「追い突っ込み」による「コラテラルダメージ」に関する観察例について。

以前信頼する同僚であるところの「姐さん」を紹介した。

 

ukkiemf.hatenablog.com

 

今回、職場で起こったドラマを紹介するに当たって改めて私の職場の仲間を紹介しよう。

私の右側に90度角度を違えて座っているのは「ボス」。50代半ばのベテランで私の上司だ。


「やむを得ない」を「やむぉーえまい」と言いにくそうに言ったりする面があるが、書類仕事に関してはなかなかの目利きでそもそも書類仕事に向いていない私の書類を真っ赤に添削してくれるありがたい存在だ。(ADHD持ちとしてはマジでありがたい。

眼の前に座っているのは4月からの同僚、「サワヤカ君」。
30代半ばのスポーツマン。ちなみに5月の連休明けに入籍したばかりの新婚さんだ。正社員である。

左隣にはあの「姐さん」。
サワヤカ君よりちょっと人生のベテランの2児の母。
パートさんながら正社員一人前以上の働きと気さくな人柄でまさに「姐さん」と呼ぶに相応しい職場内心理的ポジションを獲得している。

サワヤカ君の右隣、私の左向かいには、サワヤカ君より1月早い3月からの新参メンバーである「姉さん」。


バブル景気の盛りを社会人として経験している私より微妙に人生の先輩であり、それでいて衰えを感じさせない美貌の持ち主でもある。こちらも2児の母で中山道筋に店を構える老舗の奥方でもある。パートさんだ。


さて、「姉さん」はとある演技系の競技で全国レベルの選手だったというキャリアの持ち主で、その美貌もあいまってトーシューズに画鋲を入れる等の工作など弄さなくても自然にスクールカーストの頂点に立っていただろう人だ(と私は勝手に思っている。

正直、最下層民だった私としては彼女のキャリアを聞いた時点で警戒心を持って迎えざるをえなかったが、実はドジっ子属性を持っていたりする気さくで、そして性格の良い方だった。そもそも全国レベルの選手になれるぐらいの人だから「努力」する才能ももっているだろうし、社会性があるからこそ華やかな地位に居られるという面もあるだろうしね。

だが、一方で彼女には少々お嬢様気質なのかな、という一面もある。

 

ボスが理不尽な業務命令をだしたりするとあからさまにムスッとしたり(ま、私ならムッとするどころか喰ってかかるのでその影響かもしれないが(^_^;)、実は仕事のラインが私とは違うのだが私には判らない事を訊かれた際、「ごめんなさい、それは僕では答えられないな」と答えると涙目になっちゃったりしたことがあったりで、職場に溶け込むまではキチンとフォローしていかないとヤバイ気配があったりした。

そんなわけで彼女のラインの業務ソフトやメール環境の整備など、この4月ぐらいから私の手がけた業務改善と言えるようなものは本業では無い「姉さん」の仕事に付随する物だったりした。

そのラインに属する唯一の引き続き勤務している人であるボスが彼女が引き継ぎするまで前任者にお任せだったこともあり、結局姉さんをフォローしているうちに私が段々その業務に精通してしまい、5月辺りからは仕事の内容にも口出しするようになってしまったのはADHD的な情報の出入りに歯止めが利かない気質の弊害と言える。いかんなーと思いつつも会話が耳に入ってくると突っ込まずにはいられない。

同じく本来業務は私と同じラインの姐さんもベテランらしく姉さんのフォローには人一倍気を遣っている様子だった。


そんな皆の地道な努力の甲斐もあって、職場の空気は良好で、あまり共通する話題もなさそうな集団にも関わらずお昼休みには会話の花が咲くようになってきた。(ちなみにボスは昨年度から絶対その輪には入ってこないのだが、、、


今日のお昼は「腰痛になった姐さんの息子」の話しからスタート。

息子をサッカーの試合へ送迎するために高速に乗ったという話しの辺りから軸が「かつて自分がのっていた車」にシフトしていく。

ドジっ子属性がありながら車とドライブが大好きな姉さんが話しを引き継ぎリードしていく。

姉さんのリードで「自分の車」から話題は多少脱線して、「かつて名古屋の叔父さんに黒のセルシオを借りて名古屋高速を走っていたとき」なんてエピソードに。


「左車線でゆっくり走っていたんですけど、なぜか皆さん私の車を除けていくんですよね」

うん、突っ込み待ちですよね。

ところで私には「突っ込み嚥下不良」とも言うべき特性がありまして。
「隙」を見つけると突っ込まずにはいられないのです。

が、姉さんには例のちょっと気をつけてあげないといけない一面もある。無思慮な突っ込みは思わぬ反応を引き出すことにもなりかねない。

私は会話の流れの中で突っ込みのタイミングを逃さないよう、無い頭を必死にフル回転させて、姉さんに最大限の配慮をした(つもりの)突っ込みをいれた。

「いやー、姉さんみたいな美人さんがそんな車に乗っていたら、そりゃ見た人はいろんなドラマを想像しちゃうよね!」

我ながら際どい。が、その瞬間姉さんの意識が「美人さん」という言葉に囚われたのか、ナチュラルな笑顔が出ている。成功だ!と思った瞬間。

「姉さん、そりゃ『極妻』じゃないですか!」ハッハッハッハー(サワヤカに

という被せるようなサワヤカ君の追い突っ込みが、、、

 

努めて冷静さを保ちながらもさっとお手洗いに立ち上がってしまった姉さん。

揃って下を向いてしまった私と姐さん。

正直、そのあとサワヤカ君がどうしていたのか余り記憶がない。

ただ、これほど実感を伴って「コラテラルダメージ」という言葉が脳内にリフレインした瞬間はなかったと思う。

 

ネタとしてはファンタスティックなんだけどね(^_^;)

切り抜き的ADHD論。

Google+という、ぎりぎりメジャーと言えなくもない、でもあまり一般的ではないSNSがオンラインでは私の「主戦場」だったりします。

 

その中で、とある最近自分はADHDではないかとの疑念を持たれた方の投稿へのコメントを書いたところ、比較的今の自分の中にあるADHDという言葉と自分との関わり方というか、今自分がこうで、ADHDについてこう思っている、ということについて過不足無くまとめられたな、と思ったので切り貼りしておきます。

 

初出はこちら

plus.google.com

自分がファーストコメント出した状態で書いていますので、議論の流れがどうなるかとか、想定できない段階なのですが、興味のある人は「今後の展開」も併せて追っていただいた方が私という狭い思考世界に限定された話しよりはマシな考えに触れることができるかもしれません。

