読書感想文「LIFE SHIFT(ライフ・シフト)100年時代の人生戦略」について。

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

 

 

少子高齢化、人口減少、人口ピラミッドの歪化。いずれも先進国がほぼ例外なく陥る破滅に向かう「避けがたい宿命」を指し示すものとされているこれらの現象を、個人がより自由にダイナミックに生きる明るい未来への道しるべへと読み代えることを、本書は果敢に試みている。

 

 

Life Shift: Let Go and Live Your Dream: Aleta St. James: 9780743276924: Amazon.com: Books

 

原著 は2005年11月に刊行されている。

10年以上が経過しており、本書で示されている「希望の未来」は、実は一部すでに社会変革において保守的な日本でも実現している。

 

とは言え、ここで書かれていることの多くは理想主義的な夢物語と言われてもしかたがない面がある。

 

 

骨子はこうだ。

 

  • 平均寿命の上昇に伴って健康寿命も上昇する。
  • 現在の社会制度や個人の人生設計は旧来の人生70年を前提としている。
  • 想定寿命が100年になるならば、それを前提とした新しい生き方を個人は模索するべき。
  • そして社会制度や企業も変革する個人のあり方を取り込むべきだ。

 

もうちょっと詳細に述べると、

  1. 同一企業で息を詰めて働き続け、定年年齢になった時点で生産人口からすっぱり離脱する「定型的な人生」を前提とした社会制度は無駄に長い引退時代を送る世代を量産し、非合理的だ。
  2. 企業の形態や社会制度は現状を後追いするものなので変化に対しては硬直的にならざるを得ない。
  3. 個人こそが多様な人生設計を指向するべき。優秀な人材が多様な生き方の中で自分の付加価値を高めれば企業はその人材を取り込むために変革せざるを得ない。その変革は結果として社会制度の抱える矛盾の多くを解決する方向に向かう。

 

ってところ。

 

うん、こういう抜き取り方をすると青臭さが鼻につくレベルで夢物語だ(^_^;)

 

思いっきりざっくり刈り込んだけど、このまとめ方は大方間違ってはいないと思う。

 

 

結局、この話の無理のあるところは、変革のエンジン役とそのリスクを個人に求めているところだろう。

 

 

人生には色んなことが起こる。変化は希望にもなり得るが、リスクでありストレスでもある。

 

どの時代にも自分で人生を切り開く人はいるし、その中には才覚を発揮して輝ける人生を歩む人も多く存在するが、その人達が輝いているのは逆に誰にでも出来ることではないことをしているからだよね? 

 

 

 閑話休題

本書が変化の結末として描いている「ユートピア」はこうだ。

 

自由でダイナミックな来たるべき個人のライフスタイルの事例としてはこんなところがあげられている。

  • 就業前の自分探しステージがあれば、人生の初期段階で人脈や得意分野、特殊技能を得る可能性もあるし、運が良ければ起業に結びつけることも出来るよね!
  • 企業で働き詰める中では自分のスキルを更新したり、新しいスキルを習得して転身を図ることは難しいよね?途中でサバティカルとか、あるいは思い切って人生のパートナーに養ってもらってブラッシュアップしたり新しいスキルを身につけたりするステージがあってもいいよね!
  • 有能な人はスキルや人脈を駆使して独立した経済体として企業と対等なパートナーシップを結んでも良いよね!気が向いたら大きな企業に取り込まれちゃっても良いしさ。
  • 流行のシェアリング・サービスとかで副業しちゃえば経済的な自立性は高まるよね!

 

いや、ね。やってる人は過去に遡ってもやってることもあるし、この10年間で実現しつつあるように見える現象も含まれている。でも、社会制度がこういったフリーな生き方をフォローするようになるにはそれが例外的な生き方であっては成り立たないよなー。

 

 

で、仮にこんな生き方が主流になる変革が実現したら(つまり割とみんな自由に人生設計できる未来が来たら)どうなるか。

  • 人は余暇を有効活用して常に学んだり、自分のスキルや人脈を更新するようになる。現在のように組織のコマとして働き続け健康上も仕事の能力としても徐々にすり減って使い物にならなくなった時点で定年を迎える社会と違ってその社会では「使える状態」で老年期を迎え、長く現役として人生を使い切るようになる。
  • スキルを更新したり、健康を維持するためには企業が現在のように人を拘束し続けることは社会トータルとしては不合理な選択になる。つまり、皆働きすぎず、結果として多くの人に就業機会が行き渡るようになる。
  • 結果として老齢人口の比率が上がっても就業人口の減少は抑えられる。若年層の就業機会も増える。
  • そもそも余裕が増えることによって少子化だって長い目でみれば解消するかも。
  • 家庭や企業に閉じ込められる状況が減るので、多業種交流、年齢層を横断した交流が多く生まれる。縦割り思考の弊害を打破した新しいビジネスの可能性も生まれやすくなるし、世代間の断裂も解消する!
  • 多数派になる老年層も身近に若年層と交流する機会が増えることで、「若い世代の未来」のことも身近な問題として当事者意識を持って考えることができるようになるかも。

