切り抜き的ADHD論。

Google+という、ぎりぎりメジャーと言えなくもない、でもあまり一般的ではないSNSがオンラインでは私の「主戦場」だったりします。

 

その中で、とある最近自分はADHDではないかとの疑念を持たれた方の投稿へのコメントを書いたところ、比較的今の自分の中にあるADHDという言葉と自分との関わり方というか、今自分がこうで、ADHDについてこう思っている、ということについて過不足無くまとめられたな、と思ったので切り貼りしておきます。

 

初出はこちら

plus.google.com

自分がファーストコメント出した状態で書いていますので、議論の流れがどうなるかとか、想定できない段階なのですが、興味のある人は「今後の展開」も併せて追っていただいた方が私という狭い思考世界に限定された話しよりはマシな考えに触れることができるかもしれません。

 

 

情報という面だけとっても、入力も出力も恐らく人類史上最高という状態で、それだけでもADHDにとっては苦痛な状況と言えなくもないはないですよね。

人間の質の変化より社会の質の変化のスピードが速いことを考えれば、ADHDという考え方自体が相対的なものだとするのはむしろ当たり前のことかもしれません。

時間軸上のことだけでなく、広く社会でサポートすべき障害であるという社会のコンセンサスがいち早く確立したアメリカで、その一方「製薬会社の企業努力」によって特に子どもの発達障害の範囲が恣意的に広げられたのでは無いかという「作られた病気」説がある程度説得力のある話しと捉えられていたり、フランスのようにADHDは教育、躾の所産であって、社会の受け止め方、有り様で根絶することができるという受け止め方な国もあるようで、地理的、文化的な影響も大きいようです。人類はADHDという存在に「やっと気付いた」ところで、まだどう捉えたら良いか戸惑っているのかな、なんて思っちゃいますね。


そもそも私が自分をADHDだ、と思うのはストラテラコンサータが「効果」を発揮したから、とか、医者がそう診断したから、ということ以上の確信は持てないでいます。

ADHDの処方薬をスマートドラッグとして使う人の存在はむしろ成人のADHDが日本でその存在を認知される以前からあるわけですし、単なる能力不足であるとか、怠け者であるとか、ADHDという属性がそうした評価の隠れ蓑でしかないんじゃないかっていう考えは、自分の中からどうしても消えない「怖い考え」だったりします。

確信としてあるのは病名では無く、自分の中に生まれてこの方存在する「生き辛さ」だけなんです。

ただ、私の主観的な「生き辛さ」に誰かがADHDという名前をつけてくれて、そのことによって誰もがとは言わないけどそうなる以前とは比べものにならないぐらい多くの人が「その状態」を比較的客観的に捉えることが出来るようになって、対処するためのノウハウが蓄積されたり、国家から公的なサポートを受けられるようにもなったわけで、突き詰めて自分の中の「怖い考え」と戦うよりは自分のQOLが現実としてここ数年で劇的にあがったことをまず素直に喜ぶべきだと、今はそう思っています。

あまり内容を踏まえたコメントになっていませんね。ごめんなさい。