 

 

情報という面だけとっても、入力も出力も恐らく人類史上最高という状態で、それだけでもADHDにとっては苦痛な状況と言えなくもないはないですよね。

人間の質の変化より社会の質の変化のスピードが速いことを考えれば、ADHDという考え方自体が相対的なものだとするのはむしろ当たり前のことかもしれません。

時間軸上のことだけでなく、広く社会でサポートすべき障害であるという社会のコンセンサスがいち早く確立したアメリカで、その一方「製薬会社の企業努力」によって特に子どもの発達障害の範囲が恣意的に広げられたのでは無いかという「作られた病気」説がある程度説得力のある話しと捉えられていたり、フランスのようにADHDは教育、躾の所産であって、社会の受け止め方、有り様で根絶することができるという受け止め方な国もあるようで、地理的、文化的な影響も大きいようです。人類はADHDという存在に「やっと気付いた」ところで、まだどう捉えたら良いか戸惑っているのかな、なんて思っちゃいますね。


そもそも私が自分をADHDだ、と思うのはストラテラコンサータが「効果」を発揮したから、とか、医者がそう診断したから、ということ以上の確信は持てないでいます。

ADHDの処方薬をスマートドラッグとして使う人の存在はむしろ成人のADHDが日本でその存在を認知される以前からあるわけですし、単なる能力不足であるとか、怠け者であるとか、ADHDという属性がそうした評価の隠れ蓑でしかないんじゃないかっていう考えは、自分の中からどうしても消えない「怖い考え」だったりします。

確信としてあるのは病名では無く、自分の中に生まれてこの方存在する「生き辛さ」だけなんです。

ただ、私の主観的な「生き辛さ」に誰かがADHDという名前をつけてくれて、そのことによって誰もがとは言わないけどそうなる以前とは比べものにならないぐらい多くの人が「その状態」を比較的客観的に捉えることが出来るようになって、対処するためのノウハウが蓄積されたり、国家から公的なサポートを受けられるようにもなったわけで、突き詰めて自分の中の「怖い考え」と戦うよりは自分のQOLが現実としてここ数年で劇的にあがったことをまず素直に喜ぶべきだと、今はそう思っています。

あまり内容を踏まえたコメントになっていませんね。ごめんなさい。

 

読書感想文「LIFE SHIFT(ライフ・シフト)100年時代の人生戦略」について。

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

 

 

少子高齢化、人口減少、人口ピラミッドの歪化。いずれも先進国がほぼ例外なく陥る破滅に向かう「避けがたい宿命」を指し示すものとされているこれらの現象を、個人がより自由にダイナミックに生きる明るい未来への道しるべへと読み代えることを、本書は果敢に試みている。

 

 

Life Shift: Let Go and Live Your Dream: Aleta St. James: 9780743276924: Amazon.com: Books

 

原著 は2005年11月に刊行されている。

10年以上が経過しており、本書で示されている「希望の未来」は、実は一部すでに社会変革において保守的な日本でも実現している。

 

とは言え、ここで書かれていることの多くは理想主義的な夢物語と言われてもしかたがない面がある。

 

 

骨子はこうだ。

 

  • 平均寿命の上昇に伴って健康寿命も上昇する。
  • 現在の社会制度や個人の人生設計は旧来の人生70年を前提としている。
  • 想定寿命が100年になるならば、それを前提とした新しい生き方を個人は模索するべき。
  • そして社会制度や企業も変革する個人のあり方を取り込むべきだ。

 

もうちょっと詳細に述べると、

  1. 同一企業で息を詰めて働き続け、定年年齢になった時点で生産人口からすっぱり離脱する「定型的な人生」を前提とした社会制度は無駄に長い引退時代を送る世代を量産し、非合理的だ。
  2. 企業の形態や社会制度は現状を後追いするものなので変化に対しては硬直的にならざるを得ない。
  3. 個人こそが多様な人生設計を指向するべき。優秀な人材が多様な生き方の中で自分の付加価値を高めれば企業はその人材を取り込むために変革せざるを得ない。その変革は結果として社会制度の抱える矛盾の多くを解決する方向に向かう。

 

ってところ。

 

うん、こういう抜き取り方をすると青臭さが鼻につくレベルで夢物語だ(^_^;)

 

思いっきりざっくり刈り込んだけど、このまとめ方は大方間違ってはいないと思う。

 

 

結局、この話の無理のあるところは、変革のエンジン役とそのリスクを個人に求めているところだろう。

 

 

人生には色んなことが起こる。変化は希望にもなり得るが、リスクでありストレスでもある。

 

どの時代にも自分で人生を切り開く人はいるし、その中には才覚を発揮して輝ける人生を歩む人も多く存在するが、その人達が輝いているのは逆に誰にでも出来ることではないことをしているからだよね? 

 

 

 閑話休題

本書が変化の結末として描いている「ユートピア」はこうだ。

 

自由でダイナミックな来たるべき個人のライフスタイルの事例としてはこんなところがあげられている。

  • 就業前の自分探しステージがあれば、人生の初期段階で人脈や得意分野、特殊技能を得る可能性もあるし、運が良ければ起業に結びつけることも出来るよね!
  • 企業で働き詰める中では自分のスキルを更新したり、新しいスキルを習得して転身を図ることは難しいよね?途中でサバティカルとか、あるいは思い切って人生のパートナーに養ってもらってブラッシュアップしたり新しいスキルを身につけたりするステージがあってもいいよね!
  • 有能な人はスキルや人脈を駆使して独立した経済体として企業と対等なパートナーシップを結んでも良いよね!気が向いたら大きな企業に取り込まれちゃっても良いしさ。
  • 流行のシェアリング・サービスとかで副業しちゃえば経済的な自立性は高まるよね!