 

もう、まさにユートピアですな。万事解決。

 

 

ユートピアへの道筋を遮る問題点ももちろん指摘されている。

  • 人生の初期段階でフラフラする原資はどうすんの?
  • 企業に属していない間の経済的保障、社会保障は?
  • 相互にパートナーに養ってもらうなんて今の離婚率考えたら現実的?
  • 企業は安定的な人事構造を維持出来くてコストが上がっちゃうんじゃないの?
  • 個人、企業、社会の順に変革するって順番に無理があるんじゃない?

 

これら以外にも本書では明示的に指摘されていない問題点ももちろんある気がする。

 

そもそも、人間ってそんなに強いものなの?と個人的には思ってしまったりする。(一応本書内ではそのツッコミを想定してか、産業革命以前の人間って結構自由だったし、人間にはこのぐらいのポテンシャルはあるんじゃない?みたいな話しはされているけど、、、

 

実はこの本、随分長い時間をかけて昨日やっと読了した。購入したのは昨年12月。シナリオとして肝心な部分が中抜けしているよな、と思いつつ結果としての「ユートピア」は悪くないんだよな、という二つの思いにシーソー状態で揺られながら、肉体改造に取り組みつつ、同時並行で他の本やブログでいろんなアイデアに触れながら、日々読むと言うよりは題材にして考え続けた日々だった。

 

 

ここで妄想レベルで申し訳ないけど、私なりに「ユートピア」に至る道筋を補完してみたい。

 

やぱり現実に必要なのは「お金」の話しだと思う。お金が「安心」を裏付け、それが「勇気」を産み、「自由」を産む。

 

 

もちろん、魔法の杖は存在しないが、グラミン銀行の事例にあるように金融の力は本来社会問題を解決するためにあるものだ。。

昨今リバイバルしているFintechという言葉が最初にバズったのはもう10年以上前のことと記憶しているし、それ以来着実に新しい力が芽吹いてもいる。ユーザーである社会の側にも適切なリスクを取ることへの理解も進みつつある(「理解」している層とそうでない層の断切は進んでいるかもしれないけど、、、

 

いつ大きな変化が起こってもおかしくないのかもしれない、と個人的には期待している。

 

 

 

もうひとつ、ちょっと違う方向性の話しをしてみたい。

突飛な話しに聞こえるかもしれない。

 

Ingressというオンラインゲームがある。

最近実生活に力点を移す必要に迫られてご無沙汰になっているのだが40代になってリバイブした私の青春wを飾ってくれた存在だ。随分お世話になった。

 

個人的に私を人として再生してくれたものの一つだと思っている。

 

ポケモンGOのひな形と言われることもある、と言えば思い至る人も多いかもしれない。

 

ゲームそのものについては別に詳細に述べる機会があると思う。今回は簡単にふれるだけに留めたい。

 

特徴は「AR(現実拡張)ゲーム」である、ということ。スマホを持って近所の神社やお地蔵さん、目立つ変な看板と言った「現実にある特徴的なポイント」をゲーム上の起点としてそのポイントを2陣営に分かれて取り合いポイントを結んで三角形を作ることで陣取りゲームを行う。

 

つまり、オンラインゲームと言いつつその場に行かなければなにも起こらない(基本的には)というのが大きな特徴になる。

 

Googleの企業内スタートアップグループが立ち上げたサービスなのでゲームの盤面はGoogle Map、つまりは実際の世界だ。

 

 

当然、好むと好まざるとに関わらず人と会う機会が多くなる。別名「引きこもり強制解除サービス」というフレーズは今私が考えたが、現実に「鬱抜け」や、引きこもりの社会復帰の切っ掛けになっている(と実例である本人が言うのだから間違い無い)

 

実社会を舞台にするだけに社会との軋轢を生むこともある。突然見慣れぬ人が夜中に訪れるようになった寺社仏閣が自衛のために敷地内でのスマホ使用を禁止した例はポケモンGOでも話題になったかと思うが、当然先例として人口が少ない分インパクトは薄いながらもIngressのユーザーコミュニティーも同じような途を辿っていたりする。

 

