頭が沸いたついでに恥ずかしいことを書いちゃった、そんな話し。

「誠実」ってなんでしょう。

ここ数年、私は生まれてこの方この言葉に惑わされてきたなと思うようになりました。

「八つ当たり」のような気もしますが、良かったら読んでやってください。

 

私は、この言葉には二つの大きく違う「使われ方」があるように思います。

 

一つは恋愛においてある種の男性の持つ美徳を評価する際に多く便われる使われ方。

 

もう一つは生き方、特に「仕事」に対する姿勢を表す際の使われ方。

 

どちらも「生真面目で裏表の無い様」を表すと言う共通の意味合いではないかと思われる方もみえるかもしれません。もしかすると、世間的にもその見方が多数派なのかもしれません。

 

私は両者は明白に違うと思います。

両者を分けるのは、「時間軸」だと思うのです。

 

前者は時間を過去から永劫の未来に渡って超越するさま、或いはそうなることへの期待感を含みますが、後者の場合は今現在の状態を表すことが多い。

 

もう一つ言えば、前者では倫理的な要素を多く含みますが、後者ではその丁寧さ、緻密さ、言ってみれば「分解能の高さ」をより多くその意とするように思います。

 

 

乱暴私見を述べますが、多分前者は「幻想」であると思います。

 

人の恋愛感情には賞味期限があると言うのは脳科学者の書いた啓蒙書の類にも書かれ、今や社会的なコンセンサスにもなっているある程度の確度、説得力のある仮説だと思います。道義的、社会規範上は不都合なはずのこの仮説がある程度受け入れられているのは思い当たる節のある人が多数派だから、なのかもしれません。

 

結婚は安定的な社会の基盤の一つと考えられる重要な「契約」ですが、端緒、源泉となる価値はいずれ等しく失われる。

「一時の熱情」が消えても同志の絆、友人関係、仲間意識、踏み込めば肉体を重ねた記憶の共有、首尾良く授かれば両者にとって大切な存在である子供の存在等が「かすがい」になり、よりフラットな持続性のある関係性が共に過ごす時間の中で改めて結び直される。

 

もちろん、運が良ければ、ですが。

 

冒頭で「男性の」と限定しましたが、シングルマザーを国家が財政的に支える決断をした国では女性の側から離婚を申し出たり結婚そのものを望まないケースの割合の方が多数派となったとの統計もあるようです。

経済的に依存する必要がなければ「もう一人手のかかる大きな子供」を抱えるのは理性的な判断ではないのかもしれません。

 

 

いずれにせよ、どちらにとっても「いつまでも私だけを見て欲しい」という願いは儚いものです。

 

だからこそ、「メンテナンス」が大事で、結婚したからもうお仕舞い、努力する必要はないと愛情確認や自分の魅力を保つ労を取らずにいて相手の気持ちを失うことになったとすれば、「誠実」で無いのはどちらの方でしょうか。なんて、そこまで踏み込むと独身者の僻みですね。

 

 

私には過度に「言葉に縛られる」傾向があります.。経験によって、実社会で起こっていることを観察し解釈することである程度の合理性は獲得したと思いますが、一時期は自分のこの傾向を持ってADHDと併せてASD傾向もあるのではと悩んだ程です(そして、実際そうなのかもしれません)。

 

両親が若くして出会い、共に不器用で現在に到るも稚拙な感情表現をぶつけ合いながら「永遠の絆と言う共同幻想」を金婚式を迎えても維持し続けている、という冷静に考えると極めて異常な環境で育ったことも大きく影響したかもしれません。

 

恥ずかしながら、「運命の相手」がいて、妥協しなければいずれ出会えるという妄想に無意識のうちに囚われていた時期が長かった。平たく言えば、交際の対象になるのは本当の意味で好きになった相手だけだと思い込んでいたのですね。付き合ってもいないのにどうやって判断するつもりだったのか、、、

 

さすがに20代に入るとその考え方は「危険」だと察することはできたのですが、そう察することで次は、「自分の信じてきたものは嘘だったんだ」と言う思いに囚われました。

 

いわば、「神を失った」ような状態です。下手をすると、自分が相手に好意を持っていることを悟られたら不味い、ぐらいのねじくれ加減でした。ああ、そういう意味ではむしろ「隠れキリシタン」だったのかもしれないですね。どこかで信じたいと思いつつ、そのままでは社会に取り残されるという危機感から宗旨替えしなければと焦りながら、結局それ以上の価値観を見つけられないでいたような。

 

そんな心持ちの人間に良縁が訪れるはずもない(と言うのも思い込みかもしれないし、間違いなく他にも要因はあったし、単に偶然そうなったと言うことでもあるとは思いますが)

 

ここ数年のことです。私がようやく自分の信じるに値する「信仰」を見い出したのは。

 

もしかしなくても、当たり前に素直に育った人なら考える必要もなく、ものごころついた時からそう考えるものなのかもしれません。

 

そうした人が読めばなにを分かりきったことを言っているのかと笑うより訝しがられるかもしれません。

 

恥を忍んで記しますが、私の見い出したのは、

 

「誠実さとはもちろんのこと相手に求めるものではなく、自分の中に備わっているものでもない。

 

過去と変わらずに生きることを誇ることでもなく、未来を約束することでもない。

 

今この瞬間を丁寧に、自分を偽らずに生きるために戦うことだ」

 

です。

 

 

私自身そうであるように、人は人生を通して誠実でいることは難しい。なにせ、自分に誠実であることが誰かへの裏切りになったり、誰かに誠実であろうとして社会を敵に廻すことだってあるのです。

 

私たちは瞬間的な判断の連続の中で生きています。「それぞれの誠実さ」の重さを計り損なうことは誰しもに起こり得る「避けられない災厄」のようなものなのかもしれません。

 

大事なことは、常に「新しい今」を自分が生きていることを、忘れないことではないでしょうか。

 

人間は「今自分が誠実である」こと以上のことは約束することのできない存在なのですから。