 

いや、ね。やってる人は過去に遡ってもやってることもあるし、この10年間で実現しつつあるように見える現象も含まれている。でも、社会制度がこういったフリーな生き方をフォローするようになるにはそれが例外的な生き方であっては成り立たないよなー。

 

 

で、仮にこんな生き方が主流になる変革が実現したら(つまり割とみんな自由に人生設計できる未来が来たら)どうなるか。

  • 人は余暇を有効活用して常に学んだり、自分のスキルや人脈を更新するようになる。現在のように組織のコマとして働き続け健康上も仕事の能力としても徐々にすり減って使い物にならなくなった時点で定年を迎える社会と違ってその社会では「使える状態」で老年期を迎え、長く現役として人生を使い切るようになる。
  • スキルを更新したり、健康を維持するためには企業が現在のように人を拘束し続けることは社会トータルとしては不合理な選択になる。つまり、皆働きすぎず、結果として多くの人に就業機会が行き渡るようになる。
  • 結果として老齢人口の比率が上がっても就業人口の減少は抑えられる。若年層の就業機会も増える。
  • そもそも余裕が増えることによって少子化だって長い目でみれば解消するかも。
  • 家庭や企業に閉じ込められる状況が減るので、多業種交流、年齢層を横断した交流が多く生まれる。縦割り思考の弊害を打破した新しいビジネスの可能性も生まれやすくなるし、世代間の断裂も解消する!
  • 多数派になる老年層も身近に若年層と交流する機会が増えることで、「若い世代の未来」のことも身近な問題として当事者意識を持って考えることができるようになるかも。

 

もう、まさにユートピアですな。万事解決。

 

 

ユートピアへの道筋を遮る問題点ももちろん指摘されている。

  • 人生の初期段階でフラフラする原資はどうすんの?
  • 企業に属していない間の経済的保障、社会保障は?
  • 相互にパートナーに養ってもらうなんて今の離婚率考えたら現実的?
  • 企業は安定的な人事構造を維持出来くてコストが上がっちゃうんじゃないの?
  • 個人、企業、社会の順に変革するって順番に無理があるんじゃない?

 

これら以外にも本書では明示的に指摘されていない問題点ももちろんある気がする。

 

そもそも、人間ってそんなに強いものなの?と個人的には思ってしまったりする。(一応本書内ではそのツッコミを想定してか、産業革命以前の人間って結構自由だったし、人間にはこのぐらいのポテンシャルはあるんじゃない?みたいな話しはされているけど、、、

 

実はこの本、随分長い時間をかけて昨日やっと読了した。購入したのは昨年12月。シナリオとして肝心な部分が中抜けしているよな、と思いつつ結果としての「ユートピア」は悪くないんだよな、という二つの思いにシーソー状態で揺られながら、肉体改造に取り組みつつ、同時並行で他の本やブログでいろんなアイデアに触れながら、日々読むと言うよりは題材にして考え続けた日々だった。

 

 

ここで妄想レベルで申し訳ないけど、私なりに「ユートピア」に至る道筋を補完してみたい。

 

やぱり現実に必要なのは「お金」の話しだと思う。お金が「安心」を裏付け、それが「勇気」を産み、「自由」を産む。

 

 

もちろん、魔法の杖は存在しないが、グラミン銀行の事例にあるように金融の力は本来社会問題を解決するためにあるものだ。。

昨今リバイバルしているFintechという言葉が最初にバズったのはもう10年以上前のことと記憶しているし、それ以来着実に新しい力が芽吹いてもいる。ユーザーである社会の側にも適切なリスクを取ることへの理解も進みつつある(「理解」している層とそうでない層の断切は進んでいるかもしれないけど、、、

 

いつ大きな変化が起こってもおかしくないのかもしれない、と個人的には期待している。

 

 

 

もうひとつ、ちょっと違う方向性の話しをしてみたい。

突飛な話しに聞こえるかもしれない。

 

Ingressというオンラインゲームがある。

最近実生活に力点を移す必要に迫られてご無沙汰になっているのだが40代になってリバイブした私の青春wを飾ってくれた存在だ。随分お世話になった。

 

個人的に私を人として再生してくれたものの一つだと思っている。

 

ポケモンGOのひな形と言われることもある、と言えば思い至る人も多いかもしれない。

 

ゲームそのものについては別に詳細に述べる機会があると思う。今回は簡単にふれるだけに留めたい。

 

特徴は「AR(現実拡張)ゲーム」である、ということ。スマホを持って近所の神社やお地蔵さん、目立つ変な看板と言った「現実にある特徴的なポイント」をゲーム上の起点としてそのポイントを2陣営に分かれて取り合いポイントを結んで三角形を作ることで陣取りゲームを行う。

 

つまり、オンラインゲームと言いつつその場に行かなければなにも起こらない(基本的には)というのが大きな特徴になる。

 

Googleの企業内スタートアップグループが立ち上げたサービスなのでゲームの盤面はGoogle Map、つまりは実際の世界だ。

 

 

当然、好むと好まざるとに関わらず人と会う機会が多くなる。別名「引きこもり強制解除サービス」というフレーズは今私が考えたが、現実に「鬱抜け」や、引きこもりの社会復帰の切っ掛けになっている(と実例である本人が言うのだから間違い無い)

 

実社会を舞台にするだけに社会との軋轢を生むこともある。突然見慣れぬ人が夜中に訪れるようになった寺社仏閣が自衛のために敷地内でのスマホ使用を禁止した例はポケモンGOでも話題になったかと思うが、当然先例として人口が少ない分インパクトは薄いながらもIngressのユーザーコミュニティーも同じような途を辿っていたりする。

 

ただ、現実を舞台することは社会の側にもメリットを生む側面もあり、イベントを打つことで集客を図ることが出来たりする。

ユーザーコミュニティを構成する人達が平均的に高いITリテラシーを持っていたり、情報感度の高い「面白い物好き」が多く集まっていたようで、ユーザー主導で「新しい文化」が形成されることもまれでは無い。

 

特に日本ではGoogleのスタッフが東北の復興に関わった縁もあって、サービス開始時から積極的に東北を盛り上げることを命題としたイベントが組まれたりした。

 

日本各所でこのゲームのイベントに参加することに面白みを見出していた私は、去年のゴールデンウィークから計2回、岩手の一関市を中心に活動するグループのイベントに参加し、グループを構成する皆さんと交流する機会を得た。

 

様々な業種、年齢で構成されているのは全国どこでもみられる光景ではあったが、ゲームの作った大きなムーブメントを現実の復興の流れに結びつけたいという強い意志を感じた。

 

例えば、ユーザーはエージェントと呼ばれ、ゲーム内ではプライバシーに配慮する必要があることもあって、本名ではなくエージェントネームで呼び合うことが通例になっているのだが、東北では概ねフェイスブックを媒体として実名で告知を打ったり交流をしたりすることが多いようだ。

 

ゲーム内での「顔」を自分のビジネスの「看板」としてリアルに機能させる人達がいる。

 

