愛国者みたいなことを自称する人達について考えてみた話し。

好むと好まざると愛妻家と呼ばれてしまう人がいる。
世の中にはなんなくこの肩書きを背負ったまま一生を終える人もいる一方、
「人生のある時点で私は愛妻家だった」
という述懐は婚歴のある男性の大多数にとって真理であるという事実が「愛妻家」という言葉の持つ呪いの力の強さを示してもいる。


「愛している」、という言葉がどんな心の有り様を表しているのか、それは万人に通じる言葉でありながら、恐らく一人の人間の頭の中でも時間の経過とともに揺れ動く決して「捉えられない」有り様を表しているからこそ、人はその言葉に一人勝手に無限の価値を見出すものなのかもしれない。

 


「生まれ育った故郷」であったり「自分の出自に縁のある文化」を愛している、と表明する人達がいる。

この人と決めて誰かを変わらずに愛しつづけることと比べれば、これは特段に称揚されることではない。
大抵の人間は比較において故郷や自分の出自に関わりの深い文化をより愛してしまうものだ。
幼児期の苛烈な体験からの逃避や回心的な他文化との邂逅を経て身も心も「改宗」してしまう人は、この技術が際限なく距離の概念の質量を削り続けている時代においても少数派と言える。
他国に居を構え、他文化に染まったところで自分の出自を全く忘れてしまうことは難しい。
むしろ故郷やそれにまつわる文化との関わりは人の心を捉えて放さない鎖のようなものであり、合理的な判断を阻む「認知の歪み」の大元と言えなくも無い。

 


そして、私は思うのだけれど。
果たして「人」はそのような「腐れ縁」に対して「愛する」という言葉が表す心持ちで一生対することができる存在なのだろうか。

少なくとも、何かを愛することを自分のイデオロギーとして表明する覚悟をした者は最低限「愛妻家」のレッテルを貼られた人と同じ程度、いや、自称している分より多くの覚悟を背負うべきなのではないか。

 

 

「愛する」という心持ちの不安定さは誤解と紙一重とも言えるかもしれない。一夫一妻制が制度上の建前である以上、愛妻家が「誤解に基づいて」妻を愛することには何ら問題がない。しょせん二人の問題であり、その誤解はなんら社会に害をもたらさない。むしろ、そのさまを人はほほえましく思う。

 

が、何かを愛していることを看板として掲げ、万人にその愛をつらつらと語っている人が、愛の対象を「美しく誤解」していたとしたら。その「語る」という行為にはなにか意味があるのだろうか。

 


最近、とみにどの国と言わずその国を愛しているとことさらに表明する人物ほど正しくその国の言葉を使えていない傾向があるように思える。

果たして、その人達が「愛している」と標榜している「なにか」は、私たちがその言葉から想起する「なにか」と同じものなのだろうか。


なにより、「何かを愛する」、ということは標榜すべき何かなのだろうか。

 

世間が評価する以前に「愛妻家」の看板を掲げ、「私が如何に愛妻家なのか」というテーマで語り出す人がいたとしたら、あなたはその人をどう評価しますか。