ただ、現実を舞台することは社会の側にもメリットを生む側面もあり、イベントを打つことで集客を図ることが出来たりする。

ユーザーコミュニティを構成する人達が平均的に高いITリテラシーを持っていたり、情報感度の高い「面白い物好き」が多く集まっていたようで、ユーザー主導で「新しい文化」が形成されることもまれでは無い。

 

特に日本ではGoogleのスタッフが東北の復興に関わった縁もあって、サービス開始時から積極的に東北を盛り上げることを命題としたイベントが組まれたりした。

 

日本各所でこのゲームのイベントに参加することに面白みを見出していた私は、去年のゴールデンウィークから計2回、岩手の一関市を中心に活動するグループのイベントに参加し、グループを構成する皆さんと交流する機会を得た。

 

様々な業種、年齢で構成されているのは全国どこでもみられる光景ではあったが、ゲームの作った大きなムーブメントを現実の復興の流れに結びつけたいという強い意志を感じた。

 

例えば、ユーザーはエージェントと呼ばれ、ゲーム内ではプライバシーに配慮する必要があることもあって、本名ではなくエージェントネームで呼び合うことが通例になっているのだが、東北では概ねフェイスブックを媒体として実名で告知を打ったり交流をしたりすることが多いようだ。

 

ゲーム内での「顔」を自分のビジネスの「看板」としてリアルに機能させる人達がいる。

 

ただゲームを利用している訳ではなく、手弁当、あるいは身銭を切ってビジネス上の資産をゲーム内のイベントのために提供したりもするわけで、その点ウィンウィンのバランス感覚がなければいまだ「儲け」の匂いに敏感なネット民の信頼は得られないことは言うまでも無い。

 

リアルとの絡みは、ユーザーのビジネスに留まらず既存のイベントとの相乗効果を狙ったゲームイベントなんてのも「常套手段」、地元の商店街や自治体とのタイアップも珍しくはない。一関のイベント自体、文化センターとのタイアップ、エージェントでもある市役所職員さんが二つの世界を見事に結びつけた成果だった。

 

地道な話しでは、地元のおばちゃん達にファングッズの製作を依頼したりなんてほほえましい?エピソードも。

 

私個人の経験で言えば東北以外にも長野県上田市や準地元岐阜市のユーザーグループと交流する機会があったが、それも全国レベルで言えば当然氷山の一角。イベントを如何に地元の盛り上げにつなげるか、全国でまるでコンテストでもするかのように競われている状況は、実は今も続いていたりする。

 

 

それでいて、ここが一番印象に残っているのだが、みんな、「いいこと」を頑張ってしているなんて感じさせない、文化祭前日みたいな楽しさと気楽さで取り組んでいた。

 

 

本書で描かれるユートピアの姿を思い描いたとき、私の頭の中ではいい歳した大人達がよってたかって大人げない働きぶりで夢を形にしていったあの光景を思い出さずにはいられなかった。

 

 

一過性のお祭り、しょせんは遊びと言われればそう。

でも、この形態は本書で描かれているユートピアにいたる「中間形態」として有効な形を示しているんじゃないかと私には思える。

 

「遊び」であっても大人が大人げなく力を集めたときどれだけのパワーが発生するのか。そのことを身をもって知ることが出来なかったら、私は本書の描いた未来をただの絵物語と捉えたかもしれない。

 

 

もちろん、ビジネスとボランティアは違う。実際Ingress界隈にも「コンサルタント」「フィクサー」的な動きをする人がかなり初期からいたのだが、実態としてどうかはともかくとして「胡散臭い人」扱いされる場面が少なからずあった。地元の盛り上げとゲームのスポンサーとの利益相反なんていう「大人の事情」が出てきたりすれば、純粋な想いで取り組んでいる人ほどシラケたりもする。

 

 

 実際にその渦中に身を置いてリアルに感じた「問題点」で言えばもう一つ、ボランタリーな共同体は企業体とは比較にならないほど人の出入りが激しいということ。面子もそうだが、組織の体質もあっというまに変わっていく。

 

より自由で柔軟な組織体を指向する本書の描く未来では、そのことが事業の継続性、組織のモチベーションの維持などで脅威になるかもしれない。

 

これからのことということで言えば、あのムーブメントを一つの事例として研究対象にすることで、今後にそのDNAをつなげることと同時に、冷静に利点と問題点を検証することも必要なことだろう。

 

 

本書が私に大きく響いたのは、良くも悪くもあの夢のような日々を与えてくれたコミュニティに属する栄誉に預かることができた経験が大きく影響していることは間違いない。奇しくも原書が刊行されてから私がこの本に出会うまでの間に大きな一つの可能性が花開いていたのだから。