ただゲームを利用している訳ではなく、手弁当、あるいは身銭を切ってビジネス上の資産をゲーム内のイベントのために提供したりもするわけで、その点ウィンウィンのバランス感覚がなければいまだ「儲け」の匂いに敏感なネット民の信頼は得られないことは言うまでも無い。

 

リアルとの絡みは、ユーザーのビジネスに留まらず既存のイベントとの相乗効果を狙ったゲームイベントなんてのも「常套手段」、地元の商店街や自治体とのタイアップも珍しくはない。一関のイベント自体、文化センターとのタイアップ、エージェントでもある市役所職員さんが二つの世界を見事に結びつけた成果だった。

 

地道な話しでは、地元のおばちゃん達にファングッズの製作を依頼したりなんてほほえましい?エピソードも。

 

私個人の経験で言えば東北以外にも長野県上田市や準地元岐阜市のユーザーグループと交流する機会があったが、それも全国レベルで言えば当然氷山の一角。イベントを如何に地元の盛り上げにつなげるか、全国でまるでコンテストでもするかのように競われている状況は、実は今も続いていたりする。

 

 

それでいて、ここが一番印象に残っているのだが、みんな、「いいこと」を頑張ってしているなんて感じさせない、文化祭前日みたいな楽しさと気楽さで取り組んでいた。

 

 

本書で描かれるユートピアの姿を思い描いたとき、私の頭の中ではいい歳した大人達がよってたかって大人げない働きぶりで夢を形にしていったあの光景を思い出さずにはいられなかった。

 

 

一過性のお祭り、しょせんは遊びと言われればそう。

でも、この形態は本書で描かれているユートピアにいたる「中間形態」として有効な形を示しているんじゃないかと私には思える。

 

「遊び」であっても大人が大人げなく力を集めたときどれだけのパワーが発生するのか。そのことを身をもって知ることが出来なかったら、私は本書の描いた未来をただの絵物語と捉えたかもしれない。

 

 

もちろん、ビジネスとボランティアは違う。実際Ingress界隈にも「コンサルタント」「フィクサー」的な動きをする人がかなり初期からいたのだが、実態としてどうかはともかくとして「胡散臭い人」扱いされる場面が少なからずあった。地元の盛り上げとゲームのスポンサーとの利益相反なんていう「大人の事情」が出てきたりすれば、純粋な想いで取り組んでいる人ほどシラケたりもする。

 

 

 実際にその渦中に身を置いてリアルに感じた「問題点」で言えばもう一つ、ボランタリーな共同体は企業体とは比較にならないほど人の出入りが激しいということ。面子もそうだが、組織の体質もあっというまに変わっていく。

 

より自由で柔軟な組織体を指向する本書の描く未来では、そのことが事業の継続性、組織のモチベーションの維持などで脅威になるかもしれない。

 

これからのことということで言えば、あのムーブメントを一つの事例として研究対象にすることで、今後にそのDNAをつなげることと同時に、冷静に利点と問題点を検証することも必要なことだろう。

 

 

本書が私に大きく響いたのは、良くも悪くもあの夢のような日々を与えてくれたコミュニティに属する栄誉に預かることができた経験が大きく影響していることは間違いない。奇しくも原書が刊行されてから私がこの本に出会うまでの間に大きな一つの可能性が花開いていたのだから。  

 

自分で確保しなければなにかをするための時間は永遠にやってこない。

いや、表題のとおりでそれ以上はなにもないんだけど。

今からクダクダと書き続けるのはそんな内容だ。

 

貴重な時間を使ってこの文章を読む気になった人は最初からそのことを覚悟して欲しい。

 

 

実は私がこの事実に気付いたのはこの5月のことだった(って今月やないか

 

 

「後でしよう」というのはADHDの得意技の一つだと思う。

少なくとも私はそうだった。

 

筋金入りで、例えば30分以上作業時間がかかるようなことを後伸ばしにする習慣はほぼ物心ついてから。だが、それはまだ自覚がある分マシですらあったと思う。

 

例えば、メモを取ること。

あるいは、今使った物を元あった場所に戻すこと。

すぐ済むと思って後回しにしたちょっとだけ苦手な作業達。

  

出来る気配もない。

 

コツを聞くのも恥ずかしくなるような簡単なことのはずなのに出来ない。

できない自分にはなにか人にはないよく分からない欠陥があるんじゃないかと思ったり。

例えば、見当識障害みたいな。

(いや、実際私にはとっさの時に左右の見当識を失う傾向があったりするのだけど。

 

なにかコツがあるんじゃないかと思って鍵を探し続けた。

 

西に裏技があると聞けば教えを請いに行くのは面倒くさいのでサイトを探して読み、

東に超絶便利なアイテムがあると聞けばネットで探して買い、みたいな日々。

 

実際、技術的な改善は必要だった。

例えばメモをとっても物理的にメモを残すことができないというのは技術的な問題だった。

メモ帳自体が身につかない。

気付いたらどこかにいってしまう。

 

スマホをもつようになったのが一つのブレークスルーだったかもしれない。

 

でも、スマホEvernoteの組み合わせで(迷子になる可能性はあっても)ほぼ確実にどこかにメモが残る体制が整っても実際メモを取る習慣は出来なかった。

 

 

結局、仕事で余裕が出来たことが気付きの切っ掛けとなった。

 

で、表題に戻る。

 

全ては、ちゃんと時間を確保すればできること、であった。

 

実際のところ、判ったからと言って全て解決したわけではない。

今のところ方向性がわかっただけだ。

 

すぐ出来る、のすぐは「ゼロ秒」ではない。

例え目の前にいる誰かを待たせることになっても、他に大事な仕事があっても、時間が無くて締め切りが眼の前でも。必要なことにはゼロではなく、ちゃんと時間を用意しなくてはならない。そんな当たり前のこと。

 

もう一つ言えば、すぐ出来ることは些末なことでは無い。

世界は、自分の人生は、些末なことの組み合わせで出来ている。

些末に見えてとても大切な欠片で。

 

仕事でも同じだった。

本当に無意味な仕事なんてものも実在するのだけど、つまらなく見えても大抵の仕事には意味がある。それも、余裕ができたからこそだった。余裕がなければ鳥瞰的にみることはできない。

全部を見渡すことができれば、大抵のことには意味を見つけることが出来る。

仕事なんだから意味なんてなくてもやるんだよ、と言うのが正論だ。

 

だが、意味のない仕事に振る時間なんて、最初から本当になかったのだ。

 

判っても出来ないのは、私の時間が一日につき24時間しか与えられていないからだ。

ADHDであることの苦しみの本質は、、、

 

いや違うな。

 

私の苦しみの本質は、抱えきれないほど大切なことを抱えていることだった。

 

どれだけ効率を上げても全てのことはこなせない。

 

ショートスリーパーになりたいとか、マルチタスカーになりたいとか。

 

裏目に出てADHDを悪化させることばかりしてきたのも、結局は足りない時間をやりくりしたいと言う願望が故だったと思う。

 

結局そのせいで、膨大な時間を失うことになったのだけど。

 

 

人と同じだけあったはずの私の時間が人より少なく思えたのも自分の願望に拍車をかけた。

ADHDであることの非効率さが、つまり自分の性能の悪さが一つ。

 

もう一つ、気付いたことがある。それは自分の認知の歪みだ。

 

それは「索引」に対する評価が低いこと。

物や情報が迷子になるのは、索引がないからだ。

索引があれば人生の効率は何倍にもあがる。

「索引」は内容と同じぐらい大切だ。

 

 

考えてみれば、索引を作るという本来大切にすべき手順をすっ飛ばすようになったのも、足りない時間を補うために編み出したショートカット法なのだと思う。浅薄という言葉が相応しい。物心もついていないころの自分に投げかけるのは、心苦しいけどね。

 

 

 

「急がば廻れ」

そんな、特に探すまでも無く自分の中でも常識だった、当たり前に思っていたことがなによりも自分の人生を改善する魔法の「秘訣」だったのだ。

 

 

当たり前すぎて、普通の人にはネタに思える文章かも知れない。

ADHD脱出に関する示唆になるのかも判らない。

読み返すと自分自身がとてつもないバカに思える(実際そうなんだろう

 

でもまあ、このくだらない気付きこそが今の私に取って「記録」するのに相応しい「記憶」の大切な欠片なのだ。

 

 

ある日、姐さんが事件だった話し。

同僚のなかで私が一番仲良しだと(勝手に)思っているのは隣の席の30代女性だ。

中2の息子と小3の娘のお母さんである。

私より10程若いこともあるけど、おばさんと呼ぶのがそんなに相応しくなく感じる。

私は密かに「姐さん」と呼んでいる(心の中で

 

パートさんなんだけど仕事の出来る人で私なんかより今の仕事にずっと適性があると思う。

頭の回転の速さと生真面目さが同居していて、それこそ姉御キャラで年上にも年下にも同じぐらいの歳の同性にも好かれる性格的にも申し分のない人だ。

 

そんな彼女にも弱点がある。

とにかく打たれ弱い。些細な失敗でもとても重大に受け止め、精神的な落ち込みを一人で解消できない。

あの生真面目さは失敗を恐れるが余りなのかも知れないと思うほど。

 

4月から面子がだいぶ変わったのだが、とにかくうちの職場は風通しが良い。失敗を誰もため込まず、判明した瞬間に皆で共有してあっというまに解消してしまう。

4月からはそこまで出来ているのか若干不安もあるのだが、私にとってはその空気がとても心地よく、なんとか4月からの体制もそうできたら良いなと切に願い努力しているほどだ。

 

あるいは、その空気も大切な戦力である彼女を守るために自然にうまれたのかもしれない、と思うぐらい、彼女の不安症はわかりやすい。

まあ、ちゃんとケアしてあげればその日のうちに大抵は解消するのだけど。

 

異動の多い職場ということもあり、今は彼女が最古参。2年目に入った私も古株になってしまった。

そんなこともあって、とにかく彼女の精神状態のケアにはある意味自分の仕事以上に気を遣っていたりする。(ヲイ

 

 

さて、今日のお昼のこと。

 

その姐さんが事務所の隣の倉庫でなにやら携帯で話している。

子どもを抱えるお母さんだけに昼に電話すること自体は珍しいことではない。

が、珍しく通話をしながら事務所に戻ってきたところを見て「オヤ?」と思う。

 

まあ、プライベートなことだろうし、そしらぬふり、我関せずで通そうかな、と思ったのだが、なぜか電話をしながらも彼女が視線を合わせてくる。元々色白の顔色が青白くみえる。

目元がピンクに染まっている。

なんぞ?と思ったらそのまま定位置の私の隣に。

電話で話しをしながら、なぜか通話中にとったメモをそれとなしに私に見えるように置く。そこには、、、

 

なぜか「カリビアンコム」という私にはなじみ深いけど彼女の人生の中に登場するとは思えない固有名詞が、、、

えー、と思いつつさらにメモに視線を走らせるとヤフーサポートセンターなんて文字が。

 

不安にクシャクシャになりそうなところを踏ん張って勤めて冷静になろうとする声で話す内容は、、、

「コンビニ、、、、ATM、、、請求、、、裁判」

なんてアレな言葉が漏れ聞こえる

 

えーっと、これはもうアレだよね。

 

意を決して通話に割り込む。

「どしたの?」

 

通話しているはずの電話をこちらに向けて堰を切ったようにこちらに説明し始める。

「SMSでヤフーサポートセンターからメッセージが来て。債権があるからすぐ支払ってくださいって。去年の5月ぐらいになんか有料サイト使ったとか、、、」

 

「いや、それ典型的なアレだから。とりあえず切りなよ」

 

「え」

「なんか切っちゃダメって。すぐ払わないと裁判とか言ってる」

 

「まあ、とりあえず正式な請求だったらそういうことは言わないから」

 

「なんなの、これ?」

 

「もー笑っちゃうほどお約束な振り込め詐欺にみえる」

 

「」

 

ためらいながらも「いっぺん保留にさせてもらいます」なんて最後まで丁寧に電話を切る。

 

履歴に残った番号で検索すると詐欺番号として告発されているけど、その告発サイト自体がなんだか怪しげなサイトなんていうコテコテぶり。

 

そこに至る前に本人確認のためとか言われて自分の誕生日と旦那さんの携帯番号を伝えてしまっていたようで、、、

 

そこからは職場中かかって

 ・番号がほかの「業者」に流れる可能性もあるのでしばらく注意すること。

・心配だったら携帯の番号変えよう。

・警察にも窓口あるし、市役所に消費者相談もある。

・住所まではたどり着いてないだろうけど、万が一裁判所からの召集令状が来たらクシャポイするまえにしかるべきところに相談すること。

 

なんてフォローを始める。

 

たまたまその後に事務所に来た余所の部署の彼女と仲の良い上役さんも交えてなんとかムードを変えられたと思うけど、、、

 

 

まさか、ちゃんとしている彼女がそんな話しにまともに取り合うとは思っていなかった。

なんとなく、標的はもっと高齢者とか、あるいはもっと社会を知らない若い子とか、すくなくとももっと頭の中がとっちらかってる人(薬飲んでない状態の私みたいな)かと思い込んでいた。

 

でも、客観的に、かつリアルタイムに状況を見て改めて感じたのは、

「これは地頭では対処できないことなんだろうな」

ということ。

不安につけ込まれている状態っていうのは、ストレスに晒されて視野が狭くなっている状態だ。まして、お母さんであれば自分だけのことではなく家族のことなども背負って考えてしまうだろう(有料サイトとはほど遠い彼女だったが、去年ぐらいからiPadを貸し与えていた息子さんのことを考えてしまったようだ。)

 

 

 

お恥ずかしい話しだが、電話やネットでこそ「仕掛けられた」経験はあっても「だまされる」ところまではいっていない私だけど、実は20代のころ、かの「アール〇バン」からシルクスクリーンを50万円ほどで購入したことがある。ええ、かの著名な「トンズラー」のモデルではないかという噂もあった画家さんの作品で。

 

今考えても不思議なのだが、私は全然その絵が好きじゃ無かったのだ。

 

ちっとも惹かれなったし、飾りたいとも思わなかった。

 

どのみち当時は6畳一間を例によって汚部屋にしていて絵なんか飾る隙もないどころか置き場にも困るようになることは買う前から明白だった。

 

にも関わらず、なぜか1時間ほど缶詰にされてリアルタイムに絵の値段が上がっていく電話のやり取りを聞かされたぐらいで購入のサインをしていた。

 

今思い返してみると、どの絵なら「投資」の対象になり得るか、みたいな基準で考えていて、それで敢えて自分が好きでもない絵を買ったような記憶が微かにある。

 

投資するにしても版画に50万円とかありえんだろう、と思うのは今だから。

 

即断即決を迫られる状況自体が詐欺の舞台装置だ、なんてことも逆に言えばあの経験があるからしっかり自分に刻まれているのかも知れない。

 

 

そう考えると50万ぐらい安い物、なんてことは口が裂けても言えなくて、今にもまして薄給な上に一人暮らしをしていた私はそこを起点に始まった借金地獄にしばらく苦しむことになった。

30前後ぐらいで思い切って親に泣きついて財務体質の改善を図って以降絶対に利子のつく金は借りなくなったしちゃんと対処できなかった悔しさを晴らしたいという思いで財務や投資に関する勉強もかなりして、日本人としては良い意味で「お金にキタナイ」人間になれている、とは思う。

ま、自分で適正と思う程度にリスクは取っているので、今の景気が崩れたらその自己評価も一変するかもしれないけどね(^_^;)

 

 

 

閑話休題

 

思い返した自分の経験も含めて実感するのは、隙があるとかないの話しではないということ。

誰もが遭遇しうることだし、田舎だからと言って手加減してもらえる話しでもない。

事例を学ぶことはすぐにでもできることだし、被害を受ける前に免疫をつけるために講習をうける機会があれば積極的に受けておいた方が良いと思う。

 

ただ、なんでもかんでも疑ってかかるという生き方がでは良い生き方なのかと言えば、そんなことはない、と思う。

可能であるなら人の言葉は素直に受け取りたい。

誰もが信じられる社会があるとするなら、それは総じてコストパフォーマンスの高い社会だと言える。

 

そうなればみんな多かれ少なかれ幸せになれるはずなのになぜそうならないのかと言えば、やはり「格差」が諸悪の根源の一つ、というのが昨今の情勢から割と短絡的に導かれるところではあるけど、私個人としては至上の価値があると信じている「多様性」という言葉もバベルの塔のエピソードを引くまでもなく、コミュニケーションに対するコストにはなり得る。

 

単純じゃないし、単純に捉えようとしてしまうと某国のように自国語が不如意な大統領の誕生みたいな「大事故」を起こすことにもなりかねない。

 

 

 

残念だけど、「各自自分の状況に合わせてそれなりに備えよ」、ぐらいのことしか言えないのかな、、、

 

ある「勇者」への私信的ななにか。

最近、と言うか今年の頭ぐらいからチェックしているブログが「ADHDのラスカルの手帳」

エゴサーチするように、たまにADHDでサーチをかける。そんな過程で見つけた。

 

ADHD持ちと言っても人それぞれ、症状も社会的状況も治療過程もホントに誰一人として自分と全く同じという人には出会わない。

 

でも、ブログに綴られる苦しみの欠片は共通言語として「認識」することができる。

 

完治する類いのものでもないから少しでも有益な情報が欲しい、ということもあるのだけど、その痛みを同病の他人の言葉を通して確認したい、という気持ちが繰り返し「ADHD」情報をサーチする動機になっている気もする。

 

 

池田ラスカル氏の文章の特徴は、とりわけその「痛み」の描写にあると思う。

ADHDの苦しみは多様な表現型を示すけど、なにが苦しいってどんな形をとるにしてもそれがただひたすら「みっともない」ことが苦しさの元なんじゃないかと、個人的には思っている。言ってみれば、その痛みは人間としての矜持をピンポイントで傷つけていくのだ。

 

池田ラスカル氏はどうしてそこまで直視できるのか判らないぐらい、自分の「みっともなさ」を克明にしたためる。

慌てて、取り乱して、子どものように無力にただカオスの波に翻弄される自分を飾りもせずに書き綴る。

その克明さ、隠し立てのなさは、いっそ氏の「強さ」なのではないかと思ったりもするのだ。

 

 

私はもっとずっと弱い。ADHDであることを、なんとなく範囲を限定してカミングアウトしているけど、どうしてもその看板を掲げて暮らすことは出来ていない。手帳をとったら楽になれるかもと思いつつ、それも果たせないでいる。

なにより、カミングアウトをするときでさえ、可能な限り取り繕って格好をつけながら行っている。

 

自分の生活圏は半日もすれば汚部屋、ゴミ屋敷になる。一粒の種から腐海の森が広がるみたいに。

頭の中は取り散らかり、忘れ物、無くし物、落とし物は数知れず。子どものように泣きたい気持ちを堪えながら探すことが嫌で、少しのことならお金で解決する悪癖が抜けない。

勘違い、早とちり、思わず口を突いて出る本音で廻りを傷つける。大人になればシャレでは済まないこともある。今でも自分の発作的な発言が飛び出すことを恐れる気持ちは止まない。

 

そして、どれも多少マシになったって劇的に変わっているわけじゃない。

当たり前なのだが、かっこよさなんて欠片もない。

なのに、恐ろしいことに、私は自分を語るとき、そんな自分ですら取り繕っている。

 

「感動ポルノ」の自作自演。

 

それでいて、どこかで本当の自分を知って欲しいと思っている。

いつか自分を「リプリー」になぞらえて、永遠に虚飾を虚飾で塗り固め続ける自分の苦しさを訴えたことがあるけど、実際のところそんな小器用でもないし、技巧的でもない。もちろん、本人はマット・デイモンとは似ても似つかないしね。

もっと矮小な、「ペンフレンドについた嘘で雁字搦めになる馬鹿な小学生。」ぐらいが関の山。

いや、顔を真っ赤にさせてもまだ「飲んでない」って言い張る酔っ払いぐらいかな。

 

どっちにしても例えてる時点で逃げてる。

 

ありのままのみっともない自分を見つめられない。振り返って書き起こすことができないでいる。

 

本来、僕のように多少なりとも苦しみから逃れることが出来た「脱獄成功者」こそ、情報を共有しなければならないのに。

 

 

 

囚われすぎるより、前に進んだ方が良いという思いもある。それ自体逃げの産物なのかも知れないけど。

なまじ一番苦しい時期を通り抜けたからこそ、過去に囚われて時間を巻き戻してしまうかも知れないと、今は恐れているのかも知れない。わからんけど

この場所は、少しでも自分の経験を記すことが出来れば、と言う想いで用意したはずなのに、実際は筆が思った方に向かっていない。

もっと傷が乾けば、とか、書きためているうちに勢いがつくかもとか、思うこともあるけど、結局単に「苦手なことから逃げてる」ってだけなのかもしれない。

 

 

自分は逃げすぎている、とは思うけど、池田ラスカル氏は直視しすぎているんじゃないか、とも思ったりする。

書くことが癒やしになる、と自分の経験から理解はしているけど。

あるいは、ADHDこそ生まれ持った「自分の最大の武器」という奇妙だけどもし持っていれば共感もしてしまうような思いも、もしかしたらもってみえるのかもしれない。

実際、良く書けているとも思う。ちゃんとしたフォーマットに理路整然と自分のリアルな苦しみを載せるのは勇気と精神力が必要な作業だ。

 

ただ、あまり自罰的にならないで欲しいと、思ったりもする。

ご本人に自覚はないのかもしれないけど、今、少しは楽に生きられるようになった自分と池田ラスカル氏を分けている一番大きな溝は、「必要以上の自己否認」の大きさに他ならないと思う。

低すぎる自己評価はそれ自体反省も改善も産みはしないという冷酷な一面がある。

強烈な自己否認はそれ自体が強力に作用する「認知の歪み」に他ならない。

 

例えば、この記述

 

ADHDで注意欠陥のある私にとっては、単純な作業の繰り返しでも、かなり神経をつかっています。

私のADHD、そして不安障害との逃げられない戦い - ADHDのラスカルの手帳

 

単純な作業の繰り返しは、実はADHDにとって一番苦手な作業だと思う。当たり前な話しだが、まして作業現場が低温倉庫だったりすれば、それはADHDでなくても普通に過酷な現場だ。

 

逆に言えば、その職場でなんとか勤め上げた日々もあることをこそ誇るべきなのかもしれない。

 

そしてもし、「自分には難しいことはできない、サルでもできるレベルの仕事を選ぼう」という無意識の選択があるとしたら、実はその選択は自分が最悪に苦手な分野を指向していることを意味しているのかもしれない。

 

 

私について言えば、結果的に自分をより冷静に客観的に見られるようになったこの1、2年の間にあった「劇的な発見」のうちの一つは、実は自分にも長所がある、と言うことだった。

 

絶対自分が得意ではないと決めつけていた折衝事、会議の議長役、議論等のいわゆるコミュニケーション関連。気がついたらむしろ人材不足の田舎にいれば自分が比較優位に立てていた。

 

施設の修繕、財務処理、書類の調整。ADHDには苦手な分野での経験の積み重ねも、気がついたら自分のポートフォリオに収まっていた。

 

ADHDが向かない職業を、結果的に私も消極的に選択している。具体的にはルーティンワークの多い事務職。それでも、仕事の中身を腑分けしてみれば自分を活かせる分野がいくらでも見つかるようになった。もちろん薬によるブーストがあって初めて実現していることが多いのだけど。

 

思い返すと最大の障壁は仕事に対する恐怖感。そしてそれは、おそらくは、子どもの頃から降り積もった自己否認に起因するのだろうと思う。その重しが取れた瞬間あらゆる所に自分の可能性が無造作に落ちていたことに気付けた。

 

「最後の大きな一歩」はEMDRの施術を受けた2~3ヶ月の間に起こったけど、諸々考えればADHDの診断が出る前を含めて20年以上、可能性を追求した全てのことの積み重ねがあってやっと今の心境にいる。

 

だから、自分の経験を引いても簡単にできる、なんてことは言えない。

 

それでも、道は絶対にある。全部を解決する魔法の合鍵は多分ないけど。ブログの記述の中からも、体を動かすことや、不安症状の解消など、勉強してみえる方向性の中には自分の軌跡と重なる部分も多い。

 

なにより、自分を改善することについて前向きなことが良いと思う。

 

 

この20年でADHDを取り巻く環境は劇的に変わった。

 

リタリンのオーバードゥーズが社会問題になったのが2007年。

ストラテラの成人対象処方が認証されたのが2012年。

コンサータの成人処方解禁2013年。

もちろん、薬はどれも万能薬でない。あくまでアシスト役だけど、それなしで足場を固めるのはとても難しい。

そして、少なくとも日本がADHD罹患者への支援を法的に打ち出した2005年以降(先駆的な医療機関ではもっと前から)ADHDへの対処法の経験値を多くの医療機関が積んだ年月でもある。

自分が経験したものだけでも、認知行動療法、ACT、if-thenメソッド、マインドフルネス瞑想、ワーキングメモリの改善、EMDR等々。

 

池田ラスカル氏にしても、他の若いADHD罹患者にしても、もちろん相応の苦難と努力は要求されるだろうけど、20代の私のように「手はないのかもしれない」と絶望する必要はもはやない。

 

報われる日は意外と早くくるかもしれない。

 

それまで、楽観することも絶望することもなく、ただ粛々とその日がくるという事実を信じて前に進むこと、だけで良いと思う。

 

読書感想文「いつかは別れる。でもそれは今日ではない」について。

 

いつか別れる。でもそれは今日ではない

いつか別れる。でもそれは今日ではない

 

 

久しぶりに詩集らしきものを読んだ。いや、随筆なのだろうか。

 

「韜晦されている」

 

ということがどういう状態なのか、身をもって体験したのは久しぶりのことだった

 

性別も年齢も判らない。

 

そもそも著者の「F」氏とは。 ・男性 ・Twitterでフォロワーが10万人超え(‪@No_001_Bxtxh ‬) ・既婚者 ・新宿に住んでいる

『いつか別れる。でもそれは今日ではない』を読んだ【男性から見た素敵な女性について】 - 自分の為に沸かすミルク

 

この人は男性だと解釈したようだ。

だが、プロフとして掲載されているのは

 

F(エフ)

11月生まれ。黒髪。猫が好き。でも猫アレルギー。好きなものは東京タワーと映画と散歩と冬とペルシャ猫、あと女嫌いな女。

 

「いつかは別れる。でもそれは今日ではない」 より

 

との一文であり、「私の一般論データベース」によれば、「女嫌いな女」を好きなのはむしろ女性にありがちなプロフィールである。しらんけどね

 

むろん、理性的に回答すれば、このプロフィールは性別を韜晦している、ということになる。

 

セフレを常時五人以上抱えている、まさに女の敵の代表格ともいえるような男友達に「セフレってなんですか」と訊くと、「男女の友情の最終到達地点」と即答されたことがある。「じゃあセフレが恋人に昇格したりすることもあったりするんですか」と全国のセフレになったことのある女を代表して私は訊ねた。「彗星が俺の頭に直撃する確率より低い」とか「肘を顎にくっつけられる可能性より低い」とか、そういう回答が返ってくるかとかと思ったが、なんとかれは「あるよ」と答えたのである。

「ある。でもまあ、向こうとこっちの気分次第だけどね」

あぁ、と思った。気分に勝てるものなどこの世に存在しない。

 

「いつかは別れる。でもそれは今日ではない」058 セフレの品格 より 

 

「女を代表する」、という書きぶりは自身が「セフレになったことのある女性」であり、その属性を持つ集団を代表する形で発言している、とも取れるが、回答を知りたいであろう、その属性集団の意志を(勝手に想像した上で)代行して発言している、とも取れなくもない。

 

プロフが読めない、と言う点では、前半ほど書かれていることの中に「青臭くて読むに堪えない」ことが散見されるのに、章が進むにつれて書いている人間の中身がそれなりに熟成されていく傾向がある、ということも感じた。

 

出だしの章で連発されている「安い恋愛ノウハウ」の連発には閉口する。察するに、自分はある程度老成している、と勘違いしている20代後半の男性からより若い女性に向けたもの、のように私には読めた。30代手前に自分はもう若くない、とか真顔で言う手合いの書きそうなこと。

 

そんなものに需要があるなんて、思いもよらなかった。

 

実は、人から薦められたから読んだ本だった。

 

Jさん、いったいどうしちゃったんだろう、というのが偽らざる最初の感想だった。

 

実際、ネットの書評はかなりブレのあるものだったようだ。

 

恐らく答えは

 

 こんなことが書きたいのではなかったし、こんな人生を歩む予定ではなかった。と思いながら、こんなことを書いていたら、もう春になって、こんな年齢になっていた。この本の文章は、すべて携帯電話で書いた。メールの下書きに書いては自分で自分に送り続けた。書いている間ずっと、十九歳の時、東京で一人ぼっちだった自分のことを考えていた。

  あなたは僕を見つけたつもりだろうけど、もうとっくに遅いよ。さようなら。

 

「いつかは別れる。でもそれは今日ではない」おわりに より

 

といったところから読み解くことができるのかな、と思っている。

 

とても勇敢に、青いなりの時分にしか書けないことも編集削除せずに引っ張り出してきて、需要があればどうぞと世に問うたのかもしれない。

あるいは、もしかしたら10年単位で書き連ねた物をまとめて発表する、というこの形態を実験的に採用したのかも知れない、とも思ったり。

 

と、言うわけで個人的には全文通して全てに共感する、とはおもわない。

ひょっとしたら夭逝した天才文学少年の遺したノートのように、ところどころに見つかるまばゆい煌めきを楽しむ、というのが特に前半部分の正しい楽しみ方なのかも知れない。

 

Twitter上のプロモーションの「巧みさ」も含め、これは、「ある日の文学少年少女達」に向けた、おまえら、みんなこんなことやってただろ?と言う公開羞恥プレイともとれる。

 

ええ、僕はまだやってます。(単なる被害妄想です

 

せめてこのぐらい上手に出来るなら良かったのに、とか、明日から本気出せばこのぐらい、と思えるところが憎たらしい。(思うだけで絶対届かないだろうけど

 

後半の少し老成した内容が個人的にはまともに響く。良い本に出会ったときの他人から人生を分けてもらっている贅沢感を存分に味わえる。

 

 私が一等好きなのは、やらないことや言わないことは互いに完全に一致しているのに、やることも言うことも決して自分とは似ても似つかない人だ。価値観は一部同じ、そして一部全然違う。そのことに互いに敬意を持ちあえるひとである。

 

「いつかは別れる。でもそれは今日ではない 061嫌いなものが一致すると長続きする理由 

 

今の自分よりずっとまだ若い時分に書かれている気配がある。きっとこの人なりに濃密な人生を歩んでいて、私よりずっと確かな足取りで時を積んでいるのだろうと少し悲しくなったり。こんな素敵で言われてみれば当たり前な気付きを、もっと早く分けて欲しかった。

 

考えてみれば、今読んでいる本の半数以上は自分より年下の著したもので、もちろん「若いな」と思いながら読むものもあるが、そんなことを意識せずに「先生」に教えを請うている心持ちで読んでいたりもする。

 

気にする方がおかしいのだろう。

 

ADHDに流されて「失った」と感じる時間を悔いることからは意識してもなかなか逃れられない。悪癖だと思う。

 

むしろ、とてつもない時間をかけた回復の過程こそ自分のオリジナルとして誇れるようになりたい。

 

そんな、本の内容と関係のないことを読み進める中ずっと考えてしまったのは、この韜晦し続ける本のもつ、ひとつのメカニズムの作用なのかもしれない、と言ってしまったら言い過ぎなのだろう、な。