救いはそれぞれの人にある、のかもしれない。

 

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この3月までの1年間、似たようなことを自分の身の上話として体感しました。

もちろん自分は無能な側で。


もう異動してしまったお手本になってくれた人は、とてもひょうひょうと仕事をする人でした。

それまでの私は裏の裏まで読んで、出来の悪い中でも理想を目指して120%で仕事をしているつもりでした。が、その人の姿勢を見て自分のなにが間違っていたか、その欠片を理解することができました。

 

欠片だけでも劇的でした。


今でも100%にも届いていないと思いますが、少なくとも「自分で自分に重しをつけることは良くないことだ」ということを理解し、そういう方向に進みそうな自分を修正できるようになりました。

 

「可能な限り簡単に。」

「深刻にならずに、軽やかに。」

 

今でも、深みに落ちそうになる度に”教え”を呪文のように心で唱えています。

 

 


問題点は人それぞれです。

私のように足りない部分を持ち合わせた「メンター」と出会う僥倖に巡り会う人ばかりでは無いと思います。

 

でも、一歩引いて事実を捉え直してみると、もっと普遍的でどんな状況の誰にでも適用され得る教えも、昨年度の経験から読み取れるかもしれないと、この一文を読んで新たに気付きました。

 

 

僕が体験したこととこの話には大きな違いがありまして。

お手本になってくれた人は実際僕の3倍働いていたと思います。

その上で、私も、その他の職場の仲間も、皆その人の「余裕」に救われていました。

 

たった一人の持つ余裕が、職場に会話をもたらし、その会話に乗って職場のメンバーそれぞれの持つ知見が、ノウハウとして流通したのです。

流通したのは知見だけではなくて。

明るさだったり、開き直る思考パターンだったり。思いやりの心だったり、仲間として認め合う気持ちであったり。

 

仕事量1/3だった私も、その人が人として等価に扱ってくれることによって随分活かされたと思います。

 

そして、ともすればこれまでのように卑屈になってもおかしくなかった私の矜持は、そのことで救われていた、とも思います。

 

 

 

 

この4月から状況は一転し、彼女の代わりに経験不足な若手がやってきました。

 

彼女の教えを救いにしつつも、僕が急にスーパーになれるわけでも無く。

今はプライベートを削りながら、去年の倍の仕事をなんとかこなしています。

 

自分の限界はそこまで来ているんじゃ無いかという恐れ。

足を引っ張っているように思えてしまう上司。

頑張っているのは判るけど明らかに空回りしている若手。

自分が動かなくては状況が一寸も先に進んでいかないような錯覚。

 

一寸先には闇が横たわっているかもしれないという漠とした不安を感じていました。

でも、この一文に出会い、昨年度の経験を改めて読み解くことで今は、「救いは、もしかしたら自分の中にあるのかもしれない」と感じています。

 

あんな風に出来た人間にはなれない、ではなく。

自分の力が足りないからこそ、みんなの力を活かせるように。

そこにこそ、光の差す方に抜ける道はあるのかもしれない。

 

 

 

週明けとともにやってくる喧噪のなか、この悟りがいつまで持つのか、あるいは突然闇は開けるのか。

 

どん底に落ちる手前の闇の予感の段階で気付きに出会えたこと。そのことこそが吉兆であると信じて、来週に立ち向かおうと思います。