モヤッとしたけど大事なことはそこじゃないかもしれないと思った話し。

こんな幟は東濃地域にしかないかもしれなくて例えば岐阜辺りの人は、「え、連中そんな不届きなこと考えているの!?」的にビックリするかもしれないのですが、どういうわけか昨年末辺りから割と頻繁に見かけるようになりました。

多治見の辺りだとどうなんだろう。最近ご無沙汰なのでその辺よく分かりませんが、少なくとも瑞浪辺りぐらいまでは結構みかけますね。



何を隠そう、私は東濃独立主義者です。

 

県都岐阜市の人達はヘタすると東濃のことを飛騨より遠い存在だと思っている節があります。私の感覚では行政資源の割り振りという点で東濃は割を喰っている可能性すらあるんじゃないかと思っていたり。

 

なんでそうなっちゃったのかと言えば、一番大きいのは近代化の過程で「大動脈」が美濃に向かう中山道から国道19号、中央道、中央線と名古屋に向かうものに切り替わっちゃったことでしょうね。まあ、そうなったのは中山道華やかなりし江戸時代から尾張との縁が強かったからなのでしょうけど。

 

東濃は尾張と木曽を結ぶ線上に位置します。木曽は木材供給地であり、木曽川の上流地としても尾張にとっては生命線と言ったらオオゲサかもしれないですけど、かなり重要な「植民地」でした。

 

当然、当時から下街道である中馬街道、木曽川の水運と言った尾張と木曽を結ぶ交通網も中山道と並列して栄えていたようです。中山道が幕府お抱えの官営街道として手厚い制度的財政的庇護を受けていたことを考えれば尾張との結びつきはより経済面での繋がりに依っていて、その分根強いものだったのでしょう。

 

一筋縄じゃいかないのは、じゃあ東濃は尾張の一部だったのかと言えばそうでもなかったと言うこと。江戸幕府の基本方針と言えば特定の藩のパワーが突出しないように「出る杭は打つ」。御三家の一角でありながら宗治の幕府との対立や、御一新の際には実質的に幕府に引導を渡す役割を演じたことから考えると、幕府にとっての尾張藩はある意味加賀藩等と並んで、或いはその血筋への遠慮からより「難しい」存在だったことは想像に難くありません。と言うことで、東濃地域と言う江戸と京の間を結ぶ中山道の要衝地でこの「難物」が突出しないように慎重に「モザイク」状に天領岩村藩、苗木藩や旗本領と雑多な勢力が配置されました。かの島崎藤村の長編小説「夜明け前」にも、幕末当時の馬籠宿が木曽福島の代官(幕府役人)と尾張藩主という二つの主をいただく複雑な立場だったことが描かれます(つまり佐幕派倒幕派の筆頭格の股裂状態)。

 

明治以降も名古屋県配下だった時期があったりと腰の据わらない状況が続いたこともあり、元々同じアイデンティティを共有していたわけではない東濃地域の人々は自分達は何者かと問われれば、今の市単位よりも小さな町村単位で地域的なアイデンティティを主張する傾向にあるのではないかと思います。

 

結果として東濃の住民の「岐阜県民」と言う自覚は恐らく岐阜県の中で一番薄いのではないでしょうか。この点、より地理的な隔絶感の高い飛騨地域の人達がむしろ岐阜県の行政資産に対する意識が強いことと対照的な気がします。

 

 

さて、話題をご当地ナンバーに戻します。

 

 やっと時代が私に追いついてきたか、と思っていると思いきや、実はこの流れにはちょっと当惑気味だったりします。

そもそも「東美濃」とはなんぞや。

ってヤツです。

飛騨川の東側はもう美濃じゃない。むしろ今中濃って言われている辺りが東濃でいいんじゃない?なんて思っていたり。

それ以東はじゃあなに?と言えば、立派な歴史的アイデンティティを表す地名があるじゃないですか。

「土岐」です。最盛期には美濃、尾張、伊勢の三か国の守護大名を努めた土岐源氏縁の地名(実際は土岐氏が所領である土岐の名をいただいたのですが)であり、現在でも多治見市の市章に桔梗の紋があしらわれ、土岐市はモロに地名に土岐を冠し、瑞浪市はそもそも土岐氏の本拠地一日市場が所在するホームタウンです。

 


が、そうは言っても「土岐」の名が弱いのは恵那以東は「恵奈郡」というまた別の由緒ある地名を与えられているからです。

ちなみに恵奈郡は平安期以降に分離するまでは木曽を含んだ広大な地域を表す地名だったようです。恵那と伊那は兄弟地名って言う説はこの近辺の地方史を当たるとまず最初の数章の中に見つけることができます。


というわけで、些かモヤッとする部分は残るのですが、現在の状況を考えると、土岐と恵奈を別々に考えてしまうと地域アイデンティティを主張するには規模の点で些か弱くなってしまい、比較優位な土岐の地名を持ち出すのはこれも由緒ある恵奈の地名への配慮を欠くと考えると、他に適当にこの地域を言い表す言葉が無い以上、「東美濃」という旗印を受け入れざるを得ないのかな、、、等と思ったり。


いずれにせよ、この地域は、いわゆる「美濃」とはまた異なる道筋の中で育まれた風土を持っており、地理的、文化的、交通網的に「隔絶」されているが故に岐阜県にあっては冷遇されているこの地域が、地域アイデンティティの醸成を模索し始めたことはやっと始まった必然的な流れであり、東美濃という名称には「なんじゃそりゃ?」と思いながらも、そこで立ち止まって名前争いをするよりは取りあえず結集することが大事なんじゃないかと思ったりするのでした。