、一般論を語ることが困難な、そんな家族というものを「構造解析」するにはどうしたら良いか。
赤の他人同士を家族という枠組みに「仮組み」してみたら?
そんなシミュレーションです。
自分では家族を作ることが能わない、「傷物」達が、自分の願望を叶えるという自己中心的な動機で「必要なピース」を取り込んでいきます。
取り込まれた側も、「足りない」存在です。お互いを埋め合う、そのためだけに作られた人工的な関係性は、、、
結果として、「優しさ」と「思いやり」が充満する家族を作り出しました。
「自分もこの絆の中にいることができたら」、「この夢が終わらないでいてくれたら」、と思う瞬間がありました。
でも、その仮組みは成り立ちから壊れることが織り込み済みでした。
綻びはそこかしこに見られ、シナリオのような「偶然」がトリガーにならなくてもいずれ崩壊していたことは明らかでした。
実際、映画を見ながら「最悪の後味」を想像してショックに備える癖のある僕は鑑賞しながらいくつもの「伏線」を想定してもっと後味の悪い崩壊のシナリオをいくつも考えついていました。
「優しさ」と「思いやり」で充満した、と表現しました。
逆に言えばそこにはそれしかありませんでした。
「正しさ」も「前向きさ」も、なにより「未来」が、そこにはありません。
「家族」の構成員はまるで家族を維持することが全てに対しての免罪符になるかのように、「悪行」を社会に振りまきます。
なんの罪も無い、或いは、時としてそんな家族にすら善意を示す人達にまで。
悪行は外に向けてだけには留まりません。
「群れ」から脱落した家族は、躊躇いなく、とまでは言わないまでも、切り捨てられます。
最初から居なかったかのように忘れる。そうする以外に、この脆弱な「仮組み」は維持することすら出来なかったのです。
では、この泡沫の夢はただの気休めだったのか。
現実逃避の器でしか無かったのか。
そうではないと思います。
死ぬことで破綻の端緒となった「祖母」は「孫娘」に添い寝されながらこの世を去る、と言う望外な望みを果たします。
他のメンバーも、この「巣」の中で傷を癒やし、未来に目を向けます。
幼い身で虐待癖のある両親の元に戻されると言う絶望的な状況に取り残されたように見える「末娘」ですら、洋服を買ってもらうこととバーターで「飼い慣らされていた」母親との関係性を組み直し、自分の人生を歩み出した様子が暗示されます。
ただ一人、「父親」は、恐らくはこの家族が続くことを望み、果たせないことが判ってもその思いから離れられないでいるように思われます。
僕は「父親」はそうであることで一定の役割を果たしていると思います。
「父親」の心の中に「家族の絆」が生きていることで他の家族は安心してそこから離れることが出来ます。
罪を被り獄中につながれた「母親」はためらいなく夫に負っていた「債務」を完済し、次の一歩を歩む準備を整えました。
最も未来に近い存在でありながら絆の深さから離れがたくなりえた「長男」もまた、絆を預けて前を向くことが出来たのだと思います。
そして、当の父親も恐らくは「浸り」ながらものらりくらりと彼なりの現実を生きていくような気がします。
そうか、ここまで語ってようやくあの謎の後味の正体が判りました。
一見悲劇であるこの物語で、実は不幸になった人は一人もいない。
少なくとも、僕に取ってはこの物語は「ハッピーエンド」だったんですね。
さて、ではこの映画が語りたかったものは一体何だったのでしょうか。
見る人間が誰一人として同じ家庭観を共有していない現実を考えれば、ただ「考える材料を提供する」ことが目的だったのかもしれません。
是枝監督のことはよく知りませんが、受賞に際しての各所でのインタビュー等からそう考えてもおかしくない謙虚さと思慮深さを感じました。
それでは、他ならぬ僕はどう考えたか。
僕は、この映画がパルムドールを獲ったことこそが救いだと感じました。
多くの人がこの映画の提示した枠組みを理解したのです。
家族というものが、本質としていかに理不尽で、不完全な存在であるのか。
多くの人がそのことを認め、あるいはこの映画を観て気付いたわけです。
僕は一人ではなかった。それどころか、少数派ですらなかった。
そして恐らく、僕が「加害者」と目していた人も、人間が背負った家族という業から逃れることができなかった被害者の一人に過ぎず、僕自身立派に加害者であった。
その気付きは、僕に取っては一つの救いになりました。
宿業である家族という絆を、多かれ少なかれ人は背負っています。
僕は、どこかでその業を「再生産」してしまうことを恐れていました。
ですが、同時に、人間はどれだけ強がっていても独りでは幸せになれないことも学びました。
それこそ、この映画が示してくれた物の一つは、優しさ、思いやり、の持つ「凄味」です。
ただ認められ居場所を与えられることで、どれだけ人はたくましく、力強く再生するものなのか。
フィクションの中で描かれたその姿に共感できたのは、それが自分のこの数年の経験とも重なったからでもあります。
試してみても良いのかな、と。
その答えは短絡的に出せるものではありません。
ですけど、そうする価値はあるのかもしれないと、今はそう思うようになっている自分がいるような